情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0420

明るくなってから眠ったので起きられるか心配だったけど、たくさんアラームをかけたので起きられた、はずだったのに、二度寝してマジのギリギリの時間になってしまった。寝坊をした日の服装はワンピースと決まっている。ファンデーションのたぐいもせずに、眉毛をかいてアイプチだけして、髪も適当に結って家を出た。

面談では、卒業後の進路の話と、今後どういう作品を作るか、の話をした。いずれアートワールドに戻りたいのなら、院まで出るもんだ、というようなことを言っていた、そりゃそうかもしれない。就職するなら業界に使い捨てられないような技量と実力を身につけてほしい、とも言っていた、マジで切実にそうだと思う。また、そういう場で勝負していくつもりなら、きちんと学んだ保証のある作曲科に比べればずーっと不利なんだ、ということに改めて思い至り、遠慮も躊躇もなくガツガツやっていかねば、とちょうど気を引き締めていたところで、先生が「そういうことを考えはじめれば、モチベーションの向け方もちがってくると思いますし、」と仰って、まさに今!それを思っておりました!!となって好きになった。

その後、作品の話をしているときも、「強要するつもりはないけど」と前置きした上で、この技術を使ってこんなことをやってみたらどう、そうするのがあなたの強みを生かせるんではないか、と、アイデアの提案(と遠回しに制作スタンスのアドバイス)までしてくださって、おまけにわざわざホールの鍵を借りてきて楽器を見せてくださって、そのあまりの親切さにすっかり心うたれ、ほくほくの気持ちで帰宅した。

車窓から見えたあまりにも輝かしい日差し、すてきな風の匂い、やわらかな河川敷の青と緑、がほんとうによろこばしく魅力的だったから、今すぐにでも自転車で遠出をしたい!と思った。結局それはやらなかった。

家をすこし掃除したり食事したり休憩をしたりして、夕方から夜へ橋をわたりおわるぐらいのところで浅草に出かけた。ロック座に駆け込んで、ストリップを見た。上野に比べるとずっと入りやすい堂々とした店構え。上野などのスタンダードなストリップの形とはちがっていることは知っていたけれど、これはもう、ほんとうに別のもの!爆音と虹色の光、ポージングのときに両脇からとんでくるリボン、ポールまであって、その暴力的なまでの豪華絢爛さ、非日常の世界にうっとりと見惚れてしまった。これは完全に「ショー」というもの。きらびやかな衣装、みんなでつくりあげる総合的な演目、ダンス、女の子たちの祭典。享楽的な満たされがあった。

開始ギリギリで入場したので、はじめのほうは立ち見していた、けれどそれほど客席が広いわけでもないので、「場」に立ち、我が身を引き受けてステージに相対せざるを得ないのはどぎまぎした。客席に座るという行為は、たぶんそれだけで、群衆の中に身を埋めて許しを得るような、「見る」の権利を獲得するような、作用がある。

わたしが向ける視線、と、踊り子さんが向ける視線、についてのことは問題にならなかった。なぜならあまりにもショーとして舞台のほうの世界で完成されていたし、そのコンセプチュアルかつ視覚的インパクトの強い衣装のおかげで、裸を見ている、裸を見せている、というよりは、本当にただ普通にダンスやストーリーを表現していて、ただ普通と違って「陰部を見せてはいけない/見てはいけない」という縛りのない世界で、セクシーをおおっぴらに表現していい、それがむしろ評価される、というだけのこと、みたいなふうに感じられた。

不思議の国のアリスモチーフの公演だったので、妖艶なチェシャ猫、無邪気なアリス、チャーミングな双子、セクシーなハートの女王、などいろいろなパターンの「エロかわいい」を見せてくれるような感じで、たのしかった。「エロかわいい」にこんなに幅があり、精密な差異があったのか!という意味の驚きと発見があった。

女体の吸引力というのは凄まじいもので、わたしもその美にかじりつくようにして視線を注いでいた。女体を欲望するエネルギー。

 

終演後は、日が暮れた、でもうっすらと透明に濃い青の空の、浅草の街をふらふらと散歩した。シャッターはすべて降りていて、挨拶感覚でお賽銭を入れてお参りして、ぜんぶ夢みたいだった。

そこからさらにスカイツリーの方向に向かって歩いた。イヤホンで音楽を聴いた。東京っぽい音楽はちゃんとシティのなかで聴くのがいちばん。

帰宅後、実家のねことビデオ通話をした。母のスマホだとやけに毛並みがくろぐろとなった感じで画面にうつるのだけど、それがまたかわいかった。