情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

8月 メモがき

◯自転車の乗り方をおぼえた夜

でかい月が出ていた日、深夜に突然思い立って自転車に乗り始めたら止まれなくなり、2時間漕ぎ続けて日本橋まで来ていた。進むというより、止まったまま流れる、呼吸を繰り返しながら滑るような乗り物。

これまで自転車を敬遠していた理由は、たった15分乗っただけで全身くたくたになること、歩道と車道のどっちを走ったらいいんだかよくわからないこと、歩行者が多い街中で自転車に乗るのが怖いこと、信号でしょっちゅう止められるのがうざすぎること、でかい道路での右折の仕方などがよくわからないこと、ナビ見れないのが不便なこと、駐輪場探しが面倒くさいこと、あたりにあったわけだが、自転車のタイヤに空気さえ入ればさほど身体は疲れなかったし、免許をとったおかげで道の通り方に関する迷いがかなり軽減されたし、出発前にマップを確認して道の下調べをする技術も習得した、今では、自転車の外出はまったく苦ではない。あとはただ経験と知が溜まって行くだけ!

散歩は考え事が捗るが、自転車はそうではない、どちらかというと現実逃避に近い、思考を押し流す種類の乗り物だと思う。速すぎるせいだろう。

基本的に常に知らない人間に殺されるかもしれないと思って出歩いているので、意味不明な場所に路駐しているすべての車を敵だと思い、止まったら死ぬと思ってとにかく漕ぎ続けた。人が住まない街は夜ごとに冷凍されたようになる。白く光る四角いコンビニだけがやわらかくて、路上で酸っぱいゼリーを食べた。足立区、葛飾区、台東区千代田区中央区墨田区、とぐるぐる30kmちょい徘徊したことになるが、とうとう夜というものの恐ろしさに負け、あるいはこれ以上走り続けても意味がないと判断し、スーパー銭湯で朝を待つことにした。

外に寝湯というのがあって、体をお湯に浸しながら空が黒から青に和らいでいくのをずっと見ていた。2時間スマホを見ているくらいなら、2時間ただ空の色の変化をみつめているほうがマシというもの。やりつづけてさえいれば、なにも得ないということはない。なにごとも、少しずつ、わかってくる。

 

進むべき道について、行き詰まりを感じているから夜中に自転車なんか乗りだしたわけだけど、ひとつひらめきを持って帰ることができた。

やりたいこととできそうなこと、を見極めるべき。そのバランスをとりつつ、作ったり決断したりする。やれそうなことだけやっていても進展はないし面白くない、一方で、ゼロからやりたいことのビジョンだけ突き進めても、ピースが全然揃っていなくて手詰まりになる。だから、この均衡を揺れ動きながらやっていくことが肝。

自分はいつも素直に得意を伸ばすに注力することができず、わざと不向きなことに手をつけようとする向きがあるっぽい、それは変えられない、のであれば、不向きなものの攻略のために得意や特質を活用する、という方向で戦略を立てていきたい。

 

人生のサブクエばかり進めてきてしまったような気がする。そろそろサブクエじゃなくてメインストーリーの方をね。

でもまあ、濃密なサブクエにこそRPGの真価は宿るって誰かが言ってた。新しい概念を開発すること、新しい能力を解放すること、レベル上げに出かけること、装備を揃えること、やることがいっぱいある。

 

 

◯今度こそ生活をコントロールしたい

新しく生活のルールを定めた。しないこととすることを決め、その遂行のための監督役をアプリに任せる。

「しないこと」を守るためには、禁煙アプリもしくは禁欲(世間で「オナ禁」とか呼ばれているあれ)アプリを使う。大した抑止力にはならないと思うだろうが、ないよりはマシというもの。

「すること」の遂行にはDot Habitというアプリが圧倒的に気に入りました。毎日の習慣にしたいタスクを複数設定でき、その実行の有無をカレンダーに色を塗るみたいに視覚化してくれる。

今のところ

・毎日1分のデモを作る

・5時間仕事をする

・1食ごはんを作る

・起床後1時間以内に身支度をおわらせる

・帰宅後即or22時以前に風呂に入る

・寝る前に翌日の服を準備する

などのミッションを自分に課しているが、このアプリ上のシンプルなメモに従って1日の計画を組み立てるだけで、わりと1日が充実する。

「ガチガチにスケジュールを組むことによって不自由な気分になると思うでしょう、違うんだよ、逆に迷う可能性を排除できるので、心理的にも自由になれるんだよ」というのはライフハックの文脈で死ぬほど聞いたことがある意見だけど、これが本当に真実だというのが体感としてやっとわかってきたかもしれない?

