情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

10月 メモがき

○日記

・書きかけの楽譜よりも、白紙の時間のほうが清潔な気がしてしまう

 

・無粋な質問をじゃんじゃんして、誤解の芽を潰しておく、その役目を買って出る、人がいると、人間関係は気まずくなりにくい。これを他人任せにしないこと。

 

・私があなたの母では無いということの悲しさ、もしくは私があなたの母では無かったということの救い、について

 

・この時期に出た新譜の感想を、秋の空気がどうとかいって評するの、手抜きだと思う。こういう人はきっと、冬生まれの人にもこもこ靴下とかプレゼントするんだろうな。

 

・好きな作家の文章をノートに写経し始めたのだが、ひらがなが、ひとつも上手く書けなくなっていた。自分の字の乱れの中に、または自分の声の不安定さの中に、人格の不器用さがすべて凝縮されているような気になる。いつかシリアスな手紙をしたためる機会があっても、こんな文字ではおもしろくなってしまうから大変だ

 

・ユニバのハロウィンイベントのダンス動画がSNSで回ってきて、意味わからないけど涙が出た。怪物たちの見た目が怖すぎる一方で振る舞いが徹底的に明るすぎて、その愉快な祝祭が高潔に思え、そこに人間がカメラを向けることは醜かったから?

 

・地雷がいっぱい埋まってる人間なんか面倒くさいと思うから、自分できちんと処理するように努力したい。くだらない過去に縛られて尊い関係をぶち壊しそうになる火種を、自分の中に持っていたくない

 

・私が洗面所に立って化粧をするのは、明るい窓のある位置や机と椅子の高さや数など、実家の間取りに生活習慣が規定された結果なのだと気づいた。

 

・私が赤子のころから今の今まで、家族から「可愛い一人娘!!」と呪いのように吹き込まれていること。完全に聞き流してはいるけれど、こういうことの影響って無視できるものでもないのだろうなと思う。このように育ってノンバイナリーとか選べるはずが無いだろ


・靴に引っ付いてきた植物の種を摘み取るとき、できるだけ芽を出しやすそうなところに蒔いてやろうかと考える。自然界にいらぬ作為、自己満足のお節介、おまじない程度のこと。

 

・生理がうつる、という現象について人に話した直後、松浦理英子『優しい去勢のために』を読み返していたら、それについてのエッセイがあった。以下引用。


あなたも知っているだろうか。月経がうつることを。わたしが月経中の者に身を寄せて親しく戯れればわたしもまた血を噴き始めることを。鳴り響くドラムが間近のドラムの膜を共振させるのにも似て、女性器を持った者同士は響き合うのだ。

 

物事を女性器だの子宮だの身体に還元して語るのはきしょくて好きじゃないんだけど、あの痛みが音であって、この身体がドラム内蔵だと思えるのはちょっと楽しいかもしれない。
同じ文章の中で、生理のことを「臓器の瓦礫ごと性器を葬り去る」と表現されているのも愉快。

 

・昔コンテンツの沼にいたときに使っていたSNSアカウント、をひさびさに見に行った。フォロー20同士とかでエアリプしてキャッキャしてたはずのアカウントが、私が数年放置する間にジャンル移動し、1000近いフォロワーを抱えるデカアカウントになっていた。わたしの知らない間に、なにを見てなにに狂いなにを築いていたの

 

・努力は他人がするものではなく自分がするもので、他人の行動を外から努力と名づけて呼ぶことは、あまり気持ちがよくないと感じる。(アイドルオーディション番組とかーー)

 

・でも逆に「韓国アイドル研究生時代の伝説苦労話まとめ」みたいなのを探してきて、それみたいに暮らしてみようとしたり、しちゃう日もある(自分が努力なるものをするために他人の努力なるものをトレースするという)

 

・道端のガードレールなんかを蹴り飛ばしそうになってしまうから、なんとかその衝動を抑えるために、全力ダッシュする帰路などがある。

 

・自分が自分のことで痛むよりも、大切な他者が痛むこと、の方が一般に苦しい。どこが痛いのか、または痛くないのか、どのように痛いのか、どの程度痛いのか、どの程度回復しつつあるのか、など、直接に感知し得ないから。

 

鬱状態の家族を家族がケアしていたとき、ケアする側の家族は、家族の苦しみに対して心を痛めると同時に、以前とは大きく変わってしまい未知のものとなった家族の様子そのものに深い断絶を感じ、ショックと不安を感じているようだった。

また心理的な回復は言語的な次元の解決でどうにかなるものではないのだが、言葉で発せられたSOSに対して言葉を通じて歩み寄ろうとしてしまって失敗し、自分の存在意義を疑う、ような苦しみがあるみたいだった。大切な人が、自分の言葉が届かないところに行ってしまった途方もなさ。あの時、ケアする側の家族もケアを必要としていた。

 

・私はあまりにも無知で、だからせめて偶然拾ったひとつのものを着実に握りしめていたいと思う。

 

・東海オンエアはある意味では奇跡みたいなホモソの成功例で、あれの一員になってみたいと夢想することがないでもなかった。

彼らの生活はホモソーシャルな関係に覆い尽くされコンテンツとしてほとんどの瞬間が切り取られもし、私的領域が入り込む隙間がないが、彼らが車や女や家庭を所有しない訳もない。

ホモソーシャル成員の妻となる女は、黒衣としてあるいはトロフィーとして、ホモソーシャルの守り手となる立ち回りしか許されないだろう、彼女の夫はもう既にホモソーシャルと結婚しているゆえ!

 

・震災の描写が含まれると注意書きのあった映画の中に、レイプ(未遂?)の直接的な描写があり、そちらについてはアナウンスがなかった、ことに気がついた。私はどちらにも少しだけびっくりし、ただ無いんだなと思っただけなので、このことの是非について言いたいのではない。たとえば映画では、肌感覚として、性暴力のフラッシュバックに配慮するアナウンスはある方が珍しい。これは被害者のPTSD発症率やその重さに準じて決定されているのではないので、性暴力が私的で個人的な性質を持っているせいか、または映画の題材としてあまりにもレイプ描写が自然なもの(カメラを向けるべきもの)と思われすぎ、多く描写されすぎてきたせいかもしれない。

 

・しかしこのレイプ未遂という表現、レイプとレイプ未遂とを分けて考えるのは、どこまでも加害者視点の表現である、ということはもっと言われるべきだと思う。強制性交が起きる瞬間と、性被害が起きる瞬間は一致しない。

 

・バイト先の人たち、年下の学生であっても仕事できない人があんまりいない。できない人はみんな淘汰されやめていくのだろうか?と思うほど、大体の人が仕事できる。でも普通に考えたら、単にたぶん時間の問題なんだよな、

ということを思うと、私は同じ業務を4年とか続けることに耐えられるのだろうか

最近、12年とかバイトしてた人が妊娠を機に退職していった。菓子折りと一緒にえらく感傷的な手紙が残されていたが、12年もやってたならそれはもう人生だろう

 

・映画館のアルバイトは、違う映画が1週間ごとに公開されること、それによって景観や環境が微妙に異なること、が継続する上ではせめてもの救いという気がする。

接客とかってその場その場で違うことが起こる、それが一生続いていくタイプの仕事、と言えるけど、つねに目の前の現実が全てであって、一生未来の方を指向していかない、このことに対して目眩がしそうになることはないんだろうか

接客の面白いところは、やわらかにコミュニケーションの主導権を握る練習ができるところ、そしてやっぱりパフォーマンスなので明文化されていないコツや上手い下手が明確に存在しているところ。得意な人を見ているとシンプルにすごいなーかっこいいなーと思う。

 

・映画館でアルバイトを始めたことにより、映画へのハードルがガン下がりし、映画の流し見が躊躇なくできるようになった。ワンシーンだけでも見かけた意味があると思えるようになったから?家を映画館にしたつもりで、サブスクを流しっぱなしにしたりとか

 

・一生に着られる洋服はあまりないのだから、もっと良いものを自分に着せてやればよかった、みたいなのを前にエッセイで読んだのを思い出した。服って無限回着ないといけない気がして適当なもんばっかり着てしまうが、時間にも若さにも限りがあるし、勿体無いのかもしれない。


・ここにきて「生き方」について考えてる。もうこの季節が過ぎたら、次に走り始めたら、あと数年はしばらく止まらずに突っ切りたいが

 

・「女であるからこそ女を愛するのだと確信しつつ、それでも自分が女でないもの(愛さないもの)にならなければ愛が達成されない、というダイクの苦悩」という物語の型が、存在するかも?

 

・以前私に「お金がないからといって夜の仕事はしない方がいい、変な意識高い系みたいになる傾向があるから」とちょっと余計な忠告をしてくれた人(その発言自体がちょっとどうかと思う)がいた。金銭感覚がどうとか健康面でどうとかじゃないところに嫌なリアリティがあったのが印象的で、たまに思い出す。

でもそれが本当だとして、彼女たちが「意識高い系みたいになる」のが何故なのかちょっとわかる。重圧の中で孤独に耐えながら病まずに進むべき方向を見失わずにいるためには、「意識が高い」と呼ばれるような異常性を含んだ向上心に思考を浸す必要があるってことだと思う。

 

・親しい人が激務や理不尽な職場環境に苦しめられている話を聞くと、本当にくやしい気持ちになる。

彼女のもっている素敵なもの、責任感や勤勉さや真面目さがどうやって培われてきた尊いものなのか、少しは私も知っているつもりでいるから、それがぽっと出の企業に都合よく使われ、搾取されて壊されてしまうのは、とてもつらい。

 

・他人をケアできるためのセルフケアというのがある。他者に注げるだけの余裕をもつために自分がまず自分を満たし、幸せでいようとつとめる。

 

・所詮、性別は世俗の領域のことなので、精神が世俗の次元に降りている時だけ私は性別の話をしているのだ


・本当に人生八方塞がりといった状態で停滞を感じているが、道がなくても端から身幅に合う抜け穴を探すつもりでやってきているのだった

 

・多様な嗅覚情報を得る目的で散歩をしている気がする。視覚・聴覚・触覚はずっと家の中にいても変化をつける方法が結構あるけど、匂いばかりは部屋を出なくちゃ変えられない。排気ガスや植物や食べ物や香水や、ちょっと歩くだけで、嗅覚の世界は鮮やか。

 

・たとえばフェミニズムへの距離、こういう類のことは、ひとりで握りしめるしかない。

フェミニズムへの距離、について仲間と書いたり話したりできたとして、「フェミニズムへの距離、への距離」が生じるだけ。

ひとり一派、一枚岩にならない、を貫くのは本当に難しいことだ。

 

フェミニズムの範疇にあることを考えたり勉強したりすることと、フェミニズムを「引き受けること」、は大きな違いがあるのか?

