情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

9月 メモがき

○一瞬の沖縄滞在

弟の受験の付き添いのため、沖縄に行った。1泊2日の超短期滞在。

印象的だったのは、建物が四角いこと。

太陽がよく照り、ものすごく蒸し暑かったが、かえって生きているという感じがして心地よかった。

朝と夕方、二度海に出て砂浜を歩いた。知らない海の色をしていた。白色を混ぜたような、ミルキーで明るい青。砂浜は深く、サンダルが埋もれた。

那覇市のあたりは5車線もあるでかい道路とかが普通にあって、かと思えば一本入るだけですれ違うのも困難なようなとても狭い道があって、ドライバーはみんな強引で、運転難易度がやや高い。

レンタカーのラジオは何故か米軍の駐留軍人向けの放送に設定されていて、それをずっと聞いていた。Barbieのサントラからピックアップされた曲が何度も流れていた。

面白かったのは、ハイビスカスという花。イラストなどに描かれたハイビスカスは、派手で存在感のあるキャラクターとしてイメージされるけど、実際道端に群生しているのを見ると、緑の壁に点々と明るい光が散っているように見え、案外ひかえめな印象を受ける。鉢植えのハイビスカスは東京でもよく見かけるけど、あれはイラストと同じ、個々の花に焦点が当てられている。沖縄の壁状ハイビスカスは防風林の目的もあって植えられているそうなので、見え方が全然ちがうのだ。

とはいえハイビスカス、近くに寄ってみてみると、やっぱりあの、雄しべと雌しべが、露骨すぎる!!笑えるぐらい素直であけすけな生殖器、かわいいと思う。ギャルなのに意外と清楚なのにやっぱりビッチ、みたいなわけわからん花で、好きになった。

トラブルなく行って帰ってくること、試験を最善のコンディションで受けさせること、指定されたお土産を全部買って帰ること、などミッションが多く気を張ったし、ひとの面倒を見ながらわずかな時間を効率的に使うため、ずっとせき立てられるような気分で過ごしたけれど、命の気配の強い魅力的な土地であることはわかった。

本当は、あたかもそこに住んでいるように錯覚するほどの長期滞在の旅しかしたくない。

旅をする時、行きたいお店とかスポットに目当てをつけて、ルートを組み、点と点を繋ぐようにしてそこを巡る、みたいな回りかたをするのが苦手。あちらこちら膨大な無駄を含みながら歩き回り、その中で差異を探し気付きを得て、土地への理解をゆっくり深めていくような旅がいちばん楽しい。

母の代わりに家族の面倒を見て、わかったのは母のケア能力の偉大さ。他人のことに注意を向けて気を払う、というのは独特の気疲れみたいなものを起こさせる。自分の行動に人の結果の責任がかかっている、という状態の重たさ。とはいえ弟も弟なりに、母親を相手にする時と比較すると、こちらに負担がかからないように気を配り、自分の問題を自分で抱える意識を持ってくれていたような気がする。

自分のための買い物として、町の美術館のミュージアムショップで『つながる沖縄近現代史』という本を買った。まだまだ半分も目を通していないけど、歴史本なのに「大文字の歴史」記述に終始せず、多様な視点を含んでいて、かなり面白い良い本。

 

○アルバイト中の日記

1.

労働のための身体の使い方に慣れてきて、もしくはそのための特殊な体力が育ってきて、労働後の疲労が軽減されてきた。調子がよければ、労働後爆速退勤し、買い物をして米を炊き、風呂入って洗濯してご飯作って食べ、2時間程度作業する、までできたりする。

とはいえ長時間連勤後などはめちゃくちゃ寝てしまうので、普通にムカつく。

 

2.