 

 

◯バイトがはじまった

1.

本業では稼ぎが足りないので、しばらく最寄りのシネコンでバイトをし、日銭を稼ぐことになった。

初日の研修はZOOMと対面合わせて6時間半もあり、社の理念などを復誦させられたり、「炎のスマイルトレーニング」などといって独特の笑い方を練習させられたりなどした。

自己紹介で名乗りとともに好きな映画をひとつ挙げるというイベントがあったので、やはり映画好きがバイトに応募してくると想定しているのかな?と思ったが、全員が流行りまくったアニメ映画もしくはシリーズ映画のタイトルを挙げていたので、金曜ロードショーのラインナップを見ているかのようで少し拍子抜けした。「敢えて」みたいな顔すらせずに凡庸なタイトルをここで挙げることに、誰も何の躊躇いもない!

当然、このように考える私の方が悪い。「好きな映画」を聞かれることが、価値観や感性のジャッジメントとなるようなコミュニケーション・コミュニティなど不健全に決まっている。

ともかく100人ぐらいスタッフのいる巨大バイト先に入社してしまったようだが、そんなでかい組織でやっていけるのか?

 

2.

研修期間を終えた。「部品」になるための訓練。

まだ立ち労働に慣れていないので、脚が痛い!労働を終えるたび、一瞬でも長く椅子に座っていたい、という気分になる。休憩ありの6時間労働よりは休憩なしの5時間労働の方がつらい。脚の疲労を回復させられないため。

勤務開始から勤務終了まで片時も離さずに無線を耳に突っ込んでいて、かなりの頻度で情報が強制的に流し込まれる。この感覚も独特だと思う。劇場という全体が滞りなく動くための部品として自分の労働行為がつねにあると認識させられる。

ただ疲れているのは脚ばかりなので、帰宅してから座り作業をすることは十分可能。もう少し体が慣れてくれば、立ちの家事とかもできると思う。

早く仕事を覚え、とりあえず「知らないパターン」が滅多に発生しない状況になりたい。「自分はいつでも自分をやめて、部品に戻れるのだ」と思えるようになったとき、心理的な作用が現れるか?

 

3.

周囲は圧倒的に大学生アルバイトが多いので、私も当然大学生だとみなされてしまう。「何年生?」とニコニコ善意のタメ口で話しかけてくれる大学生どもに「大学を卒業したところで......」と先輩であることを告げ、謝られる展開が毎日発生するので、そのやりとりにも飽きてきた。

年齢の次には「なんの業務が好きですか?」と聞かれることが多くて、これはマジで変な質問だなと思う。普通は、アルバイトにおいてなんの業務が好きもクソもないだろ。

 

4.

そうは言ったものの、実際「好きな業務」というのはある。今のところ、スクリーン巡回の業務が気に入っている。上映中の色々な映画を断片的に覗き見できるのが面白い。立て続けに違う映画の音を聞くというのは、あまり無い体験。

同じアニメ映画でも、マイエレメントではトーマス・ニューマンのうるおいに満ちた音(ニューマンは実写映画の音楽の方が好みだけど、今作やファインディングニモのテイストも明るい透明感があっていいよね)、マリオではブライアン・タイラー特有のバリバリした豪快で大胆な音、君たちはどう生きるかでは久石譲の湿度が高く室内空間っぽい音、のように、それぞれの持つ音色の違いに露骨に気がつく。

ていうか改めて思うのだが、久石譲オーケストレーションって変だよね、変っていうか特徴的、レイヤーじゃなくて音混ぜの発想が核にあるというか?