女性についての解釈、権利と法律、表象と文化、現実に生きた女たちのあらゆるパターン、女性性なるもの、そういうことを徹底的に並べ立てて考えるのが自分のやっていくことの裏テーマ、と決めてはいるものの、それを「やっている」というには、あまりにも自分の立場と相容れないものが含まれ過ぎている。

フェミニズムと決別しながらも手を繋いでいるうちに、現実の人間関係から手を離されるというようなことはこれまで自分もあったし、だから思想の領域だけでもどっぷり連帯に浸かろうとしてしまう人のことをなかなか責められない、

私は思想のために生きず、思想を命と愛のために利用するつもりでいるが、命も愛も思想のためにありという生き方の人もいるのだろうし

 

金木犀の香水が嫌われるのは、金木犀の香りはあの空気の冷たさによって成立しているのに対して、香水は人肌の温かさによって成立しているため、だと思う。今年の暖かすぎる秋の金木犀がやや鬱陶しかったせいで気がついた。

 

・「旦那デスノート」というサイトを以前からたまに覗いている。本当にヤバい殺人教唆みたいなものも混じっている悪質なサイトではあるが、あそこに綴られている怨嗟のほとんどが「逃げられない者たち」の言葉であることは、読んでいればわかる。

殺意と加害欲は違う。配偶者を殺したいほど憎む感情なんて、そうそう無から湧くもんではなくて、既に現実の生活の中に起きているDVやモラハラへの報復心であることも少なくない。

離れるほどではない、離れるという発想がない、物理的心理的社会的事情から離れることが不可能、いろんな程度があるが、逃げていないから、インターネットに呪いを吐き流すしかないし、殺せないから死ねと念じるしかないということ。(実際に殺しているかのような投稿も含まれるのが本当に怖いところ)

 

・被害意識は強く共鳴し、増幅する性質があるらしい。そのことへの強い恐れがある。

 

・過去のノートを読み返すと「実を食すには、いちばん良い時に刈り取る必要がある。今回は枯らしてしまいたくない」と書かれていた。

 

・痛みも問題も放置し続けられることは強さでもあるが、致命的な弱さにもなりうる。

 

・早く楽になりたいとずっと思っている。なんとか毎日を生きつなぐ、というような感覚

 

・馬鹿みたいだけど馬鹿みたいな時間しか救いにならない、みたいなことってある

 

・もう思春期のころからずっと、他人の人生に思い切り出しゃばって、巻き込んで、めちゃくちゃにしてしまいたいと思っているところを、なんとかズタズタにしてしまわないように、ブレーキを踏み続けていて、それでなんとかなっている、もうちょっとうまくバランス取れるようになるといいね、

 

・神経は25歳ぐらいまで発達するらしい、じゃあまあ全てしょうがないかと思える

 

・クリスピークリームドーナツのコーヒーってあの甘すぎるドーナツの味と完全にバランスとれるようにできてる?天才

 

・普通に正社員としてフルタイムで働いて、普通に好きな人と一緒に住んで、金曜夜の晩酌を楽しんで、という他人の生活に憧れる日もあるが、これは正確には実態のなさへの憧れであって、本当にそれが欲しいわけではない。

 

・「冷え性 服嫌い」「裸族 寒がり」等で検索かけるも有益な情報得られず。だって、筋肉がないから冷えるし、筋肉がないから服重いと疲れるのでは?

 

・最近は何かを見て、傷つかないということがあまりない。そういう時は、持ち物を見ている。

例えばお気に入りの靴の色や形、表面の材質、などをじっと見て感じる。

それは意味を含まない、具体性のある美、だし、既に自分が手に入れたものだから、心を傷つけることがない。

 

・ユーチューブみてたら「今の広告(パイパンアマギフ6万円)はご自身に関連していると思いますか。」って聞かれた

 

・ユーチューブみてたら「このサービス(消費者金融各種)の中でどれを利用したいと思いますか。」って聞かれた

 

・他人に縋らないために自分の強さに乾杯する夜があってもいいし、本当は強さだとかに縋る必要もないくらいすべてを許していられたらいい


・いつでも何か別の厄介事に邪魔されて集中できない、ことについていっそ割り切ることにした

 

・自分の原体験たる音楽のひとつ、おおかみこどもの雨と雪サウンドトラックを久々に聴いた。

あのピアノの、今ここで弾いてる感触、今まさにうまれたような、音の生々しさあたらしさ、こそが好きだったのだと理解した。

 

・お昼寝の方がよく眠れるのは、先がまだいっぱいあるから?

夜は、夜にやりたいことがいっぱいありすぎて、夜になったぞーというゆとりが全然なく、焦るばかり、一方で昼というものへの解像度は粗く、漠然としていて、この漠然を眠りで塗りつぶすのは容易


・はあ、あと3分でぜんぶ連絡をしなきゃ、みたいな、それをストレスと思わないためには?

→「端から自分は自由の身ではなかった」と思うことだ

 

・現実を欲望に近づける運動と、欲望を現実に近づける運動と、がある、これの向きに気を配る。

 

・腰を据えてじっくり考えたいという気持ちがあるとき、腰を据えて考えるような方法ばかりでは解決しないということもわかってきた

 

心理的移動距離っていう新尺度を開発した。多くの視点を持ったり、幾つも先のことまで考えたり、大きなスケールで物事を考えたり、まったく別のところに考えを結びつけたり、するとこれが増える。


・他者を自己の内部化することと、自己を他者に外部化することと、があって、後者の方について急にピンときた。前者ばかりではそりゃあおかしくなるわな

 

・もうずっと前から、私を巻き込んで駆動してくれるエンジンのような他者を待っていたし求めていた、自分のことをブレーキやハンドルがとくいな人間だと思い込んでいたから、でも本当は私ががんばって苦手なエンジンをやる方がうまくいくっぽいということもわかりはじめていて、であれば私をエンジンルームへと駆り立ててくれるような他者と一緒に居たいと思うように、なってきている

 

・人とだいじな話をする時は、たいていお腹がすいている

 

 

○生きててえらい

それほど深刻な困り事には繋がっていないと思い込んでいるが、長い目で見たらかなり生き方に支障が出ている気がするトラウマ、に向き合う作業をやるにあたって、他者の助けが必要と思い、カウンセリングに通い始めた。しまい込んで蓋をしていた過去を掘り起こすと、思っていたよりも全然大丈夫な状態ではないことに気付かされ、若干後悔もあるものの、自分を救う理論を求めて勉強も始めた。

影響として現れる心身の不調について「それは症状ですよ」と強調される。

「症状」の枠組みに自分を押し込めることで、救いになることが有るってことなんだろうか、例えば差別や社会構造についての知識を得て、これは自分の問題ではなく「われわれ」の問題であった、と気づく時のように?

 

治療、進路決め、しっかりとした生活構築などいろいろなことが並行に進みながら、なんとか制作をやめずにいる。

まず、自分が本当に欲しいものは何なのか、改めてよく考え直して、環境が適切か?時間と金銭と体力をどう使うべきか?なども計算しなおした、一時停止の10月!

ご飯を食べながら唐突に泣きそうになり、いや「泣きながらご飯を食べたことのある人は~」のやつじゃん、と思って泣き止んだり、生きたい生きたい生きたいと思いながら洗濯を回したり、生活を堅実に保ちながらとりあえず今日できた分を褒める、を繰り返す。

 

今月はほとんど毎日自炊をした。自炊というのはレペゼン台所のものを食べるという意味で、名もなき肉野菜炒めとかハムチーズトーストとかもそう呼ぶ。

最近は朝から午前中に労働(日銭稼ぎ)の予定を入れるスタイルにハマっているので、簡単な朝ごはんを用意して食べ、働いて、帰ってきてご飯を作って食べ、制作や仕事をしてまたご飯を作って食べる、ということもできるようになってきた。

これを続けていると、買って食べるのは割高(それも味の割に)ということがわかってくる、じゃあ弁当を買うときわれわれは何にお金を払っているのか、と考えると、「作る手間」だと今まで思っていたが、厳密に言えば「次食べるものとそれを用意する時間について考える精神的コスト」の方にお金を払ってるんじゃないか、という気がしてきた。定期的に「ご飯を用意しなきゃ」みたいなことを思うのって、ものすごく気が散る。

弁当を買う時われわれは、食に対して無関心でいても生きていける権利を買っている。だから売られる食べ物には大抵名前がついている(記号でものを食べるためには・食べ物を選ぶためには名前が要る)。

 

作ったご飯の写真を家族に送ると、母や祖母が喜んでレシピを教えてくれるようになった。

パスタを食べる習慣がしばらくなかったが、パスタのソースを自分で作ることも覚えた。冷凍ブロッコリーが役に立つ。

カレーは材料が日持ちする上、何回も食べられてお得、という事実を再認識。

本当はカレーってジップロックで保存すれば冷凍するにも便利らしいが、カレーをジップロックに入れるのって、あまりにも見た目がうんちすぎる。うんちすぎるという理由でジップロックの案は没になった。1食目のカレーを食べてる間に鍋を即冷却したのち冷蔵庫に保存して、食べる分だけフライパンで加熱する、という方法に落ち着いた。

親切な叔母からレトルト食品をいっぱいもらったが、レトルトのカレーや親子丼は具が少なくて虚しいので、これも具材を足してフライパンで温める。「レトルト食品を湯煎で温めて熱々のパウチを触って開ける時の嫌さ」は、最初から自炊をする面倒くささをギリギリ上回る不快感だと毎度思っていたので、フライパン調理の導入によってこの点も解決となった。

 

楽しみのためでなく効率化のために自炊をする人はみな、「大量調理と大量保存で料理の回数を減らす」という技を駆使するのが鉄則っぽいのだが、「保存」がどうしても嫌すぎて、この攻略方法を採用できない。

これまであまりに多くの食材を冷凍焼けさせてきたせいで、冷凍した食物=美味しくない、という図式が脳内に完璧にできあがってしまっているし、食材や料理を「1食分に小分けにする」とかいうのも意味わからん、今使わないものの量を計算するとか無理。ジップロックってちょっと高いから使うのに躊躇があるとか、そういうせせこましさも関係して、とにかく冷凍庫はうどんとアイスのためにスペースを空けておきたい。(でも冷凍ひき肉はどう考えても便利......)

だいたい自炊を面倒くさく感じないためには、毎日ちょっとずつ調理をやる、というのがコツなように思う。

蛇口が錆びる前に捻っておく、毎日ちょっとずつでも使って、水を出すことが大事。

 

 

朝に労働の予定を入れると早起きせざるを得ないので、そういう日が続いていると逆に、早く寝なくちゃという強迫観念で1日の後半の様子がおかしくなる。

まだ夏だと思い込むことで、暗くなる時間の17時を19時と勘違いすることにより、じっさいの19時が21時頃と思うようになりご飯食べなきゃと焦り、じっさいの21時頃がもうすぐ日付変わる頃と思い寝なきゃと焦るようになる、というバグを利用して早く寝てみる技も発見したけど、ギリ寒すぎないから使えてるだけの方法かも〜

ところで早起きをすると昼寝が必要になることもあるけど、化粧をしたまま昼寝をするとめっちゃだるい問題、みんなどうしてるんだろう。

・昼寝をするために化粧をしない

・化粧をするために昼寝をしない

・化粧をしたまま昼寝をして、不快を我慢する

・化粧をしたまま昼寝をして、構わずに顔を洗う(なんなら風呂に入っちゃう)

・化粧をしたまま昼寝をして、洗顔して化粧をやり直す

さあどれ??

 

 

片羽根が傷ついても飛ぶことをやめるわけにはいかないとき、傷ついた片羽根を庇いながら飛び続けるために、変則的な新しい飛び方を開発しなければならない、というのを読んだ。

自分がめちゃくちゃに壊されるまで挑むか、今の場所で人を適度に信用せずぬるぬるとうまく抜け道を探してやっていくか、本当に何もないところに身一つで飛び込むか、すべてやめておしまいにしてしまうか、どれを考えても気が狂いそうになる。立場が弱すぎる、脆すぎる。本当に味方が居ない、ひとりも味方がいないように思える状況で、残された唯一の望みのように見えるものが、あるかもしれない。

 

対等な仲間とつくる、自分の領域がほしい。ひとつ縋れる信じることのできる確かな場所、そこで走ったら走った分だけ確実に進むような安定した足場が、欲しい。


そう、私は永遠にあいつらより若い!

