情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

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中学時代のお友達とものすごく久々に会った。本当にひさびさ、高校を卒業するころ一度だけ駅で偶然会ったのが最後とか、そういうレベル。でもずっと頭の中では「現役の友達」のほうの箱に入れていた友達。

おしゃれな子なのでわたしもおしゃれな心構えでおしゃれをしていった!

わたしの運転ではじめの目的地までだいぶ車を走らせたものの、雨が降ってきたので引き返して、山奥の古民家ピザ屋さんに目的地を変更した。運転ばかりやりながら色々なお話をした、あまりにも話していないことが多すぎるのでいっこいっこのトピック、もっと深く掘り下げられるのにと思いながら、あちらこちらに話が移り変わっていくのをすこし名残惜しく流し流れていった。

ピザはあまりにも美味しかったからピザの味のことばかりでピザタイムの間の会話はあまりおぼえていない!

食後運転しているときに、過去一の、経験したことのない強さの生理痛状態におちいり、ふらふらぐらぐらぎゅーの中で、やっとの思いで運転をしたり話に相槌を打っていた。酔った時、酔いにリソースを割いたその余りの部分で会話をしてるのと同じ感じで、痛みにリソースを割いたその余りの部分で運転と会話をやっているな、と思った。道をまちがえ、来た時とはちがう初めての道を朦朧とした状態で走っていた。

さすがに見かねたお友達に、途中で運転と車を交代してもらった。中古車だと言っていたけど、センスのいい綺麗な特別仕様車だった、申し訳ないけど助手席でちぢこまらせてもらって、痛みに耐えているのをお友達は戸惑いの爆笑で見ていてくれた。彼女の運転よりわたしのほうがかっこつけた運転だなと感じ、ひらめいたのは、ようするに格好つけるとか格好いいとかいうのは規範への適応度が高いということ、

鎮痛剤が効き出すとかなり普通に動き出せるようになり、100万年ぶりにプリクラを撮ったりした。かわいい文字がかける人はいいなー、字も絵も幼稚園児みたいなのしかかけないわたしがなんとか編み出したいくつかの誤魔化しデコレーションの型は、もう古くて使えないとおもう。

夕方から閉店の時間まで、サイゼのデザートとドリンクバーだけで、ただずっと話をした。わたしは相変わらず腹が僅かに痛いので、ドリンクバーの紅茶、つまり香りつきのお湯ばかり飲んでいて、調子よかった。

過去の話とかはもうどうでもよくて、それよりはここを始まりの地点にしたいという共通認識がたぶんあり、今の各々のモヤモヤと焦燥感のゆきばを求めて、先のほうに向かっていく話ばっかりをした。不本意な環境にいること、抑圧から抜け出すのが容易ではないこと、それらのせいで思う存分を出し切れたことがないこと、がよくわかって、ずっと勿体ないから、ともにどうにかなりたい。どこでもというわけではないけれど、丁度いい環境さえととのえられればその場所で誰にも真似できないようなスキップしていけるのに、いまだに「いい子」でいなくちゃいけない呪いに囚われてそれができない、みたいなこういう状況、女の子に見受けられがち!この問題はたんに差別だとかってことではなくて、表現の疎外になりがちな傾向にある、という事実と実感って感じ。だから、よくある文豪とか教授とか画家のおじさんたちの羽目外しエピソードをみると、そうやって当然のように自由にやれていいね〜と、面白くない気持ちになる、