○日記
・書きかけの楽譜よりも、白紙の時間のほうが清潔な気がしてしまう
・無粋な質問をじゃんじゃんして、誤解の芽を潰しておく、その役目を買って出る、人がいると、人間関係は気まずくなりにくい。これを他人任せにしないこと。
・私があなたの母では無いということの悲しさ、もしくは私があなたの母では無かったということの救い、について
・この時期に出た新譜の感想を、秋の空気がどうとかいって評するの、手抜きだと思う。こういう人はきっと、冬生まれの人にもこもこ靴下とかプレゼントするんだろうな。
・好きな作家の文章をノートに写経し始めたのだが、ひらがなが、ひとつも上手く書けなくなっていた。自分の字の乱れの中に、または自分の声の不安定さの中に、人格の不器用さがすべて凝縮されているような気になる。いつかシリアスな手紙をしたためる機会があっても、こんな文字ではおもしろくなってしまうから大変だ
・ユニバのハロウィンイベントのダンス動画がSNSで回ってきて、意味わからないけど涙が出た。怪物たちの見た目が怖すぎる一方で振る舞いが徹底的に明るすぎて、その愉快な祝祭が高潔に思え、そこに人間がカメラを向けることは醜かったから?
・地雷がいっぱい埋まってる人間なんか面倒くさいと思うから、自分できちんと処理するように努力したい。くだらない過去に縛られて尊い関係をぶち壊しそうになる火種を、自分の中に持っていたくない
・私が洗面所に立って化粧をするのは、明るい窓のある位置や机と椅子の高さや数など、実家の間取りに生活習慣が規定された結果なのだと気づいた。
・私が赤子のころから今の今まで、家族から「可愛い一人娘!!」と呪いのように吹き込まれていること。完全に聞き流してはいるけれど、こういうことの影響って無視できるものでもないのだろうなと思う。このように育ってノンバイナリーとか選べるはずが無いだろ
・靴に引っ付いてきた植物の種を摘み取るとき、できるだけ芽を出しやすそうなところに蒔いてやろうかと考える。自然界にいらぬ作為、自己満足のお節介、おまじない程度のこと。
・生理がうつる、という現象について人に話した直後、松浦理英子『優しい去勢のために』を読み返していたら、それについてのエッセイがあった。以下引用。
あなたも知っているだろうか。月経がうつることを。わたしが月経中の者に身を寄せて親しく戯れればわたしもまた血を噴き始めることを。鳴り響くドラムが間近のドラムの膜を共振させるのにも似て、女性器を持った者同士は響き合うのだ。
物事を女性器だの子宮だの身体に還元して語るのはきしょくて好きじゃないんだけど、あの痛みが音であって、この身体がドラム内蔵だと思えるのはちょっと楽しいかもしれない。
同じ文章の中で、生理のことを「臓器の瓦礫ごと性器を葬り去る」と表現されているのも愉快。
・昔コンテンツの沼にいたときに使っていたSNSアカウント、をひさびさに見に行った。フォロー20同士とかでエアリプしてキャッキャしてたはずのアカウントが、私が数年放置する間にジャンル移動し、1000近いフォロワーを抱えるデカアカウントになっていた。わたしの知らない間に、なにを見てなにに狂いなにを築いていたの
・努力は他人がするものではなく自分がするもので、他人の行動を外から努力と名づけて呼ぶことは、あまり気持ちがよくないと感じる。(アイドルオーディション番組とかーー)
・でも逆に「韓国アイドル研究生時代の伝説苦労話まとめ」みたいなのを探してきて、それみたいに暮らしてみようとしたり、しちゃう日もある(自分が努力なるものをするために他人の努力なるものをトレースするという)
・道端のガードレールなんかを蹴り飛ばしそうになってしまうから、なんとかその衝動を抑えるために、全力ダッシュする帰路などがある。
・自分が自分のことで痛むよりも、大切な他者が痛むこと、の方が一般に苦しい。どこが痛いのか、または痛くないのか、どのように痛いのか、どの程度痛いのか、どの程度回復しつつあるのか、など、直接に感知し得ないから。
・鬱状態の家族を家族がケアしていたとき、ケアする側の家族は、家族の苦しみに対して心を痛めると同時に、以前とは大きく変わってしまい未知のものとなった家族の様子そのものに深い断絶を感じ、ショックと不安を感じているようだった。