いずれあいつらは全員死ぬので、生き延びて作り続けていれば必ず勝てる。生きて勝ちたい。勝つために生きたい。

10月 散歩拾得物

散歩のときに心にとまった風景やオブジェクトを集め、記録する

○いくつ拾ってもいいし、ひとつも拾わなくてもいい

○無機物も生き物も情景も香りも行為も並列に扱う

○必要な短さ、必要な長さで記録する

○散歩中メモはせず、持ち帰ってから記録する

 

時間:午後

場所:犬がきめた散歩コース

・犬に尿をかけられたオレンジ色の花

・朽ちつつある母校

・犬の頭に散る実

・倍ほどの高さに伸びた低木の垣根

・供物のように横たえられた私の好きな花、ピンク色の螺旋塔

 

時間:17時ごろ

場所:帰路

・灰色でもあり紫色でもある空

・閉まるシャッターの隙間、最後の望みみたいな光の筋

・お夕飯の匂いとアップライトピアノの音

 

時間:20時ごろ

場所:近所

・転がる緑色のバケツ

・濃青の空と切った爪のような月のオレンジ色

・フライパンに炒飯の焦げつく匂い

・コインランドリーの泡色の匂い

 

時間:16時ごろ

場所:帰路

・枝からゆっくりと着地する鳩

・しっぽありコーギーのカフェオレ色の先っぽ

 

時間:18時ごろ

場所:上野駅

・ツォンヨウピン

・1段ごとに白状に突かれるハイヒール

 

時間:20時ごろ

場所:川辺

・軒先の「ご自由にどうぞ」を押さえている大きな石

・こんなところにあった覚えのない電柱

・透明度のたかい硬質な紺の空

・黄色いランプシェード形の花の蜂蜜のかおり

・背の高い草が放射する青臭い冷気

・走り込みグループの制汗剤の風

 

時間:明け方

場所:近所

・透明な空に一等輝く明けの明星

・幸先のよい気がする朝焼け

9月 メモがき

○一瞬の沖縄滞在

弟の受験の付き添いのため、沖縄に行った。1泊2日の超短期滞在。

印象的だったのは、建物が四角いこと。

太陽がよく照り、ものすごく蒸し暑かったが、かえって生きているという感じがして心地よかった。

朝と夕方、二度海に出て砂浜を歩いた。知らない海の色をしていた。白色を混ぜたような、ミルキーで明るい青。砂浜は深く、サンダルが埋もれた。

那覇市のあたりは5車線もあるでかい道路とかが普通にあって、かと思えば一本入るだけですれ違うのも困難なようなとても狭い道があって、ドライバーはみんな強引で、運転難易度がやや高い。

レンタカーのラジオは何故か米軍の駐留軍人向けの放送に設定されていて、それをずっと聞いていた。Barbieのサントラからピックアップされた曲が何度も流れていた。

面白かったのは、ハイビスカスという花。イラストなどに描かれたハイビスカスは、派手で存在感のあるキャラクターとしてイメージされるけど、実際道端に群生しているのを見ると、緑の壁に点々と明るい光が散っているように見え、案外ひかえめな印象を受ける。鉢植えのハイビスカスは東京でもよく見かけるけど、あれはイラストと同じ、個々の花に焦点が当てられている。沖縄の壁状ハイビスカスは防風林の目的もあって植えられているそうなので、見え方が全然ちがうのだ。

とはいえハイビスカス、近くに寄ってみてみると、やっぱりあの、雄しべと雌しべが、露骨すぎる!!笑えるぐらい素直であけすけな生殖器、かわいいと思う。ギャルなのに意外と清楚なのにやっぱりビッチ、みたいなわけわからん花で、好きになった。

トラブルなく行って帰ってくること、試験を最善のコンディションで受けさせること、指定されたお土産を全部買って帰ること、などミッションが多く気を張ったし、ひとの面倒を見ながらわずかな時間を効率的に使うため、ずっとせき立てられるような気分で過ごしたけれど、命の気配の強い魅力的な土地であることはわかった。

本当は、あたかもそこに住んでいるように錯覚するほどの長期滞在の旅しかしたくない。

旅をする時、行きたいお店とかスポットに目当てをつけて、ルートを組み、点と点を繋ぐようにしてそこを巡る、みたいな回りかたをするのが苦手。あちらこちら膨大な無駄を含みながら歩き回り、その中で差異を探し気付きを得て、土地への理解をゆっくり深めていくような旅がいちばん楽しい。

母の代わりに家族の面倒を見て、わかったのは母のケア能力の偉大さ。他人のことに注意を向けて気を払う、というのは独特の気疲れみたいなものを起こさせる。自分の行動に人の結果の責任がかかっている、という状態の重たさ。とはいえ弟も弟なりに、母親を相手にする時と比較すると、こちらに負担がかからないように気を配り、自分の問題を自分で抱える意識を持ってくれていたような気がする。

自分のための買い物として、町の美術館のミュージアムショップで『つながる沖縄近現代史』という本を買った。まだまだ半分も目を通していないけど、歴史本なのに「大文字の歴史」記述に終始せず、多様な視点を含んでいて、かなり面白い良い本。

 

○アルバイト中の日記

1.

労働のための身体の使い方に慣れてきて、もしくはそのための特殊な体力が育ってきて、労働後の疲労が軽減されてきた。調子がよければ、労働後爆速退勤し、買い物をして米を炊き、風呂入って洗濯してご飯作って食べ、2時間程度作業する、までできたりする。

とはいえ長時間連勤後などはめちゃくちゃ寝てしまうので、普通にムカつく。

 

2.

バイト先のいいところは、いつの時間帯も労働環境がやや薄暗いことかもしれない。

靴まで全部コスチュームに着替えて、スクリーンの並ぶあの通路を最初に歩く時、ビシッと気が引き締まるような心地になる。これが、危ない。

決してアルバイト先が居心地の良い場所にならないように、細心の注意を払っている。多少の交流は必要だけれど、あまり仲の良い友人なども作らなくて良いし、なんなら作るべきではない。

そちらの世界に意識が取り込まれることのないように、こんなことはやりたくない、すぐにでも辞めたいと思い続けられるように。

労働は目先にいくらでもやることがあり、それに手をつけることが金銭の授与によって正当化される、ことによる中毒性がある。この快楽的な側面に注意深くありたい。

キモチーーと思って働きながら、いつでも辞めたいと思い続ける。

 

3.

タイムカードを時刻ぴったりに押さなきゃいけないので「その時間帯出勤のみんなでタイムカードの前で00分を待ち構えるだけの時間」がある。あれは本当にむだ。

 

4.

人懐こい年下〜同年代の女の子、なれなれしいお姉さん、平等にきびしい中年女性、バイト先の人間関係で好きだなありがたいなと思うのはこの3タイプの人々。どれも性質ではなくコミュニケーションの型の問題。

直感的にこわいよ〜〜と思ってしまうタイプの女性たち、または女性のコミュニティが存在することも、久々に思い出している。男性のアルバイトは皆普通。私調べでは、映画館は声のでかい男の人があまり働いていてないので、接しやすい。(声のでかい女の人は、なぜかたくさん働いている)

 

5.

清掃や見回りのためスクリーンとスクリーンの間をたえず歩き回っていると、私のこの「移動」そのものに賃金の何割かが支払われているような気がしてくる。

 

6.

映画館とはみんな黙ってポップコーンをこぼして去っていく場所なのに、たまに「席にポップコーンこぼしちゃいました、ごめんなさい......」と客が誤りに来てくれる時がある。そういう客ほどほんのちょっぴりしかこぼしていないので、かわいい。「大丈夫です〜わざわざありがとうございます!」と返事をするときの私は1日の中でいちばん優しげな声を出している

 

7.

「いらっしゃいませ」や「ごゆっくりどうぞ」を発動すすると、小学生〜中学生ぐらいの子供がかなりの確率で「こんちはー」と返してくれる。まるで近所の人にするみたいに!

おそらく学校の過剰なあいさつ教育のおかげだろう。かわいい。癒し。ありがたい。

 

8.

映画館の社員が作品について「強い/弱い」と言うとき、それはもちろん作品の強度のことを言っているのではなく、興行収入、客の入りのことを言っている。それも、ベッドタウンのショッピングモール内劇場での、客の入りのこと。

好きな作り手の期待している映画や、作り込まれた高い強度の映画が「新作弱いです」と表現されているとき、いたたまれない気分になる。

 

9.

客入りが少なく、配置された人員も少ない日のバイトは楽しい。全部を自分でやることができるので、お仕事シミュレーションゲームにより近くなる。

忙しくない時ほど、隙間時間にタスクを捩じ込んで効率性の高い動きができるので、そういう回の方が気持ちがいい。繁忙期もおもしろいが、自分が手をつけたかったタスクを人にやられちゃったな〜という残念さがあったりする。やっぱりゲームだと思っているから。

 

10.

「バックヤードと客のいるエリアを行き来する時、劇場に向かって一礼する」という規則がある。大学生アルバイトほどこれをあまりしないが、社員や歴の長い仕事のできるアルバイトほどしっかり一礼するのを見る。美しいお辞儀、そこにある矜恃、それはそれとして立派だと思う。

接客は演技でありパフォーマンスである。

 

11.

鑑賞者の数が少ない時ほど、エンドロールを見ない客の割合が高いことに気がついた。

映画のエンドロールはたいていの人が最後までみているけれど、あれは物理的に外に出にくいとか、なんとなくみんな見ているからみたいな同調圧力とかで惰性で居ることにしているだけで、本当はみんなそんな見たくないのかもしれない。

私はエンドロールの選曲込みで作品だと思っているので、見る派。

 

12.

この私が、この私が労働中は、分刻みの上映スケジュールに合わせて一瞬の無駄もなく、せかせかと動き回っている。統制下に置かれている時の時間の使い方は、たしかに高い生産性を発揮する。

おそらく、選択肢が少ないことと、目先の時間が区切られていることがポイント。(それから当然、他者の視線)

労働場での時間への意識をそのまま引き延ばして、日常の生産性を高めることも不可能ではないのかもしれない。

とつい効率的に自分自身をコントロールする方法について考えてしまうが、これがどういうことかはわかっているので、従順に労働しているあいだは、規律化された身体。規律訓練。身体の規律化。などと心の中で呟きつづけてしまう。

 

13.

客に「ありがとうございました」と言っても、何がありがとうございましただ、私がこの映画をつくったわけでもないのに、と思ってしまうから、接客など向いていないのだろう。

 

14.

シフトが入っていた時間を間違え、1時間早く出勤してしまった。着替えまで準備をしっかり済ませてから気がついたので、更衣室の床で本を読んで過ごした。林芙美子の放浪記が沁みる。

日銭を稼ぐための労働の隙間にものを書く女の日記、のような形式だから、断片的に取り出して読んでも面白いし、労働のあいまに読むのにもってこい。放浪記の女は、たいていひどく疲れているか、お金に困っているか、絶望しているか、恋愛に溺れているか、そのどれかしかない。

いっそこういう女は私は好き、自分が男に心底甘く、生粋の異性愛女だと理解しているところが清々しい。こんなに男に精神的に依存できる女が、「男に食わしてもらうことは泥を噛んでいるよりも辛いことです」と労働に身を投じるところ、についてよく考える。経済的自立あって精神的依存が成り立つのだ。(し、労働をなんとか駆動させるためのギミックとして愛を置くこと、そういう快感の事例についても考える)

 

 

○心の体調記録

1.

まだパズルゲームを消せていないのは、パズルゲームでしか癒せない傷が自分の中にまだ残っているような気がしているから?

なんとか普通に生活を回しているけれど、どこか上の空で、この理由を不愉快な体験のせいとするか、暑さのせいとするか、漠然とした先行きへの不安のせいとするか、根本的な宿命のせいとするか。心の傷つきの種類を見極めようと目を凝らすが、どうにも捉えようのない形をしている。

外的なアクシデントが降りかかってくることによる痛み、というのはしかし、喪失による痛みよりはいくらかマシだと思う。

とにかく、痛みに溺れないこと。放置せずに適度に構い、適度に距離を置く。直視しつつも都合よく目を逸らす。

 

2.

素面でも酔っていても、あるいは昼でも夜でも、つねに嘘をついているという感覚、しかし片方だけでは完全ではないから嘘とはよべないだろう。

できるだけ、自分にとって本当のことだけ喋りたいと思っているが。

 

3.

小説を読んでいると、突然ぜんぶ読み飛ばしたくなるときがある。

文字がそう並べられているように、時間の方は決して順々に流れてはいかない。

 

4.

情報の取捨選択すらできない。自傷行為的に見たくないものを見てしまうことをやめる、目を閉じる。それから助けを求められるようになる。

胸の圧迫感。心はここにあるという感じ。

つらいところを耐え忍べば、やがて過ぎ去ると胃腸炎のときに知った。

それでも、それまでは、ただひたすら、時間が長い

すべて、長い長い目でみてやっていかないといけない、人生も生活も制作も決断も。

 

5.

たとえば『当事者は嘘をつく』で言われていた「トラウマからの回復の物語」、あれを必要とすること、同時にそれを否認すること。

物語に回収されることを拒む、それを恐れるベクトルとは。

Me tooは物語の共有であり、物語ることの契機であり、ただの告発行為以上の意味性を含む。

 

6.

自分の痛みを過大しないことに気をつけてきたけど、案外、過小評価している側面も多かったことに気づけた。

どうしてあんなに高校の頃まいにちつらかったのか、これ思春期や睡眠不足のせいだと思ってきたけど、間違いだったかもな

 

7.

かろうじて日銭を稼ぎながら、ぼうっと遠くをみているしかできなかった日もある。

労働ごときではなにも減らない、けれど心身を万全にしてからシュッキンしないと、攻撃を受けてしまう、それは避けたい。

「負けないように踏ん張る」というだけじゃなく、「絶対に負けないと決まっているので、多少下がる時があっても大丈夫」という方向で気持ちを休めることもある。

 

8.