バイト先のいいところは、いつの時間帯も労働環境がやや薄暗いことかもしれない。

靴まで全部コスチュームに着替えて、スクリーンの並ぶあの通路を最初に歩く時、ビシッと気が引き締まるような心地になる。これが、危ない。

決してアルバイト先が居心地の良い場所にならないように、細心の注意を払っている。多少の交流は必要だけれど、あまり仲の良い友人なども作らなくて良いし、なんなら作るべきではない。

そちらの世界に意識が取り込まれることのないように、こんなことはやりたくない、すぐにでも辞めたいと思い続けられるように。

労働は目先にいくらでもやることがあり、それに手をつけることが金銭の授与によって正当化される、ことによる中毒性がある。この快楽的な側面に注意深くありたい。

キモチーーと思って働きながら、いつでも辞めたいと思い続ける。

 

3.

タイムカードを時刻ぴったりに押さなきゃいけないので「その時間帯出勤のみんなでタイムカードの前で00分を待ち構えるだけの時間」がある。あれは本当にむだ。

 

4.

人懐こい年下〜同年代の女の子、なれなれしいお姉さん、平等にきびしい中年女性、バイト先の人間関係で好きだなありがたいなと思うのはこの3タイプの人々。どれも性質ではなくコミュニケーションの型の問題。

直感的にこわいよ〜〜と思ってしまうタイプの女性たち、または女性のコミュニティが存在することも、久々に思い出している。男性のアルバイトは皆普通。私調べでは、映画館は声のでかい男の人があまり働いていてないので、接しやすい。(声のでかい女の人は、なぜかたくさん働いている)

 

5.

清掃や見回りのためスクリーンとスクリーンの間をたえず歩き回っていると、私のこの「移動」そのものに賃金の何割かが支払われているような気がしてくる。

 

6.

映画館とはみんな黙ってポップコーンをこぼして去っていく場所なのに、たまに「席にポップコーンこぼしちゃいました、ごめんなさい......」と客が誤りに来てくれる時がある。そういう客ほどほんのちょっぴりしかこぼしていないので、かわいい。「大丈夫です〜わざわざありがとうございます!」と返事をするときの私は1日の中でいちばん優しげな声を出している

 

7.

「いらっしゃいませ」や「ごゆっくりどうぞ」を発動すすると、小学生〜中学生ぐらいの子供がかなりの確率で「こんちはー」と返してくれる。まるで近所の人にするみたいに!

おそらく学校の過剰なあいさつ教育のおかげだろう。かわいい。癒し。ありがたい。

 

8.

映画館の社員が作品について「強い/弱い」と言うとき、それはもちろん作品の強度のことを言っているのではなく、興行収入、客の入りのことを言っている。それも、ベッドタウンのショッピングモール内劇場での、客の入りのこと。

好きな作り手の期待している映画や、作り込まれた高い強度の映画が「新作弱いです」と表現されているとき、いたたまれない気分になる。

 

9.

客入りが少なく、配置された人員も少ない日のバイトは楽しい。全部を自分でやることができるので、お仕事シミュレーションゲームにより近くなる。

忙しくない時ほど、隙間時間にタスクを捩じ込んで効率性の高い動きができるので、そういう回の方が気持ちがいい。繁忙期もおもしろいが、自分が手をつけたかったタスクを人にやられちゃったな〜という残念さがあったりする。やっぱりゲームだと思っているから。

 

10.

「バックヤードと客のいるエリアを行き来する時、劇場に向かって一礼する」という規則がある。大学生アルバイトほどこれをあまりしないが、社員や歴の長い仕事のできるアルバイトほどしっかり一礼するのを見る。美しいお辞儀、そこにある矜恃、それはそれとして立派だと思う。

接客は演技でありパフォーマンスである。

 

11.

鑑賞者の数が少ない時ほど、エンドロールを見ない客の割合が高いことに気がついた。

映画のエンドロールはたいていの人が最後までみているけれど、あれは物理的に外に出にくいとか、なんとなくみんな見ているからみたいな同調圧力とかで惰性で居ることにしているだけで、本当はみんなそんな見たくないのかもしれない。

私はエンドロールの選曲込みで作品だと思っているので、見る派。

 

12.