 

5.

ほとんど手羽先だからという理由で「バ先」という言葉を使わないことにしている。

 

6.

シネコンで毎日毎日、インターバル10分とか15分で映画がぶん回されているのを目の当たりにすると、なんだか安心する。

時間をかけて作られたものは、それぐらい時間をかけて提供されるべきだと思うから。

たとえ客が3人程度しかない回があるとしても、その3人のためになんの惜しげもなく映画は上映される。

作品の方はシネマの中で回転し続けていて、鑑賞者の側は、自分の生活の中で最高に都合のいい時間を選び、ただシネマに来ればよいだけ。何度でも何度でもしつこく上映できること、作品が鑑賞されるチャンスが多いこと、それによって鑑賞のハードルがとても低くなること、複製のよさだと思う。

 

7.

行きがけの道で休憩時間に食べるためのパンやおにぎりを買っていく。すると、その値段をなぜか退勤時まで覚えていて、帰路で1の位までぴったり家計簿に入力できる。これは、労働にさほど知能が使われていないことの証左だと思う。

 

8.

脚の筋肉が育ち、階段で息切れしなくなった。脚を使って生きているな〜という感覚が毎日あり、健全ですらある。心なしか寝起きもよくなった。

「まだ若くて身体を動かす資質がとてもあるのにそれをしないせいで、頭ばかり使ってエネルギーが空回りし、心を病みがちなのでは?」とここ数年思い続けてきたので、動き回る労働は有効かもしれない。

 

9.

上映中、定期的に客の鑑賞態度を監視するという業務がある。迎えた時はどんなにうるさい客も横柄な客も、上映が始まれば大抵はみんな黙っておとなしくなる。

映画を見ている人間はかわいい。眠っている人間に似ている。ひとりひとりが社会や関係から切り離され、個として世界に没入している。

「鑑賞中のお客様を監視する」という業務は、スクリーンにまなざしを注ぐ者の無防備なすがたを窃視するということでもあり、正当性をもって行使できる暴力である。

この罪悪感から、どんなにへりくだって接しても、権力を握っているのはこちらなのだ、という意識がある。

 

10.

なにせスタッフが多いので、休憩中に軽く世間話をしても、次に会う時までに誰となんの話をしたんだか明確に覚えていられない。

顔見知りではあるが、まだ誰の知り合いですらない。この状況に特有の心地よさはある。メンバーでなく、観察者でいられるから?

 

11.

自分が見たいと思う映画と客がたくさん入る映画に齟齬がありすぎる。自分がこれまで興味がなかった、また周囲の人もさして話題にしなかったタイプの映画、ほど客がたくさん入っている。

特に、どのシーンを覗いても結構ノリがきついというか古いというかサムいような気がする邦コメディ映画とかが、あんなに人気でたくさん人々に見られていることとか、本当に知らなかった。

 

◯胃腸炎になる

突然に謎の高熱、胃痛、下痢などの症状に襲われ、まる1週間ほど失ってしまった。

先月もコロナで倒れて、今月も胃腸炎で倒れて、というのは私にとってかなりイレギュラーな事態で、少しへこんでいる。今まで風邪や怪我などあまりせずに生きてきたので、病の経験に乏しく、それはつまり参照できるサンプルがないということで、「どう対処していいかまったくわからない」だらけで弱った。そういう時期なのかもしれない、本当に忙しくなる前の、心身のトレーニング。

胃腸のかぜは、幼稚園生の頃にノロウイルスに罹ったのが最後だと記憶している。あの嘔吐の記憶は、たいして物心がついていない幼き私に「ノロウイルスは身近にある感染症の中で一番つらい病気」という認識を長きにわたって植え付けた。そしてやはり今度も、食中毒なり胃腸炎なり(今回の症状はおそらく細菌性の胃腸炎だと思われる)、胃腸がやられるのは身近な脅威の中で最もつらい、ヤバい、洒落にならないという認識が新たになった。今まで体験した体調不良の中でいちばんつらい!!!と何度もおおあばれした。