色々なものが溜まって、手に負えず、ただ途方に暮れている。

なんか全然本も読めないし。ずっとつらいままでいるのも、それはそれでいいのかも?

一般的な大人のように、痛みを忘れるために目の前の仕事に没頭するとか、一生懸命に愛をするとか。

音楽が必要、痛みを洗い流すために。その蓄積が膨大なデータベースをはぐくむ。

立ち止まっているだけでもそれは進んでいること。

音楽や映画の軽さ、快楽的なところ、むかしは嫌いだったけど、愛せるようになってきている。たのしく明るく耐えぬく。

 

9.

取り返しがつかない、手遅れになった夢ばかり見る。

予定があるのに、約束の時間を3時間過ぎてもどうやっても家から出られない夢。試験のような何かものすごく重大な用事をすっぽかしていたことに翌日になって気が付く夢。目の前で赤ちゃんが死ぬのを見ていることしかできない夢。たくさんの人間を見殺しにして逃げる夢。人が船から身投げするところを偶然撮影してしまう夢。

思うに、悪夢は現実の精算行為である。

現実の私が傷を癒すことや問題を解決することを怠っている、そのツケを払わされている。

そういえば、人と眠っていて悪夢を見ることはあまりない。

 

10.

大丈夫大丈夫と無限に唱えて心を落ち着かせる。これは祖母から教わったおまじないでもあるのだが、その大丈夫ですら元は「一人前の男」の意味なんだよな〜

 

11.

中学生のときに通っていた塾で、天声人語を毎日うつすという学習方法があったけど、あれみたいなことをやりたい。毎日なにごとも、まずは書くことからしか始まらない。70回目の気づき。

お腹が全然空いていないのに、漠然とものを食べたいという欲求だけがある。いや、ものを食べたい気持ちと絶食したい気持ちがせめぎあっていて、どっちがどっちなのかわからない。

 

12.

自分のために、自分の体験についての物語を組み立てるという、その作業について。

ステレオタイプ的な被害者の語りに、自分の経験をぴったり沿わせ、そこに回収してすべてを語ることができたらいいが、実際はまったくそうではない、そこへの、とまどい。

悩みごと、困りごとを親しい相手ではない外の人に伝えようと思ったとき、「悩みごとを相談するための悩みごとの捉えかた、語りかた」のフォーマットを採用しなくては理解されない場合がある。自分を病者一般、被害者一般の方へ寄せて捉えるようになる。これは自分の捉え方ではなくなるような気がするし、多くのディテールを取りこぼすように思えるけれど、まあ言葉とは、人間の認識とは、もともとそういうものなのかもしれない。

 

であれば尚更。事実というものはなく、行為だけがある。

行為を重ねて、思考と解釈のための材料が溜まり、道も方向づけられる。

命を考える、考えながら命をすすむ、ための材料を行為によって集めている、かんじ。

快楽は行為に付随する、故に快楽は持続しない。だから行為は重ねる必要がある。

 

13.

不随意的にフラッシュバックしてしまうことと、自律的なつもりでそのことについて深く考え込んでしまうこと、はどう違うのか。

これについて考えるのは面白いかもしれない。

 

14.

マツウラマムコ「『二次被害』は終わらないーー『支援者』による被害者への暴力」で論じられているという「被害者」観、やはり可能性のひとつとして腑に落ちるところがあるから、書きつけておく。

 

「被害者」とは暴力をふるわれた経験のある者がこれ以上苦しむ者をつくらないために思考するときのポジショナリティである。アイデンティティであるサバイバーとは、サバイバーと語りサバイバーとのつながりの中で生きていくときに必要な「私」の自称である。ポジショナリティである「被害者」とは、被害者や無意識の加害者である「第三者」に向かって語るときの「私」の覚悟である。

 

 

 

 

藝祭へ行った。人熱、という印象。

展示の内容以上に、往来する人間たちが放つ情報量が圧倒的に多すぎる。

たいして何も見ていないし見たもののほとんどもすぐに忘れてしまったが、学部の同期たちの展示は、やっていることの意図や経緯がわかることもあって面白い。

私も人と、友人でもある人と(自分を曲げずに)作品をつくるやつ、やってみたいな〜できるようになりたいな。私も学生の頃にやれればよかったけど、学部の頃の未熟な自分には無理だったもの

 

・映画の中のフランス語がききたい。それも、モノローグだとなおよし。

 

・ここにきて、天気予報とか腕時計とかめちゃくちゃ便利じゃん!何これ!というのに気づき始めた。天気がわかったり時間が目に見えたりして、先の予測が立てやすくなるの、凄すぎ

 

・バービーやっと見れた。何よりもまず、画面を満たす美の種類が、女児向け玩具の世界観の「ハイパーフェミニンな」ものであったこと、その表象の力にダイレクトに圧倒された。

つねに多義性を含んでいること、ひとつのことを表現する時、つねに同時に反対側からの視点も意識していること、そういった思慮深さを持ちつつ総合的にハッピーで楽しいこと、技巧的だしめちゃくちゃ皮肉を言うわりには、単純で素朴である種感情的なメッセージの伝え方から逃げないこと、実際的であるというよりは観念的で神学的で普遍的な方向を指向していくこと、根底に子供時代への憧憬や母親と娘というテーマがあること。

思想も派閥も文脈も誰のどんな評価も関係なく、グレタ・ガーウィグの映画のこういうところが、私にとっては特別なものだ、というのをひとまず再認識した。

笑顔で「婦人科へ!」と向かうあのラスト、見た時期が違えば腑に落ちないものだったかもしれないが、実際に私は助けられた。直接的に役立つような種類のもの。イメージの心強さ。

 

・音楽がアレクサンドル・デスプラだったので、アステロイド・シティは映画よりずいぶん先にサントラを聴いていたんだけど、あまりにもミニマルな作りになっていて、音だけ聴いている時は正気!?!?と思っていた。いざ映像で見てみると、コンセプトも時間的な展開もすごく効果的に作用していて、やっぱりすごい〜〜〜となった。ネットで読んだコメントではこの2つの音符のことを「催眠術のような小さなモチーフ」と呼んでいた。

 

・「サレ妻」クラスタツイッターをたまにみる。そこに混ざっていることのあるフェミニズムは、自分の知っているそれと違った様相をしているような気がする。

愛と幸福の物語の中で、妻として場合によっては母として嫁として家族に尽くし、何の問題もなくやってきた。パートナーの不義理によって、その世界が壊され、「私はずっと、彼に従属させられてきた!」「あの時のあれは、モラハラだった!」という形で、怒りの矛先を求めるようにして、フェミニズムに“目覚める”。(woke、ある考え方に「目覚める」という問題大含みの言い回し、もちろん皮肉だよ)

明確な個人間の憎悪と怒りを基底に構築され、似た境遇の人の間で増幅されていくそれは、武器として振るえるだけの強さを持つ必要があり、攻撃的にならざるを得ない。ひとまず、そのことには留意していたい。

 

・そして世の中の妻が「夫の性処理」という言葉を自然なものとして使用することがあるのに喫驚した。

他人、同居人の射精の面倒を見るために自分の身体を使うという捉え方、考えたことがなかったが、自分を射精する側に置いても射精促す側に置いても、どう考えても嫌すぎる。

でもなにが嫌なのか。「夫の愚痴処理」とどう違うのか。身体の問題だからか。

「夫の性処理」の「性処理」は「性的欲求処理」のことではなく「射精処理」のことである。欲望にあるのは、充足という半終止を挟みながらの果てしない道程のみであり、行為としてぶつけたところで処理などできるものではない。

処理ならひとりでしろという話か?他者とするなら共通の娯楽とする努力をしろという話か?そうはいっても性を文化娯楽化する概念そのものが、おためごかしに過ぎないのか?罪悪感と余裕による産物?

 

・一般に、女にされる/女になれるという問題があるなあと思う。

不必要な時に勝手に女にされずに済み、ときどきは他者関係の中で女の部分を解放できる、そういう存在として恋愛相手を求めるってことがあるっぽい

 

・気分かえよと思って適当にリップ買ったら5年ぐらい探し続けた色引き当てた、うれしい!これだからやめられない

 

・ちがう言語でなんでも歌うたってみると、メロディの捉え方が全然ちがくなる。この魔法のような方法をつねに覚えておき、ことあるごとに取り組み、習熟させていきたい。

 

・1か月前とかに予約した病院に行くのとかって、極度に不安を感じる。

そんな約束は、本当は全部ないんじゃないか、私のことなど誰にも知られていなくて、いざ行ったら「はて?」という顔をされるのではないか、と思って怖い。

実際そうはならないのだから、時間という世界の規則は偉大だ、その通りに行動して、指定された時間に指定された場所に行って、それをみんなして世の中回っているの、冷静に考えてマジで凄すぎる

 

・「人様に迷惑をかけるな」と人が発言しているところを久々に目にした。この規範のことをずっと怖いと思っている。

すべての自由に対して「但し、人に迷惑をかけない限り」という注釈が付される、ことがつねに疑われないこと、が怖い。

「迷惑をかけてはいけない」が「迷惑をかけた奴が悪い」になるのが怖い。

「迷惑をかけない」とは要するに、ある人の行動が他者の障壁にならないこと、他者を阻害しないこと、だろうか。そして人「様」とはつまり、身内じゃなくてその外の人ってことなんだろう。

「迷惑をかけるな」という規範意識が自分の内にあることによって、「身内以外の人が、自分の行動の障壁となり、自分を阻害してきた場合に、つまり自分が思う通りに動けなかった場合」に、怒りを覚えるのではないか?と思うと、自分のことが怖い。何事も自分の思う通りには進むはずがなく、自分も他者に迷惑をかけることがあるから、と思って人の迷惑を許容し対処するほうが、遥かに気持ちが楽なように思える。

そういうことを考えていたばかりだったので、くらくらするほど強い香水の匂いをさせている隣の乗客を許した。

 

・病める日も健やかなる日も、曲を作らなければならない、それが仕事にするということだ

むしろ、その日の調子がどうとかを、仕事ぶりによって理解するようなのが正常だろうから、調子がいいからやるとかよくないからやらないとかではないのだ

 

・女性支援従事者と話すとき、その語りに男女の世界観が強すぎる場合、少し辟易してしまう。世の中が男/女すぎる。

フェミニズムの観点でものをいう時ほど、「男は」という主語を避けたくなる。「わたしたち」と「彼ら」あるいは「あいつら」の話にしてはいけない気がする。

私の置かれた状況、私だけの問題を「男たち」と「われわれ女」の闘争にしないでほしい。私のことを異性愛の女性と決めつけないでほしい。それでも彼女だから救える女たちというのが世の中にはたくさんいるのも事実だろう、だから私は冷や汗をかきながら黙る

 

・何もわからない時は、圧倒的な量で稼ぐのもあり。

 

・部屋の中に、時間を意識させる仕掛けを複数用意するとよい

米を炊くとか、洗濯機を回すとか、風呂を溜めるとかもそうだし、作業をしている間にポモドーロのアプリを起動しておくとか、2時間の映画を流しておくこととか、聴くためというよりかけておくための音楽とか。

これらはそれぞれの特質が違う、主に時間の長さ、単位によって。けれど、似たような効果のある仕掛けとして使える。まずは仕掛けを作動させてしまうのが速い。

 

・何も予定のない大きな時間のまとまりである「休日」を、作業日として有効に使う方が難しい。

一度も失敗せずに、腐らないようにダメにならないように、滞りなく時間を回す、回し続ける必要があるから。

 

・いつか人と暮らしたいと思う日もありそのことを思いながら今は、仕事で人生の基盤をつくり、労働でそれまでの日銭を稼ぎ、生活力を身につけよう、なんて気になってみたりする

 

・すべての釜戸に火を灯し続ける。大切なものをなにも諦めない。座右の銘のようなポジションに置くならこれかも、と最近毎日思う

 

 ・バイト先に、これが「お局」ってやつだな〜と感じる女性がいるが、この「お局」ってマジでミソジニー世界の語彙だと思うし、特定の誰かのことをこの私が「お局」と呼称するのは、できるだけやめていきたいと思う。

しかしこれ、「他人をデブと揶揄するのはルッキズムなので良くない」ほど単純に「他人をお局と呼ぶのはミソジニーなので良くない」とは言えないような気もしている。

今思いつく理由は大きく2つあって、ひとつは、むしろお局側が内面化したミソジニックな観点から立場の弱い部下女性などをいびっている場合に、お局が「お局」と呼ばれているようなふしがあるから。

