情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0416

アラーム通りに1限の時間に起きたものの、ベッドから起き上がる気力はなく、手の届く距離にあったiPhoneでクラスルームに入った。ぬくぬくの布団の中で瞼が落ちるのと戦いつつ、ときどき気を失ったりして夢と現実を行ったり来たりしながら授業を受けた。スクショをするたび少しだけ安心の感情になる。

その後は予定がないのでゆっくり寝たりした。徹夜は一度すると取り返すのにほんとうに時間と手間がかかってコスパが悪いから、やめた方がいい。

ガタガタの生活リズムのせいで頭が痛く、起きている時間もだいたいはツイッターを見たりして自堕落に過ごした。そうしていると先週行ったストリップ劇場が摘発されたことを知った。

オリンピックのための見せしめ(浄化 だと言っているのも嫌な感じだ)ということのよう。色々な噂が飛び交っているけれど、公然わいせつ罪だというなら、それは違くないか、公然でもわいせつでもないんじゃないか、と思う。

踊り子さんたちのことや、あの場にいたおじいさんたちのことや、色々頭によぎって、すぐにでもまたストリップへ行きたい!と思いたち家を出た。浅草ロック座に行くつもりだったけど、わずかに最終公演に間に合わなそうで、でも第1景の踊り子さん目当てだったから、日を改めることにした。

宙ぶらりんになった気持ちのまま、映画のスケジュールを調べて、レイトショーでノマドランドを見ることにした。日比谷はきらきらしていて、いる人みんながフォーマルによそおっていた。わたしは「かふちょうせいをぶっつぶす!」とプリントされたおきにいりの青パーカーを着ていていちばんモテなさそうでよかった。20時を過ぎてすべての飲み屋がしまっているから、あのきれいに整備された街の、景観として設置されてるベンチや階段のでこぼこの至る所に仕事終わりの大人たちが集っていて、OLふたりぐみやおじさん5人組やそこそこ大所帯の男女グループなどみんなが缶チューハイでコンビニおつまみで路上飲み会を開催していて、不忍池のまわりの芸大生みたいなことをやっているな、と思った。

 

ノマドランド、大きなスクリーンで見るべき映画だった。雄大な自然と、そっちのほうを向きながら定住せずに暮らしをやっていく人々。フランシス・マクドーマンドの表情とありようが、すごくよかった。遠目からのカットがやたら多かったのは、そういうスケール感で物事を見つめている、そういう価値観に映画の全体が貫かれているからなんだろうか。

「いい時間が流れ、いい時間を過ごしたな」と思い返すような映画体験だった。自己が消滅して物語の中に埋没していく感覚ではなく、スクリーンの中の時間の流れと、それを見つめる自分のまなざし/時間の流れがある、というような感じ。わたしの心の中には、いわゆる「思い出」をひとつずつ小瓶に閉じ込めて並べてある棚がありますが、その中に「日比谷のレイトショーでノマドランドを見ていたあのとき」が加わるようだった。それは「ふだん」と違う特異な時間と情感であり、一時的なもので、これから瓶の中身が腐食したり発酵したりすることはあっても、あとから瓶をあけて別のものを注ぎ込むことはぜったいにできない、ひとつの、経験された、完結した、時間と感情のまとまり。

なぜかいちばん印象に残っているのは、労働おわりに理由もなく岩山を登るシーンだったし、人々がやたら石を収集しているのも見過ごせなかった。わたしも小さいころ富士山の石を持って帰ってしばらく飾っていたことがある(本当はダメなことかもしれないけど)。それは甲子園の土を持って帰るのにちょっとだけ似ているな、と思っていた、小学生のこどもにとっての富士山の石は、そういうものだった。

ノマドの人びとが石を集めるのは、甲子園の土とは全然違う。

生きる土地を転々とする人々が自分の辿ってきた道筋、すなわち自分自身、を証明し実体としてのこすための、ログのようなもの。石というものはその土地そのものの片鱗だから。

単身で生きる人たちは、生活の基盤としての家もないし、家庭や地域みたいな強固なソーシャルがない、概ねひとりで過ごし、短期労働者として一時的に社会に接合し、また離れてゆく、あるのは同じくノマドの生き方を選んだ仲間たちとの一時的の繰り返しによるゆるいコミュニティだけだ。そんな人々にとって、自分の過去や記録や記憶の拠り所はきっと自分だけで、つまり自分が覚えていなければ消えてしまうような気がしてしまう、そこで、だから、石。というのは、なにも言葉を尽くして説明しようとしなくても、自然なことのような気がする。

現在の連続としての人生を選びとったひとりの人間に、物言わず寄り添う、永劫不変のモチーフとしての石。社会をゆるく抜け出しながら、単身で生活を営む人々は、そのぶんだけ孤独な自然の欠片である石に接近する。また、多くの石は無料で、ただそこにあるもの、とるにたりないもの、それがゆえに資本主義や人間社会価値観を逃れたものだ。ノマドの人の生活にぴったりちょうどよく親和する、宝物としての石、のことばかり考えてしまう。