何がヤバいって、まず熱が凄まじい。基本的に39℃を下回ることがない。「あ、ちょっと今らくになってきたかもしれない」と思って熱を測ると、40℃から39.5℃に下がってただけ、ということがよくある。起きていると腹の違和感でつらいので、私はこの高熱によって朦朧とする感覚を利用し、よく眠って過ごした。

それから腹痛。段階に応じたありとあらゆるバリエーションの腹痛。毎日絶妙に違ったタイプの腹痛に悩まされるので、飽きることがない。胃がどくどく脈打つような腹痛・胃をグッと手掴みされているような持続的な腹痛・排便がうまくいかない時の冷や汗が出るような痛みを増幅させてバカでかくしたみたいな腹痛・突然下痢のカウントダウンがスタートするような時限爆弾式の腹痛、など、こんなにありとあらゆる腹痛の種類があるんだなと感心するほどの手数で日々私を楽しませてくれた。

 

痛みに直面した時に人はどうするか?対処とか工夫とかの領域と、ひたすら精神力で我慢する忍耐の領域がある。あの、身体の中で何が起こっているのか見えない、詳細にわからない、けれども痛みのニュアンスとしては詳細にわかるという状態。強い知覚が絶えず引き起こされているのに、なぜそうなっているのか、因果がわからない理不尽さ。自分の身体とのコミュニケーション不能さ、断絶の感覚。

 

痛みも刺激である以上、その差異を比較する、知覚の中に潜り込んでいく、鑑賞的な向き合い方が可能ではある。そういう分野があってもよいと思う。

痛みを表現する語彙が気になる。痛覚を高い精度で捉え、それを他者に共有する、ということは医療の場ですらそれほど重視されていないような気がする。ズキズキとかビリビリとかじんじんとかの痛みを表現できるオノマトペは確かにすごいけど、それしかないのか?病院で聞かれることがある「1~10で表すなら今の痛みはいくつか?」という質問も、定量的なようでいてこれほどあやふやな表現もない。痛みの要素を分解すると、位置、強さ、範囲、持続性、時間変化などになる?

 

暇なので胃腸炎についてネットで検索しまくるのだが、症状についても原因についても対処法についても、驚くほど貧しい情報しか得られなかった。知が共有されていない!!安静にしていればやり過ごせる種類の体調不良であるせいで、誰も胃腸炎についてそれほど深く知る必要がないのかもしれない。

細菌性の胃腸炎だったので、病院に行って抗生剤を飲むと症状が好転した。

高熱かつ腹痛状態での病院の待ち時間は非常につらく、パズルゲームで気を紛らわせる以外にできることが何もなかった。ライフが枯渇するので4つぐらいのパズルゲームを回していたが、ああいうのはどれも極端な運依存ゲーであることがわかる。プレイの腕前とか技術とか判断なんてものはほとんどなくて、重要なのは盤面の配置のみ。私は、その時が来るのを待ち続ける。配置が整うのを待ちながら、痛みがおさまるのを待っている。

 

病み上がりっていうのは最高で、何しても感動できる。

普通の固形の便が出ること、ごつい食べ物たべて自分の胃腸に負担をかけられること、鍵盤の上で自由になれること、自分の脚を信頼できること!

 

 

 

・やっぱり、手帳に好きな格言とか書き付けちゃったりして、それを読み返しちゃったりするほうの人でいたい(その手の主人公が好きなのだ)

 

ポケモンスリープをやっているが、つかまえたポケモンに1日1個名前をつけるの楽しすぎる!これまでポケモンに名前付けない派だったけど、名前を熟考することでプレイ止まるのが嫌なだけだったのか

 

・イケオジと同じくらいイケオバがみんなに好かれてほしい。私は知的で仕事できてちょっと気難しい独身中年女性をとりわけ、とてもセクシーに思う

 

ふたなり童顔ギャルになりて〜というのに気がついた。もしも好きにアバターを纏えるなら、そう作るっていう話。もうそういうのどうでもいいなと思ってるので深追いするつもりはないが

 

・人間は生活の中にドラマ、物語を必要とする。それを生むために人はすべての行動を起こす。仕事をするとか会話をするとか。物語が不足している時に、大抵心が死ぬ。本や映画など被造物である物語に物語欲求の解消を外注するという手もあるが、私がおすすめするのは「料理をする」という方法である。

 

・人間ってけっこう、顔の良い人間の言動にいちいち意味を見出して神格化しようとしがちだよね〜とよく思う。良いことでも悪いことでも。要するに磁場が強いっていうか?