もうひとつは、迷惑で憎い女上司のことを「お局」と呼んでみて、「そういう人物、いるいる」の領域にずらしてガス抜きすることで、現実社会の中でギリ共生ができている、という場合があるから。

特にこの後者のようなメカニズムは、軽視できない。どうしても一緒に暮らしていかなければならない家族が碌でもないモラハラクソジジイだった場合、彼のことを「クソジジイ」と表現しながらであれば、彼と暮らし続けることが可能だったりする、それを外から言葉だけとって「人をクソジジイと言ってはいけない」などと言っても、お門違いな正論だ。

 

・なんとなくSNSを開くみたいな時間をやめて、とにかくもっと大きな塊のかたちをした情報を流し込もうと試みている。食べるものが身体をつくるから。

 

・やらないよりはマシなものなんてない、無より価値のない有はないと信じて、ゴミカスみたいな曲を毎日つくることにしている

移動中に不自由な思いをしながらiPadでつくってみた曲とかにも意味はある

 

・あんまり疲れると突発的に慣れない行動をとったりしてみたくなるもので、労働帰りにブックオフでBL小説を買って帰っていた。あの手のジャンルについてまったく知識がなく吟味しようがないので、あらすじもろくに読まず、タイトルからしてテイストが離れているように思えるものを5冊えらんだ。

かなり面白いものもあれば、全然おもしろくないものもあった。読み手の欲望の形に沿わせた書き手の欲望を読む、という感覚。

現実を完全に保留にして停止させたまま柔らかな快楽をもたらしてくれる存在、まさにファンタジーとして、ボーイズラブが機能してくれた季節が、短いけれど確かに自分にもあったのだが、少なくとも今はそうではないらしい、それでも疲れを多少は癒してくれることがある。

 

SNSなどで政治的な?話をすることがあるが、これは以下の理由による。

一、それを秘めておこうとする、社会性の面から言わずにおこうとする機能の欠落により、そこの障壁がないから。

二、それを今自分が言ってみること、言うにあたって今一度深く調べたり考えてみたりすること、によって、自分の側に良い影響があるから。

三、私の言葉を受け止めてくれる層の友人や知り合いたちが、なんか言っとったな〜ぐらいに思っといてくれるだけでも、ちょっと違う場合がある気がするから。

 

・バイオリン弾きの恋人って、あの痣のところにキスする?私なら絶対にしてしまうだろうな

 

・過去の子供の頃の被害の証拠出すとか、普通に難しいてかほぼ無理だろ、簡単に「証拠もないのに」とか言わんでほしい。全てのいじめも家庭内暴力も性暴力も、証拠がなければ一生不完全にしか認められないのかそうですか、

DJ sodaのとき、あれほど真っ向から加害者を糾弾する人がたくさんいたのって、動画という決定的で客観的な証拠があったからなのだな、と少し嫌な考えが一瞬頭をよぎったが、あれほど明確な「証拠」とやらがあってもくだらない因縁をつけられて被害が矮小化されるのを見ていると、やるせない気持ちになる。

あるひとの被害について「証拠もないのに」と誰かが言うとき、その被害の告発を封殺したい気分からやっているのであれば全くの論外だけど、「私の時は証拠がないから泣き寝入りさせられたのに、こいつらは証拠がなくても信じてもらえるのはなぜ?」という怨嗟からやっているパターンもあり、こんな悲劇の連鎖、あまりにもしんどい。

 

・おばあさん集団客が男子大学生店員に「あらお兄さんの手、まっしろで綺麗!イケメンね!」などと口々に言い放つ、という普通にアウトなセクハラ迷惑客ムーブをかまし、周囲の店員もそれを苦笑いでやり過ごす、のを目の当たりにした。もう今どきああいうのをおじさんが若い女にやるのはダメってことに、世の中ではなっているはずなのに、男女逆だとああも公然と行われ、問題ともされないとは。

ああいう軽セクハラ発言って、メッセージの矢印が発言者から対象者に向かっているのではない、そこが害悪だと思う。おばあさんは集団客だったからああいう振る舞いをしたのであって、ひとりの時ならおそらく言わないはず。ただ「この店員さんイケメンね」と同性間の話題のダシにして盛り上がるために利用されている。一対一なら失礼かな?と思って言わないことが、人とつるんでいる時なら言えてしまう、その害悪な力学に男も女もないんだな。

 

・幼い頃を互いに知っている友人の恋愛話を肴にして飲む酒や、1本分けてもらって吸ってみる煙草がうまいと思う日もある。

 

・社会のためにフィクションを欲するのではない、だからすべてのフィクションに対して社会倫理的な正しさを求めようとは思わない

 

・バービーの、マテル社上層部が全員愚かな男たち、という皮肉の描写が、マジすぎてギャグにできない国に住んでいる。

誰かが「女性ならではの〜」と発言するたびに松田青子の『男性ならではの感性』という短編を思い出す。

上記のようなユーモア、きついな〜露骨だな〜具合が悪くなるな〜そんな表現せんでも〜と感じて笑えないことも多いが(どちらかというとやや苦手だし嫌いだな、とさえ思っていたのだが)、あれってやっぱり必要だったのかもしれねえ、と、現実が「そう」であるのを見て思ったりもする。

でも私は、たとえば男性の政治家が女性の政治家に対して「女性ならではのしなやかな共感性〜」などと口にしてしまう感覚や意識の粗末さについてよりも、現状女性政治家が「女性ならでは」の政策やイメージを自ら押し出して行かなければ「勝てない」のだろう、ということの方を、ずっと重く考えている。

 

・子どもの頃から、他者のこと好きになるとその人のよく使ってる持ち物の色とかも好きになってたことを思い出した。その人との関係が遠くなった今でも、その色のことは好きな自分のままで生きている。もう会うことのないたくさんの人々の横顔の蓄積で、自分ができている。

 

・大切に思う人たちと大切な関係を築いていく際のノイズになる恐れがあるからその関係や想いのありようや傾向について、分析したり表明したり、したくない

 

・夏がこんなに頭のおかしい季節になってしまう前に、夏フェスというものに行ってみたかったな、そう思っている人は私だけではないだろうな

 

・私が太陽としている人のライブに行った。

ホールツアーはあまりにも距離が近くて、光に眼を焼かれた。私はLiSAに何を見ていたのか、LiSAが私の何を作ったのか、捉えきれないそれが変容しつつあるような気がして、まだ何も分からない。あと1ヶ月、よく考える。

 

・人と関わることは、傷つくし傷つけるし暴力だし間違うし、正気になってそれに気がついてしまうともう一切やめてしまいたくもなるけれど、私はまだ、人と生きることを諦めていないし、やっていくしかない

9月 散歩拾得物

○散歩のときに心にとまった風景やオブジェクトを集め、記録する

○いくつ拾ってもいいし、ひとつも拾わなくてもいい

○無機物も生き物も情景も香りも行為も並列に扱う

○必要な短さ、必要な長さで記録する

○散歩中メモはせず、持ち帰ってから記録する

 

時間:午後

場所:家から駅まで

・キャベツ・にんじん・トマト等の買い物メモ

・眼科の眼の字に刺さった釘

 

時間:昼時

場所:近所

・sexyという文字列の刺青がある女性の足首

 

時間:夕暮れ

場所:川

・音がするほど強い秋の風

・運動会のころの匂い

 

時間:終電ごろ

場所:川

・夏を送り出すための誰かの花火

8月 メモがき

◯自転車の乗り方をおぼえた夜

でかい月が出ていた日、深夜に突然思い立って自転車に乗り始めたら止まれなくなり、2時間漕ぎ続けて日本橋まで来ていた。進むというより、止まったまま流れる、呼吸を繰り返しながら滑るような乗り物。

これまで自転車を敬遠していた理由は、たった15分乗っただけで全身くたくたになること、歩道と車道のどっちを走ったらいいんだかよくわからないこと、歩行者が多い街中で自転車に乗るのが怖いこと、信号でしょっちゅう止められるのがうざすぎること、でかい道路での右折の仕方などがよくわからないこと、ナビ見れないのが不便なこと、駐輪場探しが面倒くさいこと、あたりにあったわけだが、自転車のタイヤに空気さえ入ればさほど身体は疲れなかったし、免許をとったおかげで道の通り方に関する迷いがかなり軽減されたし、出発前にマップを確認して道の下調べをする技術も習得した、今では、自転車の外出はまったく苦ではない。あとはただ経験と知が溜まって行くだけ!

散歩は考え事が捗るが、自転車はそうではない、どちらかというと現実逃避に近い、思考を押し流す種類の乗り物だと思う。速すぎるせいだろう。

基本的に常に知らない人間に殺されるかもしれないと思って出歩いているので、意味不明な場所に路駐しているすべての車を敵だと思い、止まったら死ぬと思ってとにかく漕ぎ続けた。人が住まない街は夜ごとに冷凍されたようになる。白く光る四角いコンビニだけがやわらかくて、路上で酸っぱいゼリーを食べた。足立区、葛飾区、台東区千代田区中央区墨田区、とぐるぐる30kmちょい徘徊したことになるが、とうとう夜というものの恐ろしさに負け、あるいはこれ以上走り続けても意味がないと判断し、スーパー銭湯で朝を待つことにした。

外に寝湯というのがあって、体をお湯に浸しながら空が黒から青に和らいでいくのをずっと見ていた。2時間スマホを見ているくらいなら、2時間ただ空の色の変化をみつめているほうがマシというもの。やりつづけてさえいれば、なにも得ないということはない。なにごとも、少しずつ、わかってくる。

 

進むべき道について、行き詰まりを感じているから夜中に自転車なんか乗りだしたわけだけど、ひとつひらめきを持って帰ることができた。

やりたいこととできそうなこと、を見極めるべき。そのバランスをとりつつ、作ったり決断したりする。やれそうなことだけやっていても進展はないし面白くない、一方で、ゼロからやりたいことのビジョンだけ突き進めても、ピースが全然揃っていなくて手詰まりになる。だから、この均衡を揺れ動きながらやっていくことが肝。

自分はいつも素直に得意を伸ばすに注力することができず、わざと不向きなことに手をつけようとする向きがあるっぽい、それは変えられない、のであれば、不向きなものの攻略のために得意や特質を活用する、という方向で戦略を立てていきたい。

 

人生のサブクエばかり進めてきてしまったような気がする。そろそろサブクエじゃなくてメインストーリーの方をね。

でもまあ、濃密なサブクエにこそRPGの真価は宿るって誰かが言ってた。新しい概念を開発すること、新しい能力を解放すること、レベル上げに出かけること、装備を揃えること、やることがいっぱいある。

 

 

◯今度こそ生活をコントロールしたい

新しく生活のルールを定めた。しないこととすることを決め、その遂行のための監督役をアプリに任せる。

「しないこと」を守るためには、禁煙アプリもしくは禁欲(世間で「オナ禁」とか呼ばれているあれ)アプリを使う。大した抑止力にはならないと思うだろうが、ないよりはマシというもの。

「すること」の遂行にはDot Habitというアプリが圧倒的に気に入りました。毎日の習慣にしたいタスクを複数設定でき、その実行の有無をカレンダーに色を塗るみたいに視覚化してくれる。

今のところ

・毎日1分のデモを作る

・5時間仕事をする

・1食ごはんを作る

・起床後1時間以内に身支度をおわらせる

・帰宅後即or22時以前に風呂に入る

・寝る前に翌日の服を準備する

などのミッションを自分に課しているが、このアプリ上のシンプルなメモに従って1日の計画を組み立てるだけで、わりと1日が充実する。

「ガチガチにスケジュールを組むことによって不自由な気分になると思うでしょう、違うんだよ、逆に迷う可能性を排除できるので、心理的にも自由になれるんだよ」というのはライフハックの文脈で死ぬほど聞いたことがある意見だけど、これが本当に真実だというのが体感としてやっとわかってきたかもしれない?

 

 

◯バイトがはじまった

1.