また心理的な回復は言語的な次元の解決でどうにかなるものではないのだが、言葉で発せられたSOSに対して言葉を通じて歩み寄ろうとしてしまって失敗し、自分の存在意義を疑う、ような苦しみがあるみたいだった。大切な人が、自分の言葉が届かないところに行ってしまった途方もなさ。あの時、ケアする側の家族もケアを必要としていた。
・私はあまりにも無知で、だからせめて偶然拾ったひとつのものを着実に握りしめていたいと思う。
・東海オンエアはある意味では奇跡みたいなホモソの成功例で、あれの一員になってみたいと夢想することがないでもなかった。
彼らの生活はホモソーシャルな関係に覆い尽くされコンテンツとしてほとんどの瞬間が切り取られもし、私的領域が入り込む隙間がないが、彼らが車や女や家庭を所有しない訳もない。
ホモソーシャル成員の妻となる女は、黒衣としてあるいはトロフィーとして、ホモソーシャルの守り手となる立ち回りしか許されないだろう、彼女の夫はもう既にホモソーシャルと結婚しているゆえ!
・震災の描写が含まれると注意書きのあった映画の中に、レイプ(未遂?)の直接的な描写があり、そちらについてはアナウンスがなかった、ことに気がついた。私はどちらにも少しだけびっくりし、ただ無いんだなと思っただけなので、このことの是非について言いたいのではない。たとえば映画では、肌感覚として、性暴力のフラッシュバックに配慮するアナウンスはある方が珍しい。これは被害者のPTSD発症率やその重さに準じて決定されているのではないので、性暴力が私的で個人的な性質を持っているせいか、または映画の題材としてあまりにもレイプ描写が自然なもの(カメラを向けるべきもの)と思われすぎ、多く描写されすぎてきたせいかもしれない。
・しかしこのレイプ未遂という表現、レイプとレイプ未遂とを分けて考えるのは、どこまでも加害者視点の表現である、ということはもっと言われるべきだと思う。強制性交が起きる瞬間と、性被害が起きる瞬間は一致しない。
・バイト先の人たち、年下の学生であっても仕事できない人があんまりいない。できない人はみんな淘汰されやめていくのだろうか?と思うほど、大体の人が仕事できる。でも普通に考えたら、単にたぶん時間の問題なんだよな、
ということを思うと、私は同じ業務を4年とか続けることに耐えられるのだろうか
最近、12年とかバイトしてた人が妊娠を機に退職していった。菓子折りと一緒にえらく感傷的な手紙が残されていたが、12年もやってたならそれはもう人生だろう
・映画館のアルバイトは、違う映画が1週間ごとに公開されること、それによって景観や環境が微妙に異なること、が継続する上ではせめてもの救いという気がする。
接客とかってその場その場で違うことが起こる、それが一生続いていくタイプの仕事、と言えるけど、つねに目の前の現実が全てであって、一生未来の方を指向していかない、このことに対して目眩がしそうになることはないんだろうか
接客の面白いところは、やわらかにコミュニケーションの主導権を握る練習ができるところ、そしてやっぱりパフォーマンスなので明文化されていないコツや上手い下手が明確に存在しているところ。得意な人を見ているとシンプルにすごいなーかっこいいなーと思う。
・映画館でアルバイトを始めたことにより、映画へのハードルがガン下がりし、映画の流し見が躊躇なくできるようになった。ワンシーンだけでも見かけた意味があると思えるようになったから?家を映画館にしたつもりで、サブスクを流しっぱなしにしたりとか
・一生に着られる洋服はあまりないのだから、もっと良いものを自分に着せてやればよかった、みたいなのを前にエッセイで読んだのを思い出した。服って無限回着ないといけない気がして適当なもんばっかり着てしまうが、時間にも若さにも限りがあるし、勿体無いのかもしれない。
・ここにきて「生き方」について考えてる。もうこの季節が過ぎたら、次に走り始めたら、あと数年はしばらく止まらずに突っ切りたいが
・「女であるからこそ女を愛するのだと確信しつつ、それでも自分が女でないもの(愛さないもの)にならなければ愛が達成されない、というダイクの苦悩」という物語の型が、存在するかも?