この私が、この私が労働中は、分刻みの上映スケジュールに合わせて一瞬の無駄もなく、せかせかと動き回っている。統制下に置かれている時の時間の使い方は、たしかに高い生産性を発揮する。

おそらく、選択肢が少ないことと、目先の時間が区切られていることがポイント。(それから当然、他者の視線)

労働場での時間への意識をそのまま引き延ばして、日常の生産性を高めることも不可能ではないのかもしれない。

とつい効率的に自分自身をコントロールする方法について考えてしまうが、これがどういうことかはわかっているので、従順に労働しているあいだは、規律化された身体。規律訓練。身体の規律化。などと心の中で呟きつづけてしまう。

 

13.

客に「ありがとうございました」と言っても、何がありがとうございましただ、私がこの映画をつくったわけでもないのに、と思ってしまうから、接客など向いていないのだろう。

 

14.

シフトが入っていた時間を間違え、1時間早く出勤してしまった。着替えまで準備をしっかり済ませてから気がついたので、更衣室の床で本を読んで過ごした。林芙美子の放浪記が沁みる。

日銭を稼ぐための労働の隙間にものを書く女の日記、のような形式だから、断片的に取り出して読んでも面白いし、労働のあいまに読むのにもってこい。放浪記の女は、たいていひどく疲れているか、お金に困っているか、絶望しているか、恋愛に溺れているか、そのどれかしかない。

いっそこういう女は私は好き、自分が男に心底甘く、生粋の異性愛女だと理解しているところが清々しい。こんなに男に精神的に依存できる女が、「男に食わしてもらうことは泥を噛んでいるよりも辛いことです」と労働に身を投じるところ、についてよく考える。経済的自立あって精神的依存が成り立つのだ。(し、労働をなんとか駆動させるためのギミックとして愛を置くこと、そういう快感の事例についても考える)

 

 

○心の体調記録

1.

まだパズルゲームを消せていないのは、パズルゲームでしか癒せない傷が自分の中にまだ残っているような気がしているから?

なんとか普通に生活を回しているけれど、どこか上の空で、この理由を不愉快な体験のせいとするか、暑さのせいとするか、漠然とした先行きへの不安のせいとするか、根本的な宿命のせいとするか。心の傷つきの種類を見極めようと目を凝らすが、どうにも捉えようのない形をしている。

外的なアクシデントが降りかかってくることによる痛み、というのはしかし、喪失による痛みよりはいくらかマシだと思う。

とにかく、痛みに溺れないこと。放置せずに適度に構い、適度に距離を置く。直視しつつも都合よく目を逸らす。

 

2.

素面でも酔っていても、あるいは昼でも夜でも、つねに嘘をついているという感覚、しかし片方だけでは完全ではないから嘘とはよべないだろう。

できるだけ、自分にとって本当のことだけ喋りたいと思っているが。

 

3.

小説を読んでいると、突然ぜんぶ読み飛ばしたくなるときがある。

文字がそう並べられているように、時間の方は決して順々に流れてはいかない。

 

4.

情報の取捨選択すらできない。自傷行為的に見たくないものを見てしまうことをやめる、目を閉じる。それから助けを求められるようになる。

胸の圧迫感。心はここにあるという感じ。

つらいところを耐え忍べば、やがて過ぎ去ると胃腸炎のときに知った。

それでも、それまでは、ただひたすら、時間が長い

すべて、長い長い目でみてやっていかないといけない、人生も生活も制作も決断も。

 

5.

たとえば『当事者は嘘をつく』で言われていた「トラウマからの回復の物語」、あれを必要とすること、同時にそれを否認すること。

物語に回収されることを拒む、それを恐れるベクトルとは。

Me tooは物語の共有であり、物語ることの契機であり、ただの告発行為以上の意味性を含む。

 

6.

自分の痛みを過大しないことに気をつけてきたけど、案外、過小評価している側面も多かったことに気づけた。

どうしてあんなに高校の頃まいにちつらかったのか、これ思春期や睡眠不足のせいだと思ってきたけど、間違いだったかもな

 

7.