本業では稼ぎが足りないので、しばらく最寄りのシネコンでバイトをし、日銭を稼ぐことになった。

初日の研修はZOOMと対面合わせて6時間半もあり、社の理念などを復誦させられたり、「炎のスマイルトレーニング」などといって独特の笑い方を練習させられたりなどした。

自己紹介で名乗りとともに好きな映画をひとつ挙げるというイベントがあったので、やはり映画好きがバイトに応募してくると想定しているのかな?と思ったが、全員が流行りまくったアニメ映画もしくはシリーズ映画のタイトルを挙げていたので、金曜ロードショーのラインナップを見ているかのようで少し拍子抜けした。「敢えて」みたいな顔すらせずに凡庸なタイトルをここで挙げることに、誰も何の躊躇いもない!

当然、このように考える私の方が悪い。「好きな映画」を聞かれることが、価値観や感性のジャッジメントとなるようなコミュニケーション・コミュニティなど不健全に決まっている。

ともかく100人ぐらいスタッフのいる巨大バイト先に入社してしまったようだが、そんなでかい組織でやっていけるのか?

 

2.

研修期間を終えた。「部品」になるための訓練。

まだ立ち労働に慣れていないので、脚が痛い!労働を終えるたび、一瞬でも長く椅子に座っていたい、という気分になる。休憩ありの6時間労働よりは休憩なしの5時間労働の方がつらい。脚の疲労を回復させられないため。

勤務開始から勤務終了まで片時も離さずに無線を耳に突っ込んでいて、かなりの頻度で情報が強制的に流し込まれる。この感覚も独特だと思う。劇場という全体が滞りなく動くための部品として自分の労働行為がつねにあると認識させられる。

ただ疲れているのは脚ばかりなので、帰宅してから座り作業をすることは十分可能。もう少し体が慣れてくれば、立ちの家事とかもできると思う。

早く仕事を覚え、とりあえず「知らないパターン」が滅多に発生しない状況になりたい。「自分はいつでも自分をやめて、部品に戻れるのだ」と思えるようになったとき、心理的な作用が現れるか?

 

3.

周囲は圧倒的に大学生アルバイトが多いので、私も当然大学生だとみなされてしまう。「何年生?」とニコニコ善意のタメ口で話しかけてくれる大学生どもに「大学を卒業したところで......」と先輩であることを告げ、謝られる展開が毎日発生するので、そのやりとりにも飽きてきた。

年齢の次には「なんの業務が好きですか?」と聞かれることが多くて、これはマジで変な質問だなと思う。普通は、アルバイトにおいてなんの業務が好きもクソもないだろ。

 

4.

そうは言ったものの、実際「好きな業務」というのはある。今のところ、スクリーン巡回の業務が気に入っている。上映中の色々な映画を断片的に覗き見できるのが面白い。立て続けに違う映画の音を聞くというのは、あまり無い体験。

同じアニメ映画でも、マイエレメントではトーマス・ニューマンのうるおいに満ちた音(ニューマンは実写映画の音楽の方が好みだけど、今作やファインディングニモのテイストも明るい透明感があっていいよね)、マリオではブライアン・タイラー特有のバリバリした豪快で大胆な音、君たちはどう生きるかでは久石譲の湿度が高く室内空間っぽい音、のように、それぞれの持つ音色の違いに露骨に気がつく。

ていうか改めて思うのだが、久石譲オーケストレーションって変だよね、変っていうか特徴的、レイヤーじゃなくて音混ぜの発想が核にあるというか?

 

5.

ほとんど手羽先だからという理由で「バ先」という言葉を使わないことにしている。

 

6.

シネコンで毎日毎日、インターバル10分とか15分で映画がぶん回されているのを目の当たりにすると、なんだか安心する。

時間をかけて作られたものは、それぐらい時間をかけて提供されるべきだと思うから。

たとえ客が3人程度しかない回があるとしても、その3人のためになんの惜しげもなく映画は上映される。

作品の方はシネマの中で回転し続けていて、鑑賞者の側は、自分の生活の中で最高に都合のいい時間を選び、ただシネマに来ればよいだけ。何度でも何度でもしつこく上映できること、作品が鑑賞されるチャンスが多いこと、それによって鑑賞のハードルがとても低くなること、複製のよさだと思う。

 

7.

行きがけの道で休憩時間に食べるためのパンやおにぎりを買っていく。すると、その値段をなぜか退勤時まで覚えていて、帰路で1の位までぴったり家計簿に入力できる。これは、労働にさほど知能が使われていないことの証左だと思う。

 

8.

脚の筋肉が育ち、階段で息切れしなくなった。脚を使って生きているな〜という感覚が毎日あり、健全ですらある。心なしか寝起きもよくなった。

「まだ若くて身体を動かす資質がとてもあるのにそれをしないせいで、頭ばかり使ってエネルギーが空回りし、心を病みがちなのでは?」とここ数年思い続けてきたので、動き回る労働は有効かもしれない。

 

9.

上映中、定期的に客の鑑賞態度を監視するという業務がある。迎えた時はどんなにうるさい客も横柄な客も、上映が始まれば大抵はみんな黙っておとなしくなる。

映画を見ている人間はかわいい。眠っている人間に似ている。ひとりひとりが社会や関係から切り離され、個として世界に没入している。

「鑑賞中のお客様を監視する」という業務は、スクリーンにまなざしを注ぐ者の無防備なすがたを窃視するということでもあり、正当性をもって行使できる暴力である。

この罪悪感から、どんなにへりくだって接しても、権力を握っているのはこちらなのだ、という意識がある。

 

10.

なにせスタッフが多いので、休憩中に軽く世間話をしても、次に会う時までに誰となんの話をしたんだか明確に覚えていられない。

顔見知りではあるが、まだ誰の知り合いですらない。この状況に特有の心地よさはある。メンバーでなく、観察者でいられるから?

 

11.

自分が見たいと思う映画と客がたくさん入る映画に齟齬がありすぎる。自分がこれまで興味がなかった、また周囲の人もさして話題にしなかったタイプの映画、ほど客がたくさん入っている。

特に、どのシーンを覗いても結構ノリがきついというか古いというかサムいような気がする邦コメディ映画とかが、あんなに人気でたくさん人々に見られていることとか、本当に知らなかった。

 

◯胃腸炎になる

突然に謎の高熱、胃痛、下痢などの症状に襲われ、まる1週間ほど失ってしまった。

先月もコロナで倒れて、今月も胃腸炎で倒れて、というのは私にとってかなりイレギュラーな事態で、少しへこんでいる。今まで風邪や怪我などあまりせずに生きてきたので、病の経験に乏しく、それはつまり参照できるサンプルがないということで、「どう対処していいかまったくわからない」だらけで弱った。そういう時期なのかもしれない、本当に忙しくなる前の、心身のトレーニング。

胃腸のかぜは、幼稚園生の頃にノロウイルスに罹ったのが最後だと記憶している。あの嘔吐の記憶は、たいして物心がついていない幼き私に「ノロウイルスは身近にある感染症の中で一番つらい病気」という認識を長きにわたって植え付けた。そしてやはり今度も、食中毒なり胃腸炎なり(今回の症状はおそらく細菌性の胃腸炎だと思われる)、胃腸がやられるのは身近な脅威の中で最もつらい、ヤバい、洒落にならないという認識が新たになった。今まで体験した体調不良の中でいちばんつらい!!!と何度もおおあばれした。

何がヤバいって、まず熱が凄まじい。基本的に39℃を下回ることがない。「あ、ちょっと今らくになってきたかもしれない」と思って熱を測ると、40℃から39.5℃に下がってただけ、ということがよくある。起きていると腹の違和感でつらいので、私はこの高熱によって朦朧とする感覚を利用し、よく眠って過ごした。

それから腹痛。段階に応じたありとあらゆるバリエーションの腹痛。毎日絶妙に違ったタイプの腹痛に悩まされるので、飽きることがない。胃がどくどく脈打つような腹痛・胃をグッと手掴みされているような持続的な腹痛・排便がうまくいかない時の冷や汗が出るような痛みを増幅させてバカでかくしたみたいな腹痛・突然下痢のカウントダウンがスタートするような時限爆弾式の腹痛、など、こんなにありとあらゆる腹痛の種類があるんだなと感心するほどの手数で日々私を楽しませてくれた。

 

痛みに直面した時に人はどうするか?対処とか工夫とかの領域と、ひたすら精神力で我慢する忍耐の領域がある。あの、身体の中で何が起こっているのか見えない、詳細にわからない、けれども痛みのニュアンスとしては詳細にわかるという状態。強い知覚が絶えず引き起こされているのに、なぜそうなっているのか、因果がわからない理不尽さ。自分の身体とのコミュニケーション不能さ、断絶の感覚。

 

痛みも刺激である以上、その差異を比較する、知覚の中に潜り込んでいく、鑑賞的な向き合い方が可能ではある。そういう分野があってもよいと思う。

痛みを表現する語彙が気になる。痛覚を高い精度で捉え、それを他者に共有する、ということは医療の場ですらそれほど重視されていないような気がする。ズキズキとかビリビリとかじんじんとかの痛みを表現できるオノマトペは確かにすごいけど、それしかないのか?病院で聞かれることがある「1~10で表すなら今の痛みはいくつか?」という質問も、定量的なようでいてこれほどあやふやな表現もない。痛みの要素を分解すると、位置、強さ、範囲、持続性、時間変化などになる?

 

暇なので胃腸炎についてネットで検索しまくるのだが、症状についても原因についても対処法についても、驚くほど貧しい情報しか得られなかった。知が共有されていない!!安静にしていればやり過ごせる種類の体調不良であるせいで、誰も胃腸炎についてそれほど深く知る必要がないのかもしれない。

細菌性の胃腸炎だったので、病院に行って抗生剤を飲むと症状が好転した。

高熱かつ腹痛状態での病院の待ち時間は非常につらく、パズルゲームで気を紛らわせる以外にできることが何もなかった。ライフが枯渇するので4つぐらいのパズルゲームを回していたが、ああいうのはどれも極端な運依存ゲーであることがわかる。プレイの腕前とか技術とか判断なんてものはほとんどなくて、重要なのは盤面の配置のみ。私は、その時が来るのを待ち続ける。配置が整うのを待ちながら、痛みがおさまるのを待っている。

 

病み上がりっていうのは最高で、何しても感動できる。

普通の固形の便が出ること、ごつい食べ物たべて自分の胃腸に負担をかけられること、鍵盤の上で自由になれること、自分の脚を信頼できること!

 

 

 

・やっぱり、手帳に好きな格言とか書き付けちゃったりして、それを読み返しちゃったりするほうの人でいたい(その手の主人公が好きなのだ)

 

ポケモンスリープをやっているが、つかまえたポケモンに1日1個名前をつけるの楽しすぎる!これまでポケモンに名前付けない派だったけど、名前を熟考することでプレイ止まるのが嫌なだけだったのか

 

・イケオジと同じくらいイケオバがみんなに好かれてほしい。私は知的で仕事できてちょっと気難しい独身中年女性をとりわけ、とてもセクシーに思う

 

ふたなり童顔ギャルになりて〜というのに気がついた。もしも好きにアバターを纏えるなら、そう作るっていう話。もうそういうのどうでもいいなと思ってるので深追いするつもりはないが

 

・人間は生活の中にドラマ、物語を必要とする。それを生むために人はすべての行動を起こす。仕事をするとか会話をするとか。物語が不足している時に、大抵心が死ぬ。本や映画など被造物である物語に物語欲求の解消を外注するという手もあるが、私がおすすめするのは「料理をする」という方法である。

 

・人間ってけっこう、顔の良い人間の言動にいちいち意味を見出して神格化しようとしがちだよね〜とよく思う。良いことでも悪いことでも。要するに磁場が強いっていうか?

