情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0601

生活の帳尻を合わせる。

5月の後半〜6月にかけて会う予定だった人々が、就活、出願、通院などでことごとく延期になっている、わたしもがんばらなくちゃいけないな6月!

 

前のゼミでは、それなりに自分が音楽を論じることについて、こだわりや思うところがあったからこそ、イデオロギーと感情と歴史との板挟みになってうまく動けなくなってしまったように思う。今は逆に、工作やその延長線上の制作、技術ありきの作品制作、に関してまったく自分が専門外であるという意識があるから、基本的に観察者のポジションでいられるし、その上で自分がなんとか取り入る隙を見つけてやっていくこともできる。

人がやっていること、その思考法、アプローチの仕方、好ましいとされる作風、などに対して「変わっているな〜、こういう人たちもいるんだ」と毎度おもっている。それぐらいのほうが居心地がいい。

私は本来、自動車整備工場の娘だから、機械を相手にして毎日イレギュラーと戦いながら仕事をしている人が身近にいるわけで、工具や大きな機械を目にしたり触れたりする機会も多いわけで、やろうと思えばそういうことに手出しできる可能性もあったわけだけど、逆にそうはならなかった。むしろ父がなんでもできてしまうので、夏休みの工作などすら頼りきりで、自分の頭で考えてやる必要が一切なかった。工具は父のものであって、たとえ自分の近くにあっても自分が触らないと決まっているものだ、と思っていたからこそ、物心ついたときには「自分から遠いもの」とはっきり位置付けてしまっていた。

田舎の古い価値観の家だから、後継は可能性があるとしても弟のほうだと決まっていたし、だから私はいいとこに嫁に行けるようにとピアノを習わされたりして「いいお嬢さん」になるように守られ育てられていて、だから過保護に扱われて、工場をうろつけば汚いから行っちゃダメ、工具を触ろうもんなら危ないからダメ、と言われてきた。そういうふうに扱われることも嫌だったし、それだからそういう経験しかできなかったことも今となってはかなり嫌だが、しょうがない。結果的に「田舎の古い価値観の中にいる」ことしかできなかった。

 

Qoo10のメガ割がはじまった。コスメを買うのがすごく苦手。本とかだったらわりと惜しみなくバンバンお金を使えるのに、同じ額の服や靴やコスメはびくびくして買えない。こんな華美なもの、贅沢品、装飾品、非本質的でないもの、にお金を使ってしまってごめんなさい、という気持ちと、いや十分にお洒落は自己投資なのだ、むしろ研究対象として向き合うべきだ、そのための費用は必要経費のうちだし、そもそも私が女体を持ちながら社会から阻害されずに過ごすためには綺麗にならなくてはいけないのだから、金をいくらかけてもかけすぎないくらいなのだ、という強迫めいた焦燥と、その狭間で葛藤する。

 

6月はPride Monthだから、いつもよりレインボーについて考えている。

わたしはレインボーを掲げるパワーに満ちたキラキラの運動すべてに馴染めなくて、それはたぶん、なんとか偽りながらもどうにか社会と適合してゆけてしまうからで、それがゆえに愛も恋も性も何もかも秘密で個人的であればいいと思ってしまうからで。もちろん、運動として主張していく意味もそうやって「あること」にしていく意義も連帯を表現する姿勢としてのアイコンの役割も、よくわかる。だからこそ自分がそこにいられないという感覚。

ただ「フラッグを掲げる」の概念についてもLiSAが教えてくれたからわかるようになった。りとるでびるぱれーどのあたりで「好きを胸張って掲げる」の概念が提示されていて、そういうことを歌っていたし、その象徴としてやんちゃな柄のフラッグをLiSAも掲げていた。わたしはいつもいちばん好きなものを誰にも言わずに隠すしひとりきりのところで濃く濃く愛の湿度を高めようとしちゃうし、勇気がないし羞恥だけはめちゃくちゃあるからそういうやり方しかできなかったけど、あのときに初めて、掲げる行為、表明、連帯、の意味を知ったのだった?

 

わたしの母は、マネージャーとか秘書とか妻とかそういう類のサポートの役がうますぎるから、母に支えられる局面があるたびに、こういう存在の妻を欲する男性の気持ちがわかってしまう。わたしに絶対的に向いてない仕事。妻が欲しいとこぼしてしまう可能性があり得たなと思いながらなんとなく踏みとどまる。