・以前私に「お金がないからといって夜の仕事はしない方がいい、変な意識高い系みたいになる傾向があるから」とちょっと余計な忠告をしてくれた人(その発言自体がちょっとどうかと思う)がいた。金銭感覚がどうとか健康面でどうとかじゃないところに嫌なリアリティがあったのが印象的で、たまに思い出す。
でもそれが本当だとして、彼女たちが「意識高い系みたいになる」のが何故なのかちょっとわかる。重圧の中で孤独に耐えながら病まずに進むべき方向を見失わずにいるためには、「意識が高い」と呼ばれるような異常性を含んだ向上心に思考を浸す必要があるってことだと思う。
・親しい人が激務や理不尽な職場環境に苦しめられている話を聞くと、本当にくやしい気持ちになる。
彼女のもっている素敵なもの、責任感や勤勉さや真面目さがどうやって培われてきた尊いものなのか、少しは私も知っているつもりでいるから、それがぽっと出の企業に都合よく使われ、搾取されて壊されてしまうのは、とてもつらい。
・他人をケアできるためのセルフケアというのがある。他者に注げるだけの余裕をもつために自分がまず自分を満たし、幸せでいようとつとめる。
・所詮、性別は世俗の領域のことなので、精神が世俗の次元に降りている時だけ私は性別の話をしているのだ
・本当に人生八方塞がりといった状態で停滞を感じているが、道がなくても端から身幅に合う抜け穴を探すつもりでやってきているのだった
・多様な嗅覚情報を得る目的で散歩をしている気がする。視覚・聴覚・触覚はずっと家の中にいても変化をつける方法が結構あるけど、匂いばかりは部屋を出なくちゃ変えられない。排気ガスや植物や食べ物や香水や、ちょっと歩くだけで、嗅覚の世界は鮮やか。
・たとえばフェミニズムへの距離、こういう類のことは、ひとりで握りしめるしかない。
フェミニズムへの距離、について仲間と書いたり話したりできたとして、「フェミニズムへの距離、への距離」が生じるだけ。
ひとり一派、一枚岩にならない、を貫くのは本当に難しいことだ。
・フェミニズムの範疇にあることを考えたり勉強したりすることと、フェミニズムを「引き受けること」、は大きな違いがあるのか?