 

・ここ数年、いわゆる「セクマイ」系ツイッターアカウントをゆるく観察している。

「クワロマンティック宣言」以降、クワロマンティックかも、と自認するクィアの人がすごく増えたような気がする。「恋せぬふたり」のドラマをみて、自分がアロマンティック・アセクシャルだと考えるようになった人、もかなりいる。言葉がセクシュアリティに形を与えるのだ。

 

自分の古い日記を読んでいたら「恋愛感情はたしかに存在しているが、恋愛関係というものの存在については懐疑的だ」と書かれていて、ずいぶん前から答えが出ていたんだなと感心した。愛の中で特に恋愛とされているものって、他人を使って1人でするもののように思えてならず、だから「関係」としては存在しえず、「恋人」という「恋愛用の人間関係」を設けることは不健全なように思っていた。

性行為をすることと、恋愛関係=交際関係にあることと、恋愛をすること、これらはすべて別々のことだし、実際これまで別々にこれが起こってきてしまった。そのせいで長いこと混乱の中にあったし、今も自分のセクシュアリティに適切な名前を与えてあげられずにいる。

 

ツイッターで、他人の家にいるとき使用済み生理用品をどうするかって話を見かけた。

他人の家に自分の体液を捨てたくない人がいるのはわかるが、サニタリーボックスを設置しておきながら、生理用品を捨てられたくないと考えている人も一定数いることが衝撃。「家主が来客用サニタリーボックスの中の使用済みナプキンに気づくのが遅れ、大変なことになった」みたいな出来事について、捨てた人のせいみたいに言っている人がいてびっくりしたんだけど、それは100施設管理者の落ち度じゃないのか

私は自分の家に滞在している人が使用済み生理用品を鞄にしまっていると思うとかえって居心地悪く心苦しいので普通に捨ててほしいなー

 

・本になってない知がいっぱいある、それを集めて自分のための本みたいにしていく

 

・「あなたがいると私は強くなれる」という理想の関係性について。「あなたといると」や「あなたがいれば」ではなく?

 

・『若おかみは小学生』の番外編で、おっこちゃんが性転換して女の子を好きになる話があって、なんかめっちゃ好きだったのを思い出した。

(男の子の体になったことで)初めて女の子に恋愛感情を抱いてびっくり、みたいな描写として、「お腹の底から何かがわくわくっと何かが湧き上がってくるような感じ」で「かわいいじゃん……」って思うシーンがあって、(これ全部記憶だよりだから完全に捏造かもしれないのだが)その能動型の性欲みたいなものが書かれているのが新鮮だったんだと思う。

 

・サマンサとプリキュアのコラボ商品を見ながら、プリキュアになりたかったからといって、いや今だってプリキュアになりたいからといって、こういうバッグを持つような女にはならなかったな〜と思う夜。

 

・他者に感応してパーソナリティが形作られる、のは不誠実で卑怯なことか。

自分の中に何重にも言い訳を立てているような居心地の悪さと、他者に言葉が通じないことに対する根源的な絶望感と諦念は繋がっているように思う。

 


正しさを振るうこと。

他者はいつでも誰も間違っていないという世界の中では、剛き理論はただやりすごすべきもののようにしか思えず。でもそうではない、剛は剛の武器を以て打ち立つ、迎え打つ、ことができる、そういう性質のものらしい。

 

いつでも自己を作りかえることができるし、そのことに喜びがある

 

これまでずっと、他人に舐めさせるための技術を必死こいて身につけてきたようなところがあって、それが最近「私のことを舐めるな」にシフトしている。この転換地点にある段差を、乗り越えてゆくための苦しみ。

いつでも反対の方向にむかっていくというのは絶望的な体験で、目眩がするほど。

しかしこの落差がなくては、生きている甲斐も何もない。

 

大人になってからの方が病気や怪我はつらい、体が大きくて重いから

でも、戦う方法を知っているし、打ち勝つための武器がある

これは体調を崩した時に思ったことだけど、魂の問題においても同じことだ

 

お守りのような言葉を握り締めて生きていたくて散々探し回っていた時期もあったけど、そんなものはどこにもないとわかって、やめてしまった。だからお守りのようなものを大切に持っていられる誰かを見ていると、羨ましくなる。

まあ私が、お守りによって生きていけるタイプではないんだね、きっと

 

・金にするためでない、ただ固有の時間についてのアイディアとしての音楽をつくりたいなと思う。

 

・素材を選び、それにこだわること、ができていない作曲は落書きでしかないな、ちゃんと選んだ自覚を持っているかどうか。

 

・にわかに話題になった男子中学生のグループYouTuber?を見ていたら、少年っていうか男児の輝きが、大人になって男性になり、失われてしまうことに対する勝手な悲しみで泣けてきた。

これは本当によくない感情で、性欲望的ではないが紛れなく性的な性質のもの。

私は女が好きだけど、少女よりも少年が好きだし少年で居たいのだ、すべてそれも勝手な気色の悪い願望、おじさんたちが少女の入れ物に夢を詰めているのと同じことをしている。

 

・『アナザーラウンド』というデンマーク映画をみた。要約するとおじさんたちが仕事中にこっそり飲酒してはしゃぐ映画。秘密のいたずらを共謀してニヤニヤし、酔っ払って子供みたいに転げ回るおじさんたち、を見ていると少し楽しい。

最新のインディジョーンズで見て以来マッツ・ミケルセンの色気が忘れられず、完全に彼目当てで見たのだが、ラストのダンスシーンがよすぎて、よすぎて、何度か見ている。

 

・性的アピールという技術があるのと同じように、非性的(存在であることの)アピールというのもまた存在する。女性たちがこれを使って世の中を渡り歩いていることはよく知っているはずなのに、すっかり忘れていた。

社会の中にいて、性的アピールをしなければ非性的に扱ってもらえるかといえば、そうとは限らず(これは本当におかしく残念で悲惨なことだと思う)、何もしなくても性的にまなざされる可能性があるならば、積極的に非性的アピールをやっていくしかない。

こうした同性の自衛のための非性的アピールを見かけると、性的アピールを見る以上にずっと痛ましい気持ちにもなるが、それをしないとひとりひとり、自分が損をする。でもその損をするということこそが、悲しい。

 

私は、何によって汚れることもない

この身に何の侵入があろうが、私の肉体も魂も美しいまま、と、固く信じている

ただ、私を汚せたと思い込んでいる誰かが世の中に存在するとしたら、そいつを(そのような言説を)抹消する必要があるかもしれない、ということを時々考える。すぐに殴り返せなくても、遅効性の毒で緩やかに復讐できる。

個人のレベルで敵に打ち勝ち、さらには世界を書き換えるために、つまり誰かが負かされることのないように、対抗、転覆のための理論を学び、打ち立て、話すこと。

そしてどんな時も、勝つことに拘泥するあまり真実を見失わないよう、注意ぶかくあること。


人間の知識と知性に惹かれるけれど、重要なのは知識や知性そのものではなくて、知性の使い方に宿る知性、もしかしてそれを誠実さと呼んだりする?

 

私を手懐けられると思うような迂闊な人間に懐くことなどないのにな~と思うし、そのたぐいの愚かさ全般を愛せないところに、私のセクシュアリティの鍵がいっこある

 

 

・同時にたくさんのテーマが進行していく。

苦境でも、すべて自分がそれに耐えられると見越して自分で選んだ結果なので、普通に耐える。

自分を信じた自分のことを信じるという永久機関みたいな方法。

 

・絵を描かないのに、夢の中でたまに画材屋に行く

8月 散歩拾得物

○散歩のときに心にとまった風景やオブジェクトを集め、記録する

○いくつ拾ってもいいし、ひとつも拾わなくてもいい

○無機物も生き物も情景も香りも行為も並列に扱う

○必要な短さ、必要な長さで記録する

○散歩中メモはせず、持ち帰ってから記録する

 

時間:深夜

場所:東京都

無人の公園にて蝉のサラウンド音響

てっぺんがエメラルドグリーンの塔

橋の上、濃い潮の香り

閉店後のカフェでバイオリンを練習する女性

軒先に並ぶ光と風鈴の音の霊気

飛び交う7匹のねずみ

姫カットの深夜参拝客

ごみ袋に放尿するおじさん

道路に寝転ぶ人の真っ白なTシャツ

 

時間:18時ごろ

場所:近所

学習塾のはしゃぎ声

狭い庭先、おじいさんの煙草の匂い

八百屋の店じまい

 

時間:ブルーアワー

場所:家の前

すきとおってひかる青い雲

 

時間:17時ごろ

場所:近所

向き合って吹き合う2台の扇風機

電柱から降り注ぐカタカタのせみの音

かつて住んでいた部屋の物干し竿

白く鋭角な階段

劣化プラスチック

雨上がりブロッコリー樹木の匂い

フルーチェと同じ色の細ビル

ガーデナーロード

ピンク色の花火みたいな鉢植え

7月 メモがき

○コロナに罹患した

急激に体調が悪くなり、「これ、何かの感覚に似てるな……ア!思い出した!コロナワクチンの副反応の感じだ!ということは……?」などと考えているうちにグングン熱が上がり始め、検査を受けたら陽性だった。

最近は比較的感染に気をつけていたし、やるべきことはやっていた、と自覚しているから特に後悔もなく、仕方がないなーという思いのみ。ただ仕事のチャンスがある大事な時期だったから、熱に浮かされながらも曲を作っていたが、次第にそうも言ってられなくなり、結局すべて諦めて寝ていることしかできなかったのが心底残念だった。でも気合いの問題じゃない。

熱が出ると、まず鼻の中を通る息、空気があつい。尿もあたたかい。重心が上半身に寄って、でもその周りを支える筋肉がまるっきり弛緩しているみたいになって、ぐでっと倒れてしまいそうになる。そして発熱は音楽を聴くことと相性がよく、酩酊状態のように揺れで世界のすべてを飲み込む。

療養期間が始まることが確定してから、アイスやらポカリやらをコンビニでたくさん買って帰った。ティッシュ、ゴミ袋、ペットボトル、体温計など重要なものをベッド脇に揃え、部屋を療養仕様にする。異常が起こり続けている体内の感覚に意識を向けるだけで、絶えず情報が入力され続け、それを処理するだけで発見の連続。など、わりと非日常を楽しんでいた。

熱があると、生野菜とか、水とか、ポカリスエットがとんでもなく美味しい。身体に染み渡る。ポカリはやわらかい味がして、アクエリアスはそれより硬く、名前通りの印象であることにも気づいた。インスタント粥のような偽物のご飯を食べ続け、ひさびさに自分で炊いた米や味噌汁を食べられた時も、粗末ながら感動するほどの美味しさだった。

結局、処方されたカロナールは全然効かず、イブで熱を無理やり下げながらも38度ぐらいの熱は4日ほど続き、ゆるやかに下がった。唾液を飲み込むたびに喉元を⭐︎マークが通過していくような咽頭痛は5日ほど、鼻詰まりの症状は1週間ぐらい。基本的に私はいくら寝ても永遠に寝ることができるが、さすがに寝床を視界に入れるだけで嫌になってくるほど、ベッドの中で過ごした。

横になっていることしかできない間は、ずっと面倒くさくて手をつけていなかったゲーム(FF12のこと、システムが本当に面倒くさくて病気でもなければあんなのやってられない)をさわっていた。ポンコツプログラミングを組んでオートで戦わせる謎の戦闘システム、愛だの恋だの言わないで立場や責任の話をし続ける、国同士の権力争いを核としたひたすら血生臭く複雑なストーリー、屈託なしにキャッチーで強いメロディを冠した音楽、どこに行ってもやけに暗いマップ、挙動のおかしい4倍速モード、いつまでも慣れない主人公声優の独特な演技など、ややとっつきにくいながら面白いゲームで、愛すべき時間だった。

高熱でふらふらになりながら食糧の買い出しに出かけさせてもらった時、駅前で明るい流れ星を見た。綺麗だったなー

 

後遺症もなかったのは幸いなのだけど、直近に積み上げた習慣のすべてが崩落してしまい、復帰に時間がかかっているのが痛い。

仕事をしまくらなければ仕事を得られる未来も遠い、そういう厳しい現実について思う時いつも、『スロウハイツの神様』に出てくるかっこいい女の「世界と繋がりたいのなら、自分の力でそれを実現させなさい」という言葉を思い出す。これは、前半も後半もその接続も、全くその通りで、この厳しく説教臭い優しさに何度尻を叩かれているかわからない。繋がりの希薄な不安定な立場の中で恐怖に溺れそうになっても、そこから抜け出すにはとにかく自分の力で掴むしか助かる方法がないし、自分の力を正しく使えないなら世界など見つめていても意味がない。

 

何かを作るためには、生活の忙しさに流されてしまう状態の楽さに甘んじずに、何かを作るための特別な時空間の区画を設ける必要がある。この、区画へのアプローチ!

