情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0521

月曜1限なんかより、金曜1限の方がずっとずっと起きるのつらい。毎日朝から晩まで労働しているわけでもないのに、週の終わりに向かって疲労が蓄積していく感覚がある。今日だって一瞬起きたのに、それが授業の40分も前だったからまたすぐ寝てしまった。ふつうに授業出られなかったのがショックだった。

 

今日はずっと外に出なかった。たくさん眠った。寝ていないときもたいしたことはしなかった。ここまで何もしなかったのは新居に来てからは初めてだけど、こういう日はこれまでに何度も過ごしてきたし、こういう日が定期的にないと潰れてしまう、というか、こういう日を定期的にとっているからこそ、潰れずにいられているのだと思うから、よし、とする。それに、これまでの「こういう日」に比べればまだ少し、ベッドの中でアイフォンでネットサーフィンする際に授業動画をバックグラウンド再生したり、みたいな、ほんの少しの努力をしたから、マシ、と思いたい。

 

そういえば、最近LiSAが朝のニュース番組に出た時に、「休日はひたすら寝溜めしています、23時間寝ることもある」と話していて、それはLiSAもLiSAのファンも一様に「ウケる話」として消化していたけれど、普通にファンとしては過労が心配だし、体調を気遣うべきだし、でもその反面、私にとっては同時に何より「安心」が湧き上がったのも事実だった。LiSAですら、LiSAだからこそ、1日中眠って、何ら生産性のない休日を過ごすことがあるのだということがはっきりわかり、そっかそうだよね、それでいいんだよね、みたいなふうに安心する。寝溜めする人は大抵、昔から寝溜めする習慣というか選択肢がある側の人、みたいなふうになっていることが多いから、きっとここ最近が忙し過ぎて始まった習慣ではないのだろうな、という想像もできる。高校生の自分の日記にも「LiSAはこんなふうに自堕落に終えてしまう1日を過ごすことはないの?」みたく書いてあったことをはっきり覚えているくらいだから、とにかくこの問題についてはわたしの大きな関心ごとだった。

 

洗濯をしたら、白か紫の服ばかり今週は着ていたことに気付かされた。焼きそばを作った。最近は毎日、1日の中で一食は必ず自分の手でなにかして食べるようにしている。

 

今日は「あのこは貴族」の山内マリコさんの原作を読み終えた。映画のシーンがひとつずつ蘇ってきながら、どの描写が原作にないのか、原作と食い違っているのか、をたしかめることで、映画化の際にどういう作為が働きどういう脚色がなされたのか、明らかになる、こんなに面白いことってない。ところどころのちょっとした描写に「あるある」が組み込まれているのは、おそらく山内さんの文体。そして、映画よりもえげつなさがぼかされていない、しかしそれでいて、「女たちが分断されないように」の主張と祈りはより強くはっきりした形で表されているように感じた。ただ、その中で「女友達と旅行に行った」という本筋にはなんの関係もない些末なエピソードが出てきて、そこで言われている「女友達」に込められたニュアンスが、私の抱いているそれとは全く違うことに気がついて、そうか!!!!!と、眼から鱗の落ちる思いだった。その「女友達」は一回きりしか出てこないし、それが誰でいつの知り合いでどんなであるのか、に関しては全く語られていない。ただ「彼氏(パートナー候補)」ではない存在として、しかし「一人旅」のような拘りを感じさせないものとして、読ませるために設定されている、という印象を受けた。その「女友達」の前では、のびのびと振る舞い、気兼ねなくふるまい、心の底からリラックスできるようだった。そのこと!自分も異性愛者で相手も確実に異性愛者である、という前提のもとに暮らしていて、それが普通だと思っている、そういう状況下での「女友達」はこんなにも、安穏としていてかつ娯楽的な色を帯びるものなのか、という驚きと気づきを得た。わたしにとって「女友達」ってもっと心が弾むものだ。

 