女性についての解釈、権利と法律、表象と文化、現実に生きた女たちのあらゆるパターン、女性性なるもの、そういうことを徹底的に並べ立てて考えるのが自分のやっていくことの裏テーマ、と決めてはいるものの、それを「やっている」というには、あまりにも自分の立場と相容れないものが含まれ過ぎている。
フェミニズムと決別しながらも手を繋いでいるうちに、現実の人間関係から手を離されるというようなことはこれまで自分もあったし、だから思想の領域だけでもどっぷり連帯に浸かろうとしてしまう人のことをなかなか責められない、
私は思想のために生きず、思想を命と愛のために利用するつもりでいるが、命も愛も思想のためにありという生き方の人もいるのだろうし
・金木犀の香水が嫌われるのは、金木犀の香りはあの空気の冷たさによって成立しているのに対して、香水は人肌の温かさによって成立しているため、だと思う。今年の暖かすぎる秋の金木犀がやや鬱陶しかったせいで気がついた。
・「旦那デスノート」というサイトを以前からたまに覗いている。本当にヤバい殺人教唆みたいなものも混じっている悪質なサイトではあるが、あそこに綴られている怨嗟のほとんどが「逃げられない者たち」の言葉であることは、読んでいればわかる。
殺意と加害欲は違う。配偶者を殺したいほど憎む感情なんて、そうそう無から湧くもんではなくて、既に現実の生活の中に起きているDVやモラハラへの報復心であることも少なくない。
離れるほどではない、離れるという発想がない、物理的心理的社会的事情から離れることが不可能、いろんな程度があるが、逃げていないから、インターネットに呪いを吐き流すしかないし、殺せないから死ねと念じるしかないということ。(実際に殺しているかのような投稿も含まれるのが本当に怖いところ)
・被害意識は強く共鳴し、増幅する性質があるらしい。そのことへの強い恐れがある。
・過去のノートを読み返すと「実を食すには、いちばん良い時に刈り取る必要がある。今回は枯らしてしまいたくない」と書かれていた。
・痛みも問題も放置し続けられることは強さでもあるが、致命的な弱さにもなりうる。
・早く楽になりたいとずっと思っている。なんとか毎日を生きつなぐ、というような感覚
・馬鹿みたいだけど馬鹿みたいな時間しか救いにならない、みたいなことってある
・もう思春期のころからずっと、他人の人生に思い切り出しゃばって、巻き込んで、めちゃくちゃにしてしまいたいと思っているところを、なんとかズタズタにしてしまわないように、ブレーキを踏み続けていて、それでなんとかなっている、もうちょっとうまくバランス取れるようになるといいね、
・神経は25歳ぐらいまで発達するらしい、じゃあまあ全てしょうがないかと思える
・クリスピークリームドーナツのコーヒーってあの甘すぎるドーナツの味と完全にバランスとれるようにできてる?天才
・普通に正社員としてフルタイムで働いて、普通に好きな人と一緒に住んで、金曜夜の晩酌を楽しんで、という他人の生活に憧れる日もあるが、これは正確には実態のなさへの憧れであって、本当にそれが欲しいわけではない。
・「冷え性 服嫌い」「裸族 寒がり」等で検索かけるも有益な情報得られず。だって、筋肉がないから冷えるし、筋肉がないから服重いと疲れるのでは?
・最近は何かを見て、傷つかないということがあまりない。そういう時は、持ち物を見ている。
例えばお気に入りの靴の色や形、表面の材質、などをじっと見て感じる。
それは意味を含まない、具体性のある美、だし、既に自分が手に入れたものだから、心を傷つけることがない。
・ユーチューブみてたら「今の広告(パイパンアマギフ6万円)はご自身に関連していると思いますか。」って聞かれた
・ユーチューブみてたら「このサービス(消費者金融各種)の中でどれを利用したいと思いますか。」って聞かれた
・他人に縋らないために自分の強さに乾杯する夜があってもいいし、本当は強さだとかに縋る必要もないくらいすべてを許していられたらいい
・いつでも何か別の厄介事に邪魔されて集中できない、ことについていっそ割り切ることにした
・自分の原体験たる音楽のひとつ、おおかみこどもの雨と雪のサウンドトラックを久々に聴いた。
あのピアノの、今ここで弾いてる感触、今まさにうまれたような、音の生々しさあたらしさ、こそが好きだったのだと理解した。
・お昼寝の方がよく眠れるのは、先がまだいっぱいあるから?
夜は、夜にやりたいことがいっぱいありすぎて、夜になったぞーというゆとりが全然なく、焦るばかり、一方で昼というものへの解像度は粗く、漠然としていて、この漠然を眠りで塗りつぶすのは容易
・はあ、あと3分でぜんぶ連絡をしなきゃ、みたいな、それをストレスと思わないためには?