かろうじて日銭を稼ぎながら、ぼうっと遠くをみているしかできなかった日もある。

労働ごときではなにも減らない、けれど心身を万全にしてからシュッキンしないと、攻撃を受けてしまう、それは避けたい。

「負けないように踏ん張る」というだけじゃなく、「絶対に負けないと決まっているので、多少下がる時があっても大丈夫」という方向で気持ちを休めることもある。

 

8.

色々なものが溜まって、手に負えず、ただ途方に暮れている。

なんか全然本も読めないし。ずっとつらいままでいるのも、それはそれでいいのかも?

一般的な大人のように、痛みを忘れるために目の前の仕事に没頭するとか、一生懸命に愛をするとか。

音楽が必要、痛みを洗い流すために。その蓄積が膨大なデータベースをはぐくむ。

立ち止まっているだけでもそれは進んでいること。

音楽や映画の軽さ、快楽的なところ、むかしは嫌いだったけど、愛せるようになってきている。たのしく明るく耐えぬく。

 

9.

取り返しがつかない、手遅れになった夢ばかり見る。

予定があるのに、約束の時間を3時間過ぎてもどうやっても家から出られない夢。試験のような何かものすごく重大な用事をすっぽかしていたことに翌日になって気が付く夢。目の前で赤ちゃんが死ぬのを見ていることしかできない夢。たくさんの人間を見殺しにして逃げる夢。人が船から身投げするところを偶然撮影してしまう夢。

思うに、悪夢は現実の精算行為である。

現実の私が傷を癒すことや問題を解決することを怠っている、そのツケを払わされている。

そういえば、人と眠っていて悪夢を見ることはあまりない。

 

10.

大丈夫大丈夫と無限に唱えて心を落ち着かせる。これは祖母から教わったおまじないでもあるのだが、その大丈夫ですら元は「一人前の男」の意味なんだよな〜

 

11.

中学生のときに通っていた塾で、天声人語を毎日うつすという学習方法があったけど、あれみたいなことをやりたい。毎日なにごとも、まずは書くことからしか始まらない。70回目の気づき。

お腹が全然空いていないのに、漠然とものを食べたいという欲求だけがある。いや、ものを食べたい気持ちと絶食したい気持ちがせめぎあっていて、どっちがどっちなのかわからない。

 

12.

自分のために、自分の体験についての物語を組み立てるという、その作業について。

ステレオタイプ的な被害者の語りに、自分の経験をぴったり沿わせ、そこに回収してすべてを語ることができたらいいが、実際はまったくそうではない、そこへの、とまどい。

悩みごと、困りごとを親しい相手ではない外の人に伝えようと思ったとき、「悩みごとを相談するための悩みごとの捉えかた、語りかた」のフォーマットを採用しなくては理解されない場合がある。自分を病者一般、被害者一般の方へ寄せて捉えるようになる。これは自分の捉え方ではなくなるような気がするし、多くのディテールを取りこぼすように思えるけれど、まあ言葉とは、人間の認識とは、もともとそういうものなのかもしれない。

 

であれば尚更。事実というものはなく、行為だけがある。

行為を重ねて、思考と解釈のための材料が溜まり、道も方向づけられる。

命を考える、考えながら命をすすむ、ための材料を行為によって集めている、かんじ。

快楽は行為に付随する、故に快楽は持続しない。だから行為は重ねる必要がある。

 

13.

不随意的にフラッシュバックしてしまうことと、自律的なつもりでそのことについて深く考え込んでしまうこと、はどう違うのか。

これについて考えるのは面白いかもしれない。

 

14.