 

 

○日雇い賃労働というミニゲーム

アルバイト応募先からしばらく連絡が途絶えていたため、いわゆる単発バイトマッチングアプリと呼ばれるものを使って、何度か日雇い労働に入らざるを得なかった。行ってみるまでどんな現場かわからないため、ギャンブル的なスリルとストレスが味わえる(このいらぬ緊張感は日常生活を営む上で明らかに非効率だ)。しかし誰にでもできるような非属人的な作業をその時間だけこなして、何の人間関係もつくることなく、終業すれば直ちに無関係な個人に戻れる、という点では、心理的な侵食を受けることのない自由さがあった。

アプリを使うと1分で今日明日にでも労働の予定を入れられる、ということの効果が存外大きく、どうしても作業が捗らない時にアプリを開き「あんまりダラダラしているようなら日雇いバイト入れちまうぞ」と自分に対して脅すことで、急に身体が緊張しだし、なんとか作業机に向かうことができる。

こうしている今も「自分が今なんとなく使っている時間はいつでも金に変えることができるのだ」という資本主義に絡め取られまくった嫌〜な意識を持ち続けることで、なんとか時間の価値が最低賃金を下回らないようにしている。貧しいことである。

アプリの設計は結構気持ち悪い。雇用者と労働者が互いを評価するシステムがあるため、自分の1日の働きぶりにいちいち評価がつけられたり、その成果に応じて受けられる仕事が変わったりする。求人に応募する時には、持ち物の確認などと一緒に「はきはき喋れる」「元気がある」などの項目にチェックを入れる必要があり、そういった人格の条件を満たしていると自己申告した以上、そう振る舞わなければならないようなプレッシャーを感じる、ような仕組みになっている。ただのビル清掃に「見た目にとても気を遣っている方」なんて条件で募集する必要があるのか?(その時給で?)と疑問に思うような求人もある。

いや、意図はわかる。私がそうであるように、労働者側だって未知の職場からどんな仕打ちを受けるかわからず恐怖している。それと同じで、雇用者側も忙しい中でわざわざ投入した追加人員がとんでもない奴だったら困っちゃうなと思っているわけで、「一般的に期待される労働者像の外れ値」みたいな人間を弾く目的で、高めのハードルを課さざるを得ないってことでしょう。とはいえ、たった1日のわずかな時間分の賃金しか保証してくれないくせに、なんで靴下の色から人格に至るまで指定されなくちゃいけないのかしら、と思わないでもない。

 

日雇い労働の仕事というのは、物を運んだり分けたり並べたり任意のタイミングで挨拶を発したり、(こういうことは言うべきではないが)要するに「誰にでもできるような仕事」と言えるものである場合が多い。教育や特別な知識を必要としない業務内容を、いつでも替えがきく労働力として遂行する。組織の人ではないので意思決定などの余地も一切なく、社員かパートの人の指示に従う動きだけをする。ちょっとしたルールを最初に覚えて、ひたすらそれを反復する、ミニゲームのようなもの。

この労働の場においては、私たちはただ「人手」としてのみ必要とされている。個々の人間が個々の人間であることとか、それぞれの人間の内心とか、「その人なりにできること」(いわゆるスキルと呼ばれるもの?)とか、は一切問われることがない。私が持つもののうち、ただ時間と手間にのみ金が支払われている。

こんだけのことをするために、予め決まったことの遂行のために、人力によるちょっとした作業が、確かに必要なのだなーー、みたいな当たり前のことを思う。そして、自我を放棄してミニゲームに興じる行為には、特有の強力な快感がある。人に使われてひたすら作業をこなしている時間の経ち方には、一切の無駄もない。

一方で、「なーーーーんでこんなことやんなきゃいけないんだ???ずっとこんなことはやってられない、絶対に本業をがんばろう」と思うために、わざわざ率先してこの種の労働をに身を投じるようなところもある。労働と仕事という言葉は確かに違うのだと思う。

 

 

○自転車の空気ってヤバすぎる

信じられないことだが、これまで自転車のメンテナンスを平均半年に1回ぐらいしかしたことがなかった、と思う。

日雇い労働先に行くために久々に自転車に乗ったものの、いくら漕いでも全然進まない。どんな人よりも私よりも速く、軽々と自転車を漕いでいく。老人も、お母さんも、若いのも。25分で着くはずの道を走行するのに40分かかり、また40分走った時よりも遥かに身体が疲れている。どう考えてもおかしい。

この自転車か、私の身体構造か、私の身体の使い方か、このどれかに問題があるはずだ。大体、道ゆく自転車の人たちは、何漕ぎかしてしばらく漕ぐ足をとめ、スーと滑るだけの時間があったりする。あんな真似をしたら、自転車が数秒で徒歩ぐらいの速度になり、止まってしまいそうになるではないか、ならないのか?というかタイヤが一回転ごとにガタンガタンと音を立てている、絶対におかしい早く早く早く自転車屋に行かなければ......

という次第で街の優しい自転車屋に助けを求めると、空気が抜けすぎた状態で無理に走行し続けたせいか、タイヤのチューブが寄ってしまっているという話だった。後からわかったことだが父が勝手に強化タイヤに交換していた事情もあり、空気が抜けているのが分かりにくいらしい。

800円ほど払ってタイヤの状態を直してもらって新たに空気を入れると、一漕ぎで訳がわからないぐらい進んだ。商店街で小叫びしそうになった。私が今まで自転車だと思っていた乗り物は何だったのか。私が今まで自転車が苦手なのだと思っていたのは何だったのか。私はこれまで一度も、自転車という乗り物の本当のありようを知らなかった!

 

 

SNSの使い方を再考すべき

ことに最近どんどん気持ち悪くなっているツイッターは、あまり使うべきではない。

何も投稿をしなければしないほど、SNSから離れられるというのは本当だと思う。一度何か投稿をしてしまうと「いいね」等の反応がついたかどうかという不確かな情報を確かめたい欲求を刺激してしまうらしい。(社会生活を営んできた人間は、集団から逸れる=脅威に晒されるのではないかという恐怖を本能的に想起するため、自分の発信する情報が他者に好意的に受け止められたかどうか確かめようとしてしまうのだ、などといった説が本になっていた)

だいたいインターネットで目的なくだらだらと情報を得ようとしてしまうのは、周囲の環境を理解しようとつとめる人間の生存戦略を利用して、依存度の高いデジタルコンテンツが設計されているからであって、それにまんま踊らされるような生活設計であっていいのか?

SNSを開く→仕事をしたり食事をしたり人と会ったりする→SNSを開く、この再びSNSを開いた時に、「帰ってきた」感覚を抱いてしまうとしたら、それは良くない状態に陥っている。オンラインは常に外出であって帰還ではないからだ。

自分が発した情報に対して、SNSの速度でレスポンスが返ってくることに慣れてしまう可能性があるのも怖い。練って、溜めて、時間をかけてしか大抵のものは作れないので、報酬系を壊すべきではない、

 

 

 

 

・メッセージツールの返信をストレスなく行えるようになりたいという問題を長く抱えているが、これについては完全に仮説が立ちつつある。メッセージの返信が苦手なのは、文章作成の際に必要以上に感情の出力を行っているからではないか。自室にいて自分だけの時間の流れを作っている中で、まるで対人環境のような感情出力(+感情の誇張表現)を強いられる(強いてしまう)のが苦痛で、避けてしまうのではないか。この感情出力を減じるには?

 

・まだまだ人格の修行が足りないので、「曲が女っぽくない、むしろ男っぽい」と言われると喜んでしまう

それとは別に男っぽいとか女っぽいとかじゃなく、子供っぽいという在り方があるはずだ

 

・水星の魔女はまだ一期すら見終わってないが、ミオリネさんは顔がかわいいし高圧的な態度もかわいい。キャラ造形の定石になりつつあるツンツン系、高圧的カテゴリのキャラクターの中でも何かちょっと非凡なかわいさがある。「怒り」の感情がデカかったり不機嫌を隠そうともしない女って謎でよくわかんないからかわいい。

しかし水星の魔女1話って本当にすごかった。めちゃくちゃ家父長制への戦いだったし、めちゃくちゃウテナだった。あの迫力で完璧な1話を見せられたあとは、ちょっと画面を閉じてしばらく深呼吸だけしていたぐらい。あの衝撃を超えてくれるような期待があんまり膨らまないから、続きを見られない。

 

・ひとが愚痴言ってるときって、今ここじゃないときに黙ってひとりで立ち向かってる現実が、前提としてあるわけで、それを軽視したくはないよな

と基本的に思ってはいるが、ツイッターで流れてくることのある、「ゆるふわな絵柄で描かれた職場の特定の人の愚痴エッセイ漫画」がはちゃめちゃ苦手である!

職場の特定の人の愚痴、それそのものは、自分に向けられていようが他人同士の会話であろうが、口頭で聞く分にはなーーんのストレスもないが、それがゆるい絵柄の漫画として出力されると途端にイライラしてくるのは何故なのか。

SNSエッセイ漫画が多数に向かって共感を要請する形式だからかもしれないし、絵柄で人畜無害そうな雰囲気を演出しながら人の悪口いうのって狡くない?と思うからかもしれない

 

・男子学生の集団が女子風呂を盗撮したニュースがあって、これは「普通に悪質な犯罪行為なので擁護の余地がないよね」「女の身体をホモソの肝試しあそびに使うな」みたいな話なんだが、「女の子にとって裸を盗撮されることはどれだけ深く傷つくか」「お前ら男の裸と女の裸の価値は違うんだ」などの方向性の反応も多く見かけた。

私は「裸を盗撮されるのは深く傷つくことなので辞めてほしい」よりは「裸を盗撮したぐらいで、何かを収奪できたように思ったり優位に立ったように錯覚したりするな」の方がデカいので、盗撮含め性犯罪一般がどれだけ被害者に恐怖やトラウマを与える特殊なタイプの犯罪であるかを強調して訴える論法を取りたくない。何も奪えないし、その「遊び」は構造的に破綻しているぞ、という。

そういえば桃鉄の隠し要素で女風呂覗けるようになってる仕様、あれなんだったんだろう。

そもそも日本では、江戸時代後期まで浴場は混浴が通例で、湯を浴びる裸は性的な意味を帯びたものではなかった、というのを最近知った。裸体を隠蔽するからこそ、裸体を価値あるものとしてまなざす様式も生まれる。(出歯)亀だか鰐だか知らないがもう手遅れではあるものの、風呂覗きがゲームのラッキー要素として存在していたりしないほうが良い。

 

・「日本はポルノにモザイクをかけなきゃいけない法律になっているせいで、数々のマニアック過激シチュエーションポルノが発達した、みたいな記述を読んだんだけどこれ本当?無修正ポルノが規制されているのって謎だなと思う。

最近ジャネール・モネイが新曲でクィアでセクシーなMVを出したとき、その性的表現がYouTubeの年齢制限に引っかかり、モザイクつきバージョンのMVが新たに公開されたことがあった。Twitterで「MVの“クリーンでバージンな”バージョンを公開するために、わざわざ手を加えてモザイクを追加する必要があった」と冗談混じりにポストしていたのが面白かった。

実は私は、DIVAたちの「クィアでセクシーな表現」について、良いものが存在しているなーと客観的に思うだけで、それ自体に自分が強くエンパワメントされるということはあまりない。でもジャネール・モネイだけはなぜかずっと特別で、この人が世界でいちばんセクシー!!(という世界の常識、世界の秩序であってくれ!!!)みたいな気持ちになる。

 

・古本や食器の買取始めました!という趣旨のポスティング広告に【永久保存版!壁に貼ってくれると嬉しいです】と書かれていた。

ちょっと距離感がおかしい。近すぎる。一切知らない、行ったこともなければどこにあるのかも知らない店が新しい試みを始めた、その情報を壁に貼ってどうする?ただ読んだ人が「へえ」と思ってくれればよくないか。壁に貼ることを強いていいのは、防災やゴミ出しについての地域からの配布物くらいのものじゃなかったのか。

見知らぬ他人の住居への侵食権があると思い込んでいる図々しさがちょっとかわいい。

 

・近所の惣菜屋のクチコミに「美味い!安い!常連決定ぇぇぇ!」て感じの投稿があった。楽しい勢い。これからひとりで何か考えているとき「決定ぇぇぇ!」と叫ぶ人格を用意したら、愉快かもしれない

 

・ハリセンボンの春菜とはるかが、叔母とかなんか親戚だったら嬉しいなとよく思う

 

フーコーの読み方が少しずつわかってきた。同じようなことを視線を外しながらくどくど何度も言い換えて少しずつ意味を積み重ねる論法。全ての欺瞞を突き崩そうとするようなスタンス。