情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0417

池袋シネリーブルであのこは貴族と特別興行のキンキーブーツをはしごするぞ、と決めていたから、起きてサッと支度してそれを実行し、終わったらまっすぐに帰って、それだけで1日が終わった。シンプルでいい1日だった。

映画館で映画を見るというのは、質を高めざるを得ない真剣なインプットだから、それを2つもやったということで頭が痛くなった。爆弾低気圧もきていたからそっちのせいかもしれない。

この2本を続けざまに見たことによる効果、というのは確実にあるな。男社会・家父長制/マスキュリニティ に囚われ雁字搦めになった男性の苦悩と問題、というテーマが共通していて、国も時代も結末もちがうけれど、片方のことを考えるともう片方のことが頭に浮かぶ。

わたしは男性が嫌いではないと思う。でも、男性の筋肉質な腕と、その上にわざとらしく光る腕時計と、が組み合わさると、嫌いだなあと思う。

 

あのこは貴族、というのは、階級の異なる女と女の一瞬の交わりを中心に描いた、山内マリコさん原作の映画。松濤に住む上流階級のお嬢様を門脇麦さんが演じていて、富山の地方都市出身で家計が苦しく慶應を中退する女の子のほうを水原希子ちゃんが演じている、まずそのキャストがよかった。門脇麦さんの気品あふれる所作は本物のそれだな、と思ったし、希子ちゃんの完全に自立した、どこかのびのびとした賢さと強かさは、とてもとても魅力的だった。「パッと見、配役が逆なんじゃないかと思われがちだが、実はぴったりの名配役」みたいなことを多くの人が言っていたけれど、見る前からあまり逆とは思わなかった、そういうことよりは、あの境遇なのに希子ちゃんがすこしもひねたとこなく、根底に余裕があるあまり、非現実的なほど魅惑的にうつるので、そう、魅惑的すぎるのではないか、惹かれすぎてしまうのではないか、同時に、地方出身の苦労した女の子のことを美化しすぎではないか、と思うのが気になってしまった。

わたしは関東だから地方出身というわけではないけれど、それでもじゅうぶん古くさくて鬱陶しいしきたりと閉塞感のある田舎の育ちで、父は自営業の肉体労働者だし、父母とも大学を出ていないし、そんなに家計に余裕もないから、門脇麦さんのほうの階級のことは全然わからないし知らない、うっすらとした敵意すらある。それだからこそ、と、それなのに、のたぶん両方なのだけど、上流階級の方では女は「いい家に嫁に行くこと」がゴールであるという価値観で育てられていて、そんな旧時代の、イエの繁栄の駒として生きるしかない女の人生のことも、それをやんわりと内面化して、いい男(いいイエ)に選ばれることで自尊心と自己実現としようとする女自身の風潮のことも、ぜんぜん理解できない、と否定的な気持ちでそれを眺めてしまった。たとえば、上流階級の女の子たちが同級生で家に集まったとき、その場にいない未婚の子の陰口というほどでもない陰口を言い合っていて、みんな揃ってお腹を大きくしながら談笑していて、そのシーンのビジュアルがなんだかかなりグロテスクで、言葉にしがたい恐怖があった。麦さん演じる女の子も、自分の家の階級よりさらに上の階級の男性と婚約することで、男性中心社会システムの中枢部を担うようなイエのシステムに足を踏み入れることになる。そこでは、婚約する前にも後にも女には自分の人生なんてものはなくて、イエの繁栄のための契約道具として、または、イエを次代に継承するための子産み係として、生きなければならない。その境遇じたいのことも、それをさほど疑いもしない価値観のことも、自分のものではないのに/だからこそ、つらいものがあった。

それに比べて、希子ちゃんのほうでは、同じ地方出身大学同期のお友達に起業を持ちかけられ、「そういってほしかった気がするから」とそれを快諾して、昼間からビールで乾杯する、というシーンがあり、急にそこでボロボロ泣いてしまった。女と女が信頼のもとに運命をともにする覚悟で起業する、というのが、どういう喜ばしいことであるか、てこと!