マツウラマムコ「『二次被害』は終わらないーー『支援者』による被害者への暴力」で論じられているという「被害者」観、やはり可能性のひとつとして腑に落ちるところがあるから、書きつけておく。

 

「被害者」とは暴力をふるわれた経験のある者がこれ以上苦しむ者をつくらないために思考するときのポジショナリティである。アイデンティティであるサバイバーとは、サバイバーと語りサバイバーとのつながりの中で生きていくときに必要な「私」の自称である。ポジショナリティである「被害者」とは、被害者や無意識の加害者である「第三者」に向かって語るときの「私」の覚悟である。

 

 

 

 

藝祭へ行った。人熱、という印象。

展示の内容以上に、往来する人間たちが放つ情報量が圧倒的に多すぎる。

たいして何も見ていないし見たもののほとんどもすぐに忘れてしまったが、学部の同期たちの展示は、やっていることの意図や経緯がわかることもあって面白い。

私も人と、友人でもある人と(自分を曲げずに)作品をつくるやつ、やってみたいな〜できるようになりたいな。私も学生の頃にやれればよかったけど、学部の頃の未熟な自分には無理だったもの

 

・映画の中のフランス語がききたい。それも、モノローグだとなおよし。

 

・ここにきて、天気予報とか腕時計とかめちゃくちゃ便利じゃん!何これ!というのに気づき始めた。天気がわかったり時間が目に見えたりして、先の予測が立てやすくなるの、凄すぎ

 

・バービーやっと見れた。何よりもまず、画面を満たす美の種類が、女児向け玩具の世界観の「ハイパーフェミニンな」ものであったこと、その表象の力にダイレクトに圧倒された。

つねに多義性を含んでいること、ひとつのことを表現する時、つねに同時に反対側からの視点も意識していること、そういった思慮深さを持ちつつ総合的にハッピーで楽しいこと、技巧的だしめちゃくちゃ皮肉を言うわりには、単純で素朴である種感情的なメッセージの伝え方から逃げないこと、実際的であるというよりは観念的で神学的で普遍的な方向を指向していくこと、根底に子供時代への憧憬や母親と娘というテーマがあること。

思想も派閥も文脈も誰のどんな評価も関係なく、グレタ・ガーウィグの映画のこういうところが、私にとっては特別なものだ、というのをひとまず再認識した。

笑顔で「婦人科へ!」と向かうあのラスト、見た時期が違えば腑に落ちないものだったかもしれないが、実際に私は助けられた。直接的に役立つような種類のもの。イメージの心強さ。

 

・音楽がアレクサンドル・デスプラだったので、アステロイド・シティは映画よりずいぶん先にサントラを聴いていたんだけど、あまりにもミニマルな作りになっていて、音だけ聴いている時は正気!?!?と思っていた。いざ映像で見てみると、コンセプトも時間的な展開もすごく効果的に作用していて、やっぱりすごい〜〜〜となった。ネットで読んだコメントではこの2つの音符のことを「催眠術のような小さなモチーフ」と呼んでいた。

 

・「サレ妻」クラスタツイッターをたまにみる。そこに混ざっていることのあるフェミニズムは、自分の知っているそれと違った様相をしているような気がする。

愛と幸福の物語の中で、妻として場合によっては母として嫁として家族に尽くし、何の問題もなくやってきた。パートナーの不義理によって、その世界が壊され、「私はずっと、彼に従属させられてきた!」「あの時のあれは、モラハラだった!」という形で、怒りの矛先を求めるようにして、フェミニズムに“目覚める”。(woke、ある考え方に「目覚める」という問題大含みの言い回し、もちろん皮肉だよ)

明確な個人間の憎悪と怒りを基底に構築され、似た境遇の人の間で増幅されていくそれは、武器として振るえるだけの強さを持つ必要があり、攻撃的にならざるを得ない。ひとまず、そのことには留意していたい。

 

・そして世の中の妻が「夫の性処理」という言葉を自然なものとして使用することがあるのに喫驚した。

他人、同居人の射精の面倒を見るために自分の身体を使うという捉え方、考えたことがなかったが、自分を射精する側に置いても射精促す側に置いても、どう考えても嫌すぎる。

でもなにが嫌なのか。「夫の愚痴処理」とどう違うのか。身体の問題だからか。

「夫の性処理」の「性処理」は「性的欲求処理」のことではなく「射精処理」のことである。欲望にあるのは、充足という半終止を挟みながらの果てしない道程のみであり、行為としてぶつけたところで処理などできるものではない。

処理ならひとりでしろという話か?他者とするなら共通の娯楽とする努力をしろという話か?そうはいっても性を文化娯楽化する概念そのものが、おためごかしに過ぎないのか?罪悪感と余裕による産物?

