情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0527

韓国ドラマはいくつか見たことがあるけど、「夏の香り」だけは何度も見ている。そのせいでいちばんの韓国語サンプルが「夏の香り」のライバルの生意気な女の子の発音になっていて、授業の中でもあの発音に寄せてしまいがちだ。たしかチョンアとかいう名前だった。

ずっと家にいる日は、着替えを決める気力もないし、洗濯物増やしたくないと思っちゃうし、わざわざ動きにくいスカートとか着る意味がわからなくて、そもそもブラジャーすらつけたくなくて、だらだらいつまでも部屋着のまま過ごしてしまう。

今日は人と会う予定だったけれど、雨がひどいので延期になった。そういうわけで、宙ぶらりんになった1日をなんとなく持て余していた。

大学のメールで送られてきたマイナビの就活セミナー?のリンクを興味本位で踏んでみた。早速きこえてきたお姉さんの声があまりにも威圧的だったのでつい、スピーカーの音量を下げた。人材人材と言っているが、この人もこの大きな声とハキハキした滑舌と隙のない印象と整った容姿をもった「人材」として評価されて、こういう仕事をしているんだろうか。

「チームで良い結果を出す」ために、「笑顔で相手の話を聞く」、という説明をしていて、なぜこの発想になるのかまったく謎でよくわからなかった。一貫して、とにかく周囲に良い印象を与え続けろという主張をしていた。それはたぶん、たとえば小中学生の頃の「他所の親に好かれるような子」を演じろということなのだと思う。

本を買いに行って、本を読んで、少し音楽をきいて、それが結果的に「今日いちばんやったこと」になってしまった。

まあでも最近の、ぐちゃぐちゃ感情をちゃんと言葉にしているのは必要な作業だと思う。なにか感じて、浸って寝かせて、書いて吐き出す、というプロセスを経ないと、わたしは先に進めないからな、

0526

まともな朝ごはんをひさびさに食べた。朝ごはんって食べなくないか?人に出すためにやっている、自分もみんなも、と思っているふしがある。

大学の友達とも久々に話した。胸のつっかえがとけていく感覚があって、安心する。ずっと私が気にかけていることはひとつしかない。大学で出会った友人たちの多くのことは、道すがらで拾ったきらきらの石のように捉えている。

授業の中で見たアニメーション作品は「世界各地でいろんな人々がいろんな形の愛をねりねりしている。愛っていいよね」というテーマだったらしいが、ぜんぜんそれを作品から受け取ることができなくて、次の授業になってもしばらくぼうっとした。誰かが「愛っていいよね」と思って表現したものを、不穏で窮屈な印象に受け取って、これまでもこれからも自分の道の中にそれがないということを悲しみもした、そういう感情だったかもしれない。

ツイッターでも今日はたくさん嫌なもの見ちゃったし、そのたびにいつも以上に色々考え込んでしまう。

授業の一環として、みんなの前でLiSAについてのプレゼンをした。「LiSAが好きだ」ということすら恥ずかしくて大っぴらに言えなかったのだから、多少うまくできなくても、こうしてちゃんと好きを掲げられたことはすごいことだ、と思うようにする。

「いのちだいじに」で常にやっているのがよくない。つねに防衛しているから、攻撃がないとむしろ拍子抜けするみたいなところがある。つまり、防衛のパートが始まってからが本当の戦いというぐらいに思っているのだ、ほんとうによくない。攻めたほうがいい。

話の枕に自分の都合を喋っちゃうのもダサいとおもう、急に前に立って喋るという非日常行為を行わなくてはならなくなったことを受け入れられない困惑、とかを言ってしまったところで、日常のなかに埋没している聞き手には共有できやしない、立場がちがうから!非日常行為なのはそりゃそうなので、つまり自分の中でしずかに速やかにスイッチを切り替えるのがスマートなやりかたなのだ、それを理解した。

0525

一応進捗生んだし、家事も片付けたし、風呂にも入ったので無駄な徹夜ではない。8時ごろ、自分の意識の中では夜明け、早朝という認識でゴミ出しに行ったら、駆け回る子供、飛び交う「おはよう」の挨拶、健全な朝がきているみたいだった。3時間だけ眠って、具合が悪いけどとりあえずゼミに出た。正直オンラインで本当に助かっている。

打鍵が快だからピアノ弾いてるだけだし、タイピングが快だから日記書いてるだけだな。

褒められたものではないがとりあえず切り抜けたのでよしということにする。音楽はやっぱり不利だな、先生が前衛の音楽の作曲家である以上、どうしたって不利、でもそれしかできないんだからそれでやっていくしかない。

本当に心から面倒だけど、今週は予定が多いし、ちょっと懲りているので色々な課題に手をつけた。韓国語の課題、ちょっとしたレポート、提出期限切れの課題、英語の課題、明日の発表準備。

家事をしたり川を散歩したりもしたけれど、そういうことは「のんびり過ごした」と考えていくようにしたい。それぐらいでなにかひとつ為したような気になっていては全然、立ちゆかないから!