 

・ここ数年、いわゆる「セクマイ」系ツイッターアカウントをゆるく観察している。

「クワロマンティック宣言」以降、クワロマンティックかも、と自認するクィアの人がすごく増えたような気がする。「恋せぬふたり」のドラマをみて、自分がアロマンティック・アセクシャルだと考えるようになった人、もかなりいる。言葉がセクシュアリティに形を与えるのだ。

 

自分の古い日記を読んでいたら「恋愛感情はたしかに存在しているが、恋愛関係というものの存在については懐疑的だ」と書かれていて、ずいぶん前から答えが出ていたんだなと感心した。愛の中で特に恋愛とされているものって、他人を使って1人でするもののように思えてならず、だから「関係」としては存在しえず、「恋人」という「恋愛用の人間関係」を設けることは不健全なように思っていた。

性行為をすることと、恋愛関係=交際関係にあることと、恋愛をすること、これらはすべて別々のことだし、実際これまで別々にこれが起こってきてしまった。そのせいで長いこと混乱の中にあったし、今も自分のセクシュアリティに適切な名前を与えてあげられずにいる。

 

ツイッターで、他人の家にいるとき使用済み生理用品をどうするかって話を見かけた。

他人の家に自分の体液を捨てたくない人がいるのはわかるが、サニタリーボックスを設置しておきながら、生理用品を捨てられたくないと考えている人も一定数いることが衝撃。「家主が来客用サニタリーボックスの中の使用済みナプキンに気づくのが遅れ、大変なことになった」みたいな出来事について、捨てた人のせいみたいに言っている人がいてびっくりしたんだけど、それは100施設管理者の落ち度じゃないのか

私は自分の家に滞在している人が使用済み生理用品を鞄にしまっていると思うとかえって居心地悪く心苦しいので普通に捨ててほしいなー

 

・本になってない知がいっぱいある、それを集めて自分のための本みたいにしていく

 

・「あなたがいると私は強くなれる」という理想の関係性について。「あなたといると」や「あなたがいれば」ではなく?

 

・『若おかみは小学生』の番外編で、おっこちゃんが性転換して女の子を好きになる話があって、なんかめっちゃ好きだったのを思い出した。

(男の子の体になったことで)初めて女の子に恋愛感情を抱いてびっくり、みたいな描写として、「お腹の底から何かがわくわくっと何かが湧き上がってくるような感じ」で「かわいいじゃん……」って思うシーンがあって、(これ全部記憶だよりだから完全に捏造かもしれないのだが)その能動型の性欲みたいなものが書かれているのが新鮮だったんだと思う。

 

・サマンサとプリキュアのコラボ商品を見ながら、プリキュアになりたかったからといって、いや今だってプリキュアになりたいからといって、こういうバッグを持つような女にはならなかったな〜と思う夜。

 

・他者に感応してパーソナリティが形作られる、のは不誠実で卑怯なことか。

自分の中に何重にも言い訳を立てているような居心地の悪さと、他者に言葉が通じないことに対する根源的な絶望感と諦念は繋がっているように思う。

 


正しさを振るうこと。

他者はいつでも誰も間違っていないという世界の中では、剛き理論はただやりすごすべきもののようにしか思えず。でもそうではない、剛は剛の武器を以て打ち立つ、迎え打つ、ことができる、そういう性質のものらしい。

 

いつでも自己を作りかえることができるし、そのことに喜びがある

 

これまでずっと、他人に舐めさせるための技術を必死こいて身につけてきたようなところがあって、それが最近「私のことを舐めるな」にシフトしている。この転換地点にある段差を、乗り越えてゆくための苦しみ。