 

・一般に、女にされる/女になれるという問題があるなあと思う。

不必要な時に勝手に女にされずに済み、ときどきは他者関係の中で女の部分を解放できる、そういう存在として恋愛相手を求めるってことがあるっぽい

 

・気分かえよと思って適当にリップ買ったら5年ぐらい探し続けた色引き当てた、うれしい!これだからやめられない

 

・ちがう言語でなんでも歌うたってみると、メロディの捉え方が全然ちがくなる。この魔法のような方法をつねに覚えておき、ことあるごとに取り組み、習熟させていきたい。

 

・1か月前とかに予約した病院に行くのとかって、極度に不安を感じる。

そんな約束は、本当は全部ないんじゃないか、私のことなど誰にも知られていなくて、いざ行ったら「はて?」という顔をされるのではないか、と思って怖い。

実際そうはならないのだから、時間という世界の規則は偉大だ、その通りに行動して、指定された時間に指定された場所に行って、それをみんなして世の中回っているの、冷静に考えてマジで凄すぎる

 

・「人様に迷惑をかけるな」と人が発言しているところを久々に目にした。この規範のことをずっと怖いと思っている。

すべての自由に対して「但し、人に迷惑をかけない限り」という注釈が付される、ことがつねに疑われないこと、が怖い。

「迷惑をかけてはいけない」が「迷惑をかけた奴が悪い」になるのが怖い。

「迷惑をかけない」とは要するに、ある人の行動が他者の障壁にならないこと、他者を阻害しないこと、だろうか。そして人「様」とはつまり、身内じゃなくてその外の人ってことなんだろう。

「迷惑をかけるな」という規範意識が自分の内にあることによって、「身内以外の人が、自分の行動の障壁となり、自分を阻害してきた場合に、つまり自分が思う通りに動けなかった場合」に、怒りを覚えるのではないか?と思うと、自分のことが怖い。何事も自分の思う通りには進むはずがなく、自分も他者に迷惑をかけることがあるから、と思って人の迷惑を許容し対処するほうが、遥かに気持ちが楽なように思える。

そういうことを考えていたばかりだったので、くらくらするほど強い香水の匂いをさせている隣の乗客を許した。

 

・病める日も健やかなる日も、曲を作らなければならない、それが仕事にするということだ

むしろ、その日の調子がどうとかを、仕事ぶりによって理解するようなのが正常だろうから、調子がいいからやるとかよくないからやらないとかではないのだ

 

・女性支援従事者と話すとき、その語りに男女の世界観が強すぎる場合、少し辟易してしまう。世の中が男/女すぎる。

フェミニズムの観点でものをいう時ほど、「男は」という主語を避けたくなる。「わたしたち」と「彼ら」あるいは「あいつら」の話にしてはいけない気がする。

私の置かれた状況、私だけの問題を「男たち」と「われわれ女」の闘争にしないでほしい。私のことを異性愛の女性と決めつけないでほしい。それでも彼女だから救える女たちというのが世の中にはたくさんいるのも事実だろう、だから私は冷や汗をかきながら黙る

 

・何もわからない時は、圧倒的な量で稼ぐのもあり。

 

・部屋の中に、時間を意識させる仕掛けを複数用意するとよい

米を炊くとか、洗濯機を回すとか、風呂を溜めるとかもそうだし、作業をしている間にポモドーロのアプリを起動しておくとか、2時間の映画を流しておくこととか、聴くためというよりかけておくための音楽とか。

これらはそれぞれの特質が違う、主に時間の長さ、単位によって。けれど、似たような効果のある仕掛けとして使える。まずは仕掛けを作動させてしまうのが速い。

 