→「端から自分は自由の身ではなかった」と思うことだ
・現実を欲望に近づける運動と、欲望を現実に近づける運動と、がある、これの向きに気を配る。
・腰を据えてじっくり考えたいという気持ちがあるとき、腰を据えて考えるような方法ばかりでは解決しないということもわかってきた
・心理的移動距離っていう新尺度を開発した。多くの視点を持ったり、幾つも先のことまで考えたり、大きなスケールで物事を考えたり、まったく別のところに考えを結びつけたり、するとこれが増える。
・他者を自己の内部化することと、自己を他者に外部化することと、があって、後者の方について急にピンときた。前者ばかりではそりゃあおかしくなるわな
・もうずっと前から、私を巻き込んで駆動してくれるエンジンのような他者を待っていたし求めていた、自分のことをブレーキやハンドルがとくいな人間だと思い込んでいたから、でも本当は私ががんばって苦手なエンジンをやる方がうまくいくっぽいということもわかりはじめていて、であれば私をエンジンルームへと駆り立ててくれるような他者と一緒に居たいと思うように、なってきている
・人とだいじな話をする時は、たいていお腹がすいている
○生きててえらい
それほど深刻な困り事には繋がっていないと思い込んでいるが、長い目で見たらかなり生き方に支障が出ている気がするトラウマ、に向き合う作業をやるにあたって、他者の助けが必要と思い、カウンセリングに通い始めた。しまい込んで蓋をしていた過去を掘り起こすと、思っていたよりも全然大丈夫な状態ではないことに気付かされ、若干後悔もあるものの、自分を救う理論を求めて勉強も始めた。
影響として現れる心身の不調について「それは症状ですよ」と強調される。
「症状」の枠組みに自分を押し込めることで、救いになることが有るってことなんだろうか、例えば差別や社会構造についての知識を得て、これは自分の問題ではなく「われわれ」の問題であった、と気づく時のように?
治療、進路決め、しっかりとした生活構築などいろいろなことが並行に進みながら、なんとか制作をやめずにいる。
まず、自分が本当に欲しいものは何なのか、改めてよく考え直して、環境が適切か?時間と金銭と体力をどう使うべきか?なども計算しなおした、一時停止の10月!
ご飯を食べながら唐突に泣きそうになり、いや「泣きながらご飯を食べたことのある人は~」のやつじゃん、と思って泣き止んだり、生きたい生きたい生きたいと思いながら洗濯を回したり、生活を堅実に保ちながらとりあえず今日できた分を褒める、を繰り返す。
今月はほとんど毎日自炊をした。自炊というのはレペゼン台所のものを食べるという意味で、名もなき肉野菜炒めとかハムチーズトーストとかもそう呼ぶ。
最近は朝から午前中に労働(日銭稼ぎ)の予定を入れるスタイルにハマっているので、簡単な朝ごはんを用意して食べ、働いて、帰ってきてご飯を作って食べ、制作や仕事をしてまたご飯を作って食べる、ということもできるようになってきた。
これを続けていると、買って食べるのは割高(それも味の割に)ということがわかってくる、じゃあ弁当を買うときわれわれは何にお金を払っているのか、と考えると、「作る手間」だと今まで思っていたが、厳密に言えば「次食べるものとそれを用意する時間について考える精神的コスト」の方にお金を払ってるんじゃないか、という気がしてきた。定期的に「ご飯を用意しなきゃ」みたいなことを思うのって、ものすごく気が散る。
弁当を買う時われわれは、食に対して無関心でいても生きていける権利を買っている。だから売られる食べ物には大抵名前がついている(記号でものを食べるためには・食べ物を選ぶためには名前が要る)。
作ったご飯の写真を家族に送ると、母や祖母が喜んでレシピを教えてくれるようになった。