「どんな階級であろうと最悪って思う日もあれば最高って思う日もある、けど、とりあえず、その日あったことを話せる誰かがいるなら、それでじゅうぶんなんじゃないかな」というようなセリフが、終盤で全体のテーマのように提示される。でも、そこで言う「その日あったことを話せる誰か」というのは麦ちゃんにとっても希子ちゃんにとっても結局は同じ階級の友達で(ふたりともほんとうに素敵なキャラクターでほんとうにすてきなキャストだった)、というのがとてもリアルで。

それでも、そこまでは近づけないとしても、せめて、分断されない、「ただ、手を振り、すれ違う」ができるのではないか、そういうゆるくてやさしいシスターフッドが描かれていることが、信じられないぐらい希望で、唯一無二だった。

麦さんも希子ちゃんも、ふたりとも男社会に翻弄され振り回されて、それなのに社会を動かす当事者のほうにはなれなくて被害だけを被っていて、だからこそ、女であるふたりは、そこからのわずかな脱出の可能性も持ち合わせている。エンドでは、同じ階級の女と女が手を取り合って連帯して、しかし違う階級の女どうしが戦うこともなく、ただ同じ場所で共生してそれぞれの方向に進んでゆく、それぞれの方向をまなざしている。でも高良健吾は、ガチガチの檻の中から出られないままだ、手をつなげる誰かがあらわれる兆しもない、というのはとても示唆的だった。男として家父長として生きる道しか許されていない、男と男はその戦いから降りられないように相互監視させられている。そこで、そこでまさに、キンキーブーツ!

 

キンキーブーツは、ドラァグクイーンをフィーチャーしたブロードウェイミュージカル(それだけでもうすでに最高)。話の筋としては、昔ながらの靴屋さんの不出来な息子だったチャーリーが父の死をきっかけに家業を継ぐことになり、倒産寸前にまで追い込まれるも、ドラァグクイーン専用のブーツ、というニッチな市場で勝負することで、一発逆転アメリカンドリームを目指す、といういかにもなストーリーだ。

そこで大きなテーマになっているのが「マスキュリニティとの葛藤」。これを描くために、先述の靴屋の「息子」としてのチャーリーの設定がとても効果的に絡んでいる。そして歌のパートがその骨組みになっているから、歌のナンバーを並べると、自ずとマスキュリニティの変容とテーマが浮かび上がってくる!(こういう構成をもっているミュージカルがすごく好き!)

まず、靴屋の息子チャーリーのモチベーションは「父のように立派な社長になりたい、ガンガン稼いで従業員を養って良きリーダーでありたい(そうでなければならない)」というところにある。やることなすこと、「父の息子」としての側面の強いキャラクターだ。そしてまた靴屋の従業員にドンという男がいて、彼はマスキュリニティの権化のようなキャラクターだ。乱暴な強さをもち、頑固で、失礼なほど横柄。そういう彼らが、ローラとの出会いによって、「男らしさ」から解放される。そこのドラマが、いちばんど真ん中にある!女の美徳とされている気遣いも細やかさも美しさとエロささえも、本当は人間の美徳なんじゃないの?と問いかけて、男女のジェンダーの境界を錯乱し、揺らがせて、無効化してゆく、そのドラァグの最強さといったら!

そしてそのローラもまた、「父なるもの」(マスキュリニティ)と衝突し、分離してしまった過去が当然あり、挫折の傷を抱えていて、父(のような存在)に認められたいという薄暗い執念もきっと持っていて、だから、チャーリーとローラならぬサイモン、が歌うNot My Father's Sonは最高に泣ける。「強さも知性も備えてていつだって負けることのない完璧な男、になんかなれなかったけど、それでも!これが自分だから」と歌うのは、ある意味では敗北宣言でもあり、マスキュリニティの闘争からの解放宣言でもある。

こんなの、「あのこは貴族」の高良健吾やその周りの偉いおじさんたちみんなのそばに、ローラのような太陽が現れたとしたら?と想像してしまう、誰だって!

ローラを三浦春馬さんが演じる日本版のトレイラー映像も見たけれど、衣装や舞台美術やダンスはほぼ同じなのに、それぞれぜんぜんちがった美しさがあって、これがミュージカルの醍醐味だなぁと思った。マット・ヘンリーのローラは、とにかく腹の底から湧き上がる圧倒的なパワーと存在感とカリスマ性で、暴力的なまでの力で見る人を惹きつけてくる。ローラをみて、「この人は、舞台に立つために、人前で歌うために、生まれてきたんだなあ」と思わせてくれる。三浦春馬さんのローラは、筋肉質で背が高いながらも、所作も肌も表情も繊細な美しさがあって、派手さはないけど異様に艶かしかった。