・何も予定のない大きな時間のまとまりである「休日」を、作業日として有効に使う方が難しい。

一度も失敗せずに、腐らないようにダメにならないように、滞りなく時間を回す、回し続ける必要があるから。

 

・いつか人と暮らしたいと思う日もありそのことを思いながら今は、仕事で人生の基盤をつくり、労働でそれまでの日銭を稼ぎ、生活力を身につけよう、なんて気になってみたりする

 

・すべての釜戸に火を灯し続ける。大切なものをなにも諦めない。座右の銘のようなポジションに置くならこれかも、と最近毎日思う

 

 ・バイト先に、これが「お局」ってやつだな〜と感じる女性がいるが、この「お局」ってマジでミソジニー世界の語彙だと思うし、特定の誰かのことをこの私が「お局」と呼称するのは、できるだけやめていきたいと思う。

しかしこれ、「他人をデブと揶揄するのはルッキズムなので良くない」ほど単純に「他人をお局と呼ぶのはミソジニーなので良くない」とは言えないような気もしている。

今思いつく理由は大きく2つあって、ひとつは、むしろお局側が内面化したミソジニックな観点から立場の弱い部下女性などをいびっている場合に、お局が「お局」と呼ばれているようなふしがあるから。

もうひとつは、迷惑で憎い女上司のことを「お局」と呼んでみて、「そういう人物、いるいる」の領域にずらしてガス抜きすることで、現実社会の中でギリ共生ができている、という場合があるから。

特にこの後者のようなメカニズムは、軽視できない。どうしても一緒に暮らしていかなければならない家族が碌でもないモラハラクソジジイだった場合、彼のことを「クソジジイ」と表現しながらであれば、彼と暮らし続けることが可能だったりする、それを外から言葉だけとって「人をクソジジイと言ってはいけない」などと言っても、お門違いな正論だ。

 

・なんとなくSNSを開くみたいな時間をやめて、とにかくもっと大きな塊のかたちをした情報を流し込もうと試みている。食べるものが身体をつくるから。

 

・やらないよりはマシなものなんてない、無より価値のない有はないと信じて、ゴミカスみたいな曲を毎日つくることにしている

移動中に不自由な思いをしながらiPadでつくってみた曲とかにも意味はある

 

・あんまり疲れると突発的に慣れない行動をとったりしてみたくなるもので、労働帰りにブックオフでBL小説を買って帰っていた。あの手のジャンルについてまったく知識がなく吟味しようがないので、あらすじもろくに読まず、タイトルからしてテイストが離れているように思えるものを5冊えらんだ。

かなり面白いものもあれば、全然おもしろくないものもあった。読み手の欲望の形に沿わせた書き手の欲望を読む、という感覚。

現実を完全に保留にして停止させたまま柔らかな快楽をもたらしてくれる存在、まさにファンタジーとして、ボーイズラブが機能してくれた季節が、短いけれど確かに自分にもあったのだが、少なくとも今はそうではないらしい、それでも疲れを多少は癒してくれることがある。

 

SNSなどで政治的な?話をすることがあるが、これは以下の理由による。

一、それを秘めておこうとする、社会性の面から言わずにおこうとする機能の欠落により、そこの障壁がないから。

二、それを今自分が言ってみること、言うにあたって今一度深く調べたり考えてみたりすること、によって、自分の側に良い影響があるから。

三、私の言葉を受け止めてくれる層の友人や知り合いたちが、なんか言っとったな〜ぐらいに思っといてくれるだけでも、ちょっと違う場合がある気がするから。

 

・バイオリン弾きの恋人って、あの痣のところにキスする?私なら絶対にしてしまうだろうな

 

・過去の子供の頃の被害の証拠出すとか、普通に難しいてかほぼ無理だろ、簡単に「証拠もないのに」とか言わんでほしい。全てのいじめも家庭内暴力も性暴力も、証拠がなければ一生不完全にしか認められないのかそうですか、