いつでも反対の方向にむかっていくというのは絶望的な体験で、目眩がするほど。

しかしこの落差がなくては、生きている甲斐も何もない。

 

大人になってからの方が病気や怪我はつらい、体が大きくて重いから

でも、戦う方法を知っているし、打ち勝つための武器がある

これは体調を崩した時に思ったことだけど、魂の問題においても同じことだ

 

お守りのような言葉を握り締めて生きていたくて散々探し回っていた時期もあったけど、そんなものはどこにもないとわかって、やめてしまった。だからお守りのようなものを大切に持っていられる誰かを見ていると、羨ましくなる。

まあ私が、お守りによって生きていけるタイプではないんだね、きっと

 

・金にするためでない、ただ固有の時間についてのアイディアとしての音楽をつくりたいなと思う。

 

・素材を選び、それにこだわること、ができていない作曲は落書きでしかないな、ちゃんと選んだ自覚を持っているかどうか。

 

・にわかに話題になった男子中学生のグループYouTuber?を見ていたら、少年っていうか男児の輝きが、大人になって男性になり、失われてしまうことに対する勝手な悲しみで泣けてきた。

これは本当によくない感情で、性欲望的ではないが紛れなく性的な性質のもの。

私は女が好きだけど、少女よりも少年が好きだし少年で居たいのだ、すべてそれも勝手な気色の悪い願望、おじさんたちが少女の入れ物に夢を詰めているのと同じことをしている。

 

・『アナザーラウンド』というデンマーク映画をみた。要約するとおじさんたちが仕事中にこっそり飲酒してはしゃぐ映画。秘密のいたずらを共謀してニヤニヤし、酔っ払って子供みたいに転げ回るおじさんたち、を見ていると少し楽しい。

最新のインディジョーンズで見て以来マッツ・ミケルセンの色気が忘れられず、完全に彼目当てで見たのだが、ラストのダンスシーンがよすぎて、よすぎて、何度か見ている。

 

・性的アピールという技術があるのと同じように、非性的(存在であることの)アピールというのもまた存在する。女性たちがこれを使って世の中を渡り歩いていることはよく知っているはずなのに、すっかり忘れていた。

社会の中にいて、性的アピールをしなければ非性的に扱ってもらえるかといえば、そうとは限らず(これは本当におかしく残念で悲惨なことだと思う)、何もしなくても性的にまなざされる可能性があるならば、積極的に非性的アピールをやっていくしかない。

こうした同性の自衛のための非性的アピールを見かけると、性的アピールを見る以上にずっと痛ましい気持ちにもなるが、それをしないとひとりひとり、自分が損をする。でもその損をするということこそが、悲しい。

 

私は、何によって汚れることもない

この身に何の侵入があろうが、私の肉体も魂も美しいまま、と、固く信じている

ただ、私を汚せたと思い込んでいる誰かが世の中に存在するとしたら、そいつを(そのような言説を)抹消する必要があるかもしれない、ということを時々考える。すぐに殴り返せなくても、遅効性の毒で緩やかに復讐できる。

個人のレベルで敵に打ち勝ち、さらには世界を書き換えるために、つまり誰かが負かされることのないように、対抗、転覆のための理論を学び、打ち立て、話すこと。

そしてどんな時も、勝つことに拘泥するあまり真実を見失わないよう、注意ぶかくあること。


人間の知識と知性に惹かれるけれど、重要なのは知識や知性そのものではなくて、知性の使い方に宿る知性、もしかしてそれを誠実さと呼んだりする?

 

私を手懐けられると思うような迂闊な人間に懐くことなどないのにな~と思うし、そのたぐいの愚かさ全般を愛せないところに、私のセクシュアリティの鍵がいっこある

 

 

・同時にたくさんのテーマが進行していく。

苦境でも、すべて自分がそれに耐えられると見越して自分で選んだ結果なので、普通に耐える。

自分を信じた自分のことを信じるという永久機関みたいな方法。

 

・絵を描かないのに、夢の中でたまに画材屋に行く