パスタを食べる習慣がしばらくなかったが、パスタのソースを自分で作ることも覚えた。冷凍ブロッコリーが役に立つ。
カレーは材料が日持ちする上、何回も食べられてお得、という事実を再認識。
本当はカレーってジップロックで保存すれば冷凍するにも便利らしいが、カレーをジップロックに入れるのって、あまりにも見た目がうんちすぎる。うんちすぎるという理由でジップロックの案は没になった。1食目のカレーを食べてる間に鍋を即冷却したのち冷蔵庫に保存して、食べる分だけフライパンで加熱する、という方法に落ち着いた。
親切な叔母からレトルト食品をいっぱいもらったが、レトルトのカレーや親子丼は具が少なくて虚しいので、これも具材を足してフライパンで温める。「レトルト食品を湯煎で温めて熱々のパウチを触って開ける時の嫌さ」は、最初から自炊をする面倒くささをギリギリ上回る不快感だと毎度思っていたので、フライパン調理の導入によってこの点も解決となった。
楽しみのためでなく効率化のために自炊をする人はみな、「大量調理と大量保存で料理の回数を減らす」という技を駆使するのが鉄則っぽいのだが、「保存」がどうしても嫌すぎて、この攻略方法を採用できない。
これまであまりに多くの食材を冷凍焼けさせてきたせいで、冷凍した食物=美味しくない、という図式が脳内に完璧にできあがってしまっているし、食材や料理を「1食分に小分けにする」とかいうのも意味わからん、今使わないものの量を計算するとか無理。ジップロックってちょっと高いから使うのに躊躇があるとか、そういうせせこましさも関係して、とにかく冷凍庫はうどんとアイスのためにスペースを空けておきたい。(でも冷凍ひき肉はどう考えても便利......)
だいたい自炊を面倒くさく感じないためには、毎日ちょっとずつ調理をやる、というのがコツなように思う。
蛇口が錆びる前に捻っておく、毎日ちょっとずつでも使って、水を出すことが大事。
朝に労働の予定を入れると早起きせざるを得ないので、そういう日が続いていると逆に、早く寝なくちゃという強迫観念で1日の後半の様子がおかしくなる。
まだ夏だと思い込むことで、暗くなる時間の17時を19時と勘違いすることにより、じっさいの19時が21時頃と思うようになりご飯食べなきゃと焦り、じっさいの21時頃がもうすぐ日付変わる頃と思い寝なきゃと焦るようになる、というバグを利用して早く寝てみる技も発見したけど、ギリ寒すぎないから使えてるだけの方法かも〜
ところで早起きをすると昼寝が必要になることもあるけど、化粧をしたまま昼寝をするとめっちゃだるい問題、みんなどうしてるんだろう。
・昼寝をするために化粧をしない
・化粧をするために昼寝をしない
・化粧をしたまま昼寝をして、不快を我慢する
・化粧をしたまま昼寝をして、構わずに顔を洗う(なんなら風呂に入っちゃう)
・化粧をしたまま昼寝をして、洗顔して化粧をやり直す
さあどれ??
片羽根が傷ついても飛ぶことをやめるわけにはいかないとき、傷ついた片羽根を庇いながら飛び続けるために、変則的な新しい飛び方を開発しなければならない、というのを読んだ。
自分がめちゃくちゃに壊されるまで挑むか、今の場所で人を適度に信用せずぬるぬるとうまく抜け道を探してやっていくか、本当に何もないところに身一つで飛び込むか、すべてやめておしまいにしてしまうか、どれを考えても気が狂いそうになる。立場が弱すぎる、脆すぎる。本当に味方が居ない、ひとりも味方がいないように思える状況で、残された唯一の望みのように見えるものが、あるかもしれない。
対等な仲間とつくる、自分の領域がほしい。ひとつ縋れる信じることのできる確かな場所、そこで走ったら走った分だけ確実に進むような安定した足場が、欲しい。
そう、私は永遠にあいつらより若い!
いずれあいつらは全員死ぬので、生き延びて作り続けていれば必ず勝てる。生きて勝ちたい。勝つために生きたい。