情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0412

ベッドの中から受けたオンライン授業で「あなたは何をつくっている人ですか」と問われるタイプの自己紹介をするタイムがあって、かなり嫌だ、と思ったけれど、そういうのはやらないように考えないように意識的にふるまった。やらされるものは、やっていいと言われているのであって、だから自分の中にあるものだけで都度都度きちんとこたえていけばいい、躊躇せず、決して逃げずに。まっすぐに、負けたり失敗したり悔しがったりをまっとうしながら。

 

毎週演劇ワークショップがある、みたいな感じの授業を受けた。今日の先生はとても声が大きくて、立ち方歩き方話し方、すべて訓練された演劇身体で、わたしには威圧的におもえた。シアターゲーム、よくあるワークショップのアイスブレイクでやるようなあそびをいくつかやった。こういうのは、自意識と体を引き離すためにやっている、と思う。わたしの身体には自意識ががんじがらめになっていて、その精神を守るために身体じたいがつねに防衛の姿勢をとってしまっている。演劇というのは、基本的には人間の身体がもともと持っている意味を無効化して、新たな意味を纏う、それによって虚構を立ち上げる、という作業なのだろう、だから、人間を真っ白なキャンバスに戻す作業、つまり「社会的な意味や自我や文脈を離れた、ニュートラルな身体」を作り上げる作業、が必要なのかもしれない。

「表現はアウトプットが基本なので、出力を高める、自分がそこにいるということをアピールしろ」と先生が言っていたのは印象的だった。わたしにすごく欠けていることだから。

 

授業のあと、同期の子とごはんに行ってたくさんおしゃべりした。見た目も生き方もシュッとしてて綺麗でスタイリッシュな子、濁った汁を外に漏らさずにいられる子、という印象で、それを私はうらやましくあこがれながら見てきたけど、あらためてちゃんと話すと、脆く内省的でわかりあえる部分があって、よかった。

バイトや就職で社会と接すること、そこでいちいち傷ついたり絶望したりすること、とかについて話した。学科のめぐまれた環境、コロニー、ユートピアに思いを馳せる。学科の中の、しかも私たちの学年は、男/女でいなくてよい、という雰囲気が比較的あって、それはみんながそう望み、無意識的に敏感になって作り上げた空気なのだな、と思う。

それと彼女はSNSの使い方に関して、「瞬間的な快楽のためにSNSを使うのはよくない」と言っていた、それは私もやってしまっている!いつもその子が綺麗にいられるのは、自然にそうなるんではなくて、ちゃんとそうしようと思ってやっているんだと気づく。そういうのを品性と呼ぶのかも。

 

家に帰ると理由のわからない謎のどでかい眠気が来て、すこし眠ってしまった。

また夜も更けて「なにか食べなきゃ死ぬ」と思ってから買い物に行く。家にはレタスとトマトとふきと米しかなかったからタンパク質などを得ないといけない。よる11時ごろというだけで真夜中のような顔をしている街。ほんとうなら酔っ払いがたくさん歩いているはずなのに。自分の時間に合わせて動こうとするとどうしても、街の時間に置いていかれてしまう、こんな日々が恒例になっているがいつか懐かしく思い出せる日はくるんだろうか、

取り返すように家を片付けたり溜まっているタスクに手をつけたりしたいけれど、なにもできぬまま夜が明けていく。本を読めばいいのに、ツイッターのいろいろなアカウントでいろいろな暴れているすきな人々を眺めるのに時間をつかってしまう。とても好きなオタクがいて、その人のオタクとしてのスタンスが好きだから何に心暴れていても好き、もっと見せてくれ、の気持ちになる。言葉選びのニュアンスがすてきな人間は、なににしても信用できる。自分自身の体と心を引き受けて実践する恋愛や人間関係のドラマをたぶん彼女はほとんどやめている、「永遠に明日も明後日も一緒にお昼ご飯を食べたいな、というのが自分の最大限の好意だ」と言っていたのも、それが実在の人間関係だからだと思う、それでも、フィクションを解釈し、フィクションを紡ぐことを通して、あれほどまでに深く重く繊細に、恋愛や人間関係を生き、それに囚われて生活のすべてが貫かれている人は、そうなかなかいない。そういうパターンの人間がいるということが、そのままいとしく、とうとく思う。

部屋が青くあかるくなっていく中で、演劇制作に生活を捧げた人のnoteを読み耽った。ひとの半生、それが現実であるという一点の壮絶さ、これから自分が踏み入れるかもしれない場所に巣食う社会構造の問題点、