情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

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調子いい。天気のせい?

 

対面授業で宝塚の人がきて、ラインダンスをおしえてくれた。古風な「踊り子」っぽい動作、昔の映像でしか見たことのないようなそれを、自分の身体で実践するのは妙に可笑しくて楽しかった。ダンス・踊りは基本的に滑稽なものだ。その踊りがされていた時代や地域が、自分の生きているそれと一致している場合は、その価値観の中に認知が埋没しきっているから気がつかないだけで、距離をとってみるとどれもヘンテコに見えてくるはず。それは衣服とかファッションもそう。人間の自然状態に反しているから、社会的な学習がないと、それを「そういうもの」としては認識できない。「そういうもの」として認識しない場合、そこにあるのは違和感のみなので、笑いしか引き起こされない。

ラインダンスやその前後の一連の流れ、細かい所作、だって、動き自体は滑稽で面白いものなのだけど、きっと銀橋でプロの女の子たちが並んでするそれを見れば、その滑稽さを越えた圧巻、の気持ちになるだろう。ディズニーランドのダンサーやマーチングに対してもいつも同じことを思う。その動作を徹底的にやり抜いているから、可笑しさを越えた圧倒がうまれる、これのことこそ「パフォーマンス力」なのだなあ、と今のところ私は理解している。

踊りのパフォーマンス力が高まった状態、というのは、ようするに「動きのひとつひとつの意味が強まった状態」なのではないか?

私自身がよく、踊らなければならなくなったとき、「その動きをやった意味」を薄めようとして、人間の日常動作、非意図的動作、に近づけようとしてしまいがちだからこそ、こういうことを思う。たぶん自分の身体が強いメッセージ性を持ってしまう状態が怖いのだ、その他者の視線とそこから引き出される意図について、引き受ける自信がないから。

こういう雑念を排して、身体のメッセージ出力を最大限に引き出し、エネルギーとかパワーとかオーラを放つ、ということが舞台の上でできる人のことは、本当にすごいなあ、と思う、その概念自体に、惚れているところがある。

 

授業の終わりに、宝塚の厳しい決まりや徹底管理された組織のありかたについて話してくれるタイムがあった。よく聞く「宝塚音楽学校のぼやき」の類のあれ。そこには、「昔は大変だったものだわ」という郷愁のニュアンスと、全てが過去になってしまったからこそ完全な笑い話として語ることのできる余裕と、自分がそこの一部であるのだということへの誇りや恩や感謝、がすべてある、そういう語り口だった。

わたしは個人的にはああいうコミュニティのありかたがとても嫌いだ、閉じた世界の中でなんでもまかり通ってしまう感じ。特に今日の先生は世代の違いもかなりあるから、昔の踊り子の女の子たちが完全にただ商品として扱われ、管理され、良い待遇も悪い待遇もそれはすべて商品としての運命の中にあるもので、という価値観が巧妙に隠されてすらいない、という状態がありありと想像できてしまって、げんなりした納得、の気持ちが湧き上がった。それが不幸せということでは決してないし、彼女たち自身がそれを容認してそこに入っているわけだし、それでなくては得られなかったものがある、ということは全部わかっているけど、少なくとも、求められているリアクション(なごやかに聞く、くろう話として笑う、など)が自然にできる感じの心境ではなかった。しかし未婚女性じゃなければ商品にはならない、というのは面白い。面白いというのはたいてい、「そこを観察して何某かのことが言える」という意味で。

 

最近は授業をやるだけで精一杯になって、リマインダーの中のタスクを全然消化できない、これを気にしているので、駅から自宅に歩いて帰る間に、「今日はできるかな、できないかな」と運だめしのような心地でいる。こういうときに、自分のことを信じる、たよりにする、という発想が役立つのだろうな。

 

わたしが3歳にならないぐらいの頃、祖母とふたりで本屋に行って、帰りのバスが間に合わなそう、ということになったとき、「諦めるの?」と言われたから、一緒に走って間に合ったんだよ、という話を最近きいて、それ以来そいつがよく心の中にあらわれる。その時の記憶はもちろん私にはないし、だから当然それについて思いを馳せることはなかったけど、たしかにずっと私の中にそいつのマインドは生きていた。体調が悪くて小学校を休みたかったときも、ピアノをやめたくなったときも、今回ばかりは間に合わないと定期テストの勉強をやめたくなったときも、重大な過ちについて友達に打ち明けて謝らなければいけないときも、ずっと心の中に「諦めるの?」のガキがいる。

 

日記を毎日かいている。

日々の実践と経験の中には気づきや身体感覚がたくさん散らばっていて、それはググってもわからないことだから、ひとつも落としたり忘れたりしたくない。

小論文を書く訓練をしたせいで文章が不必要に硬いのがいつも気になっている。

でも書かなきゃいけない、そのことを思うとき、プレシャスって映画の先生のことを思い出す。過酷な家庭環境を生き抜く生徒に対して、その美しい先生が、ただひたすら「書きなさい」と教えていたから。どういう文脈なのか、なぜ「書きなさい」というのかその時はまったくわからなかったけど、今は、書いているからなんとなくわかる気がする。