日が暮れてきて、アマゾンから届いた荷物と実家から届いたレターパックを回収するために初めて外に出たら、その帰りしなに近所の建物から火災報知器が鳴り出した。「ないこと」と「ないこと」が重なってすこしびっくりした。30分も止まなかった。両隣の部屋にもおそらく人が住んでいて、その人たちも「どうしたんだろう」という感じで窓をあけたりなにか動いている気配を感じた。ここで初めてわたしは隣人の生活の気配、同じ建物に住んでいる他人への一体感のようなもの、を感じた。その他人は顔なき存在で、前のアパートのように特定の「あいつ」と思い思われている状態とは違った感覚。

 

 

ここ数日あまり見ないようにしていたTwitterをどうしても、今日みたいなずっと家にいる日は見てしまうわけで、ずいぶん嫌なニュースが目に入って、気が滅入った。わたしは少なくとも根っからの異性愛者ではないだろうし、他所のイエに嫁いで子供産んで旦那の金と地位のもとで生活する、みたいなこと全然できないししたくないし考えたこともない、という自分についての認識はここのところはっきりしてきた、けれど、政治家の人たちの言う「LGBT」みたいなその言葉にぜんぜん当てはまるような気はしなくて、私だけでなくまわりのそういう人たちのことも含めて、誰のなにのことがそう呼称され言及されているのか、よくわからないし、まったく非現実的な感覚をおぼえる。もともとどんな観点にしろソーシャルの「みんな」の側に自分がいる、と思ったことは、いままでのどのコミュニティでもほとんどなかったから、当然国もそうだし、そんなもんだろう、と思ってきたし、そういう意味での衝撃は全然なかったけれど、諦めることに慣れてしまったから、歯向かう元気すら今日みたいな日にはなくて、ただ隠居したい、社会と隔絶したい、人の集団のあるところにいたくない、少数の好きな人たち個人個人とだけ関わりをもちたい、そうしてなんとしても言いなりにだけはならずに死にたい、と考えてしまったりもする。

 

LiSAの初期のMVのブルーレイを最近買ったので、それを見ていた。ほんとうは授業動画を見るべきだけど、そうしてしまった。それで気づいたことには、LiSAがきている服、わたしの好きだった系統の女児服にすごく似ている、ということ。私は母や祖母の趣味で、お嬢さんという感じを演出されがちだったし、襟付きの清楚なワンピースなどを着せられがちで、実際そういうののほうがよく似合っていたけれど、ほんとうは、カラフルでふわふわキラキラな、自分に似合わない感じのするポップで装飾過多でごちゃごちゃしたものがすごく好きだった。初期LiSAの服装はまさにそれだった。まだわたしの中に女児が生きている。

LiSAが「L.MiraのMVを撮るにあたって、ストリップを見てエロい表現を研究した」とラジオで喋ってた、という2014年ぐらいの情報を見つけて、それをふまえて例のMVを見てみると、たしかにストリップ的な所作、表現が見られたので、LiSA本当に信用できる、と思ったし、反対に、私がストリップに惹かれるのも必然だったのだ、という方面の納得もした。LiSAのライブでのステージパフォーマンスは、アンチにもファンにも「まるでストリップだ」と言われているのを何回か目にしてきたけれど、事実そうかもしれない、他の歌手?やアイドルはああいう表現しない、いや冷静に考えたら、するわけないのかも。ただ、わたしはそういうものだと思ったし、それがLiSAの曲とパフォーマンスを表現するのにひとつ相応しいやり方だとも思っていたし、自然に受け入れ、それのことを指して、最高だと熱狂してもいた。「まるでストリップみたいだ」は否定の意味合いで言っているのだろうが、すごい褒め言葉だと思う。身体を堂々と晒し、魅惑し、美しく魅せる、それも婉曲的な表現でなく、わりと露骨に。性的メッセージを隠して忍ばせるのでなく、逆手にとって大っぴらにする姿勢。そういうパフォーマンス、スタンス自体がわたしの心の中に輝かしいビジョンとしてうつったということは、自分でもかなり納得のいくことだった。