DJ sodaのとき、あれほど真っ向から加害者を糾弾する人がたくさんいたのって、動画という決定的で客観的な証拠があったからなのだな、と少し嫌な考えが一瞬頭をよぎったが、あれほど明確な「証拠」とやらがあってもくだらない因縁をつけられて被害が矮小化されるのを見ていると、やるせない気持ちになる。

あるひとの被害について「証拠もないのに」と誰かが言うとき、その被害の告発を封殺したい気分からやっているのであれば全くの論外だけど、「私の時は証拠がないから泣き寝入りさせられたのに、こいつらは証拠がなくても信じてもらえるのはなぜ?」という怨嗟からやっているパターンもあり、こんな悲劇の連鎖、あまりにもしんどい。

 

・おばあさん集団客が男子大学生店員に「あらお兄さんの手、まっしろで綺麗!イケメンね!」などと口々に言い放つ、という普通にアウトなセクハラ迷惑客ムーブをかまし、周囲の店員もそれを苦笑いでやり過ごす、のを目の当たりにした。もう今どきああいうのをおじさんが若い女にやるのはダメってことに、世の中ではなっているはずなのに、男女逆だとああも公然と行われ、問題ともされないとは。

ああいう軽セクハラ発言って、メッセージの矢印が発言者から対象者に向かっているのではない、そこが害悪だと思う。おばあさんは集団客だったからああいう振る舞いをしたのであって、ひとりの時ならおそらく言わないはず。ただ「この店員さんイケメンね」と同性間の話題のダシにして盛り上がるために利用されている。一対一なら失礼かな?と思って言わないことが、人とつるんでいる時なら言えてしまう、その害悪な力学に男も女もないんだな。

 

・幼い頃を互いに知っている友人の恋愛話を肴にして飲む酒や、1本分けてもらって吸ってみる煙草がうまいと思う日もある。

 

・社会のためにフィクションを欲するのではない、だからすべてのフィクションに対して社会倫理的な正しさを求めようとは思わない

 

・バービーの、マテル社上層部が全員愚かな男たち、という皮肉の描写が、マジすぎてギャグにできない国に住んでいる。

誰かが「女性ならではの〜」と発言するたびに松田青子の『男性ならではの感性』という短編を思い出す。

上記のようなユーモア、きついな〜露骨だな〜具合が悪くなるな〜そんな表現せんでも〜と感じて笑えないことも多いが(どちらかというとやや苦手だし嫌いだな、とさえ思っていたのだが)、あれってやっぱり必要だったのかもしれねえ、と、現実が「そう」であるのを見て思ったりもする。

でも私は、たとえば男性の政治家が女性の政治家に対して「女性ならではのしなやかな共感性〜」などと口にしてしまう感覚や意識の粗末さについてよりも、現状女性政治家が「女性ならでは」の政策やイメージを自ら押し出して行かなければ「勝てない」のだろう、ということの方を、ずっと重く考えている。

 

・子どもの頃から、他者のこと好きになるとその人のよく使ってる持ち物の色とかも好きになってたことを思い出した。その人との関係が遠くなった今でも、その色のことは好きな自分のままで生きている。もう会うことのないたくさんの人々の横顔の蓄積で、自分ができている。

 

・大切に思う人たちと大切な関係を築いていく際のノイズになる恐れがあるからその関係や想いのありようや傾向について、分析したり表明したり、したくない

 

・夏がこんなに頭のおかしい季節になってしまう前に、夏フェスというものに行ってみたかったな、そう思っている人は私だけではないだろうな

 

・私が太陽としている人のライブに行った。

ホールツアーはあまりにも距離が近くて、光に眼を焼かれた。私はLiSAに何を見ていたのか、LiSAが私の何を作ったのか、捉えきれないそれが変容しつつあるような気がして、まだ何も分からない。あと1ヶ月、よく考える。

 

・人と関わることは、傷つくし傷つけるし暴力だし間違うし、正気になってそれに気がついてしまうともう一切やめてしまいたくもなるけれど、私はまだ、人と生きることを諦めていないし、やっていくしかない