情操教育‪α‬

わたしのこと好きな人だけが読んでいい日記帳

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女性らしさの語法による異性愛小説を読むと、しんどい気持ちになるのは「どちら」のせいなのかわからない。少なくとも電車の中とか、要するに人前で読むもんじゃない。似合いすぎてしまったら困るから。

とにかくこの、にっちもっさっちもいかない状況を変えるために人と会うことにした。気軽さを演出するのが本当に苦手だ、つねに遠さがある、空気の塊が挟まる。そこに生じる違和感がこうして大人になると「はーなんかお洒落ですね」という言葉に変換されるのだということを知った。

恋愛をするにあたって、自分もまた「選ぶ立場」にあるという当たり前のことが全然受け入れられない。そういうマインドがぜんぜんない、ということに気づかされてしまって凹んだ。

すごすご帰ろうにも耐えられなかったので、初めての街に行った。

場があって、酒と喋りを提供して、それを求めて人が集まって、コミュニティができて、という構造があるのだということを理解した。

その街では、セックスもジェンダーもアクセサリーのようになっている!つまり、隠す必要がなく表に出ていて、各々がきちんと選んでプロデュースしたものを誇示していて、しかし本質ではなくあくまでも装飾で、装飾であるからには煌びやかで、かつカジュアルでもある。これは新鮮で、私にとっても居心地のいい空気だった。

それから、「そういう人」として存在することができること、そういう話を誰かに大っぴらにできること、による息のしやすさはある。透明化されず周縁化されず、きちんと存在することができる。「ないことにしている感情」をだれかに話して「ある感情」にすることができる。これは自己肯定を復活させる容易い手段だ。

とにかく人と会う、飽きもせず人と喋りまくる、というのはすっきりして気持ちがよく、案外、蓄積していく疲労の感はない。ただこうしてぐじぐじひとりで文字にしたりして内省する時間もなかったら死んでしまう。

「いい子でいる必要のない街」と店子さんが言っていた。

悪友、みたいなのって自分にはあんまりいなかったので、愉快な人々のところにまた行く機会があれば、それはいいかもしれない。

どこにいたって完璧に居心地が良い、安住できる、ということは私には一度もなかったのだから、今回だってそうだし、だけどだからこそ、あらゆる可能性の面々を切り取って、それをキメラのように複合して、自己と居場所をかたちづくってゆくしかない。

近からず遠からず、の予感のする岩をたくさん拾って積み上げて、そこにオリジナルの形ができることを期待して!

そのうえでやっぱり私はもう、もはや善い女の子にはなれそうにないので、多少悪いことをしてでも、どこまでも行くしかないのだ、

とりあえず状況が前進した。これでまた、本業を頑張ろうと思う。