可笑しみの中に身を置くことができれば、わりと何が起きても平気だ、

お風呂に入ったら疲れがぜんぶなくなる、何もかも大丈夫になる。

0524

無駄に長く眠る。眠りたいという気持ちがある以上は無駄に長く眠ったわけではないのかもしれない。ここのところずっと便秘気味だし、生活も滞り気味だ。とりあえず昼なのにカーテンも閉めっぱなしでダウンライトで過ごすのはよくないのではないか。

わたしは目の形が左右でかなり違うので、鏡をみて今日も少しギョッとした。人に不気味な印象を与えかねなくて、つまりそれは損なので、マジで整形した方がよいかもしれない。

授業に一応出席しながら、徹子の部屋をみた。意識は0:10でテレビに集中していた。これは、ファンではない人が見てもかなりのほっこり回だったのではないかと思う。LiSAは「純粋でかわいらしいお嬢さん」のようにそつなく振る舞っていて、それがすごくよかった。どれもこれも、いろいろな場所で何度も語ってきていることだったので、もう自動的にそれについて語る言葉がキャッシュとして残っていて、それを引き出して並べればよいだけの状態なのかもしれない。スラスラと文がつながってゆくので、台詞を暗記しているかのようだった。それもあって、つるつると表面を滑っていく会話が心地よかった。

海鮮丼が食べたい、と、アイスコーヒーがのみたい、を両方思って、どちらも買いに行くことにした。海鮮丼の入ったビニール袋をさげたままドトールでコーヒーを注文するのは恥ずかしかった。

 

色々思い出してしまって収拾がつかなくなり、6000字めちゃくちゃに色々書き綴った。この日記には主に思考の結果を書いているだけなので、本当の感情や愛についての滾りについては、もっと別のところに遣っているのです。重く湿った「気持ち悪い」とも言ってしまえる愛の感情は、「胸から突然美しい花が咲いたようなもの」だと、詩を書く人がSNSでそう言っていた。わたしは鮮烈な愛をわりと何年も持続させることのできるたちだと最近気づいた。持続が得意であり同時に、関係を断つとか終わらせるとかいうことは本当に苦手。

誕生日をきっかけに、2年ぶりぐらいに連絡をくれた、会ったこともないけれど一時期とても大切だった女の子がいて、その子とわたしは、お互いの花のことを知っている唯一の存在だったけれど、もう彼女はその花をなくしてしまったらしい。花の秘密のことで通じ合えた関係だから、花をなくしてしまった今、私と彼女が関わり合う理由もなかったし、均衡で対等な関係が築けるわけもなかった。でも「あの花が悪いんだ」と言っているようすはまるで星の王子さまみたいだったから、いつかまた、かけがえのなかった花のもとに戻れることがあるかもしれないし、そうだといいな、と遠くから願うほかできることはない。わたしも、世界にとってはありふれた花かもしれないけれど、私がそれを見つめる目、分け与えてきたすべて、費やしてきた時間、によって輝いている、世界でたったひとつのバラの花を、これからもだいじにだいじに育ててゆく。たとえば今日みたいな行為を通じて?

 

ほったらかしになっている課題や家事から現実逃避するように、なんとなく開いた本を、そのまま一気読みしていしまった。「君は永遠にそいつらより若い」。今考えていることと接続が深すぎて、まったくそういう直感ばかり自分は冴えている。女と女の愛の話。愛というのもまた、必ずしもラブストーリーのラブではなくて、相手の被った暴力をともに引き受けようとする、いや、どんなことを以てしてもそれを分け合うことは絶対にできないのだという絶望のもとで、それでも傍にあろうと行動する、そういう形の愛。そしてふたつの孤独な魂について、それから、弱者の連帯と救済について。

わたしはこれを読んでいるときに、3つのことを思い出した。ひとつは、小学生のときに目にしたニュースのこと。某地で起こった監禁事件。首謀者の女が一家全員マインドコントロール支配下に置いて、監禁し、犯罪を行わせ、殺したという話。妙に覚えているのは、ときどきその家のトイレの窓から助けを乞う声を、近隣住民が聞いていた、という部分についてで、わたしは彼だか彼女だかわからないその人が、どんな気持ちで助けを乞い、どんな風景をみていたのか、どんな心境であったか、何度も、ありありと想像した。そして、なぜ自分は今もこうしてのうのうと生きていてよいのか、今もそのようにどこかで助けを乞うだれかがいるのではないか、どうしてその側に自分が在り、助け出すことができないのか、と考えるのだった。

ふたつめは、中学の同級生の女の子のこと。その子は、基本的には明るくてよく喋る気の良い友達だったけれど、ときどき、帰り際に農協で駄弁っているときなどに、家庭の問題や、自分の抱える視覚障害のことを話してくれた。その学校行事で、プラネタリウムを見たかもしれないし、見ていないかもしれない。本物の星空を見れないからプラネタリウムを見られて嬉しい、という話だったか、それとも、プラネタリウムの星空が見えているふりをするしかなかった、という話だったか、鮮明には覚えていない。そういうところが発端だったような気がして、合宿所の窓際の二段ベッドの下の段で、どうして自分にはいつもいつも、一緒に泣くか、手を握るか、抱きしめるぐらいのことしかできないのだろう、とこんなにも無力な自分が悔しく、でもそうするしかなかった夜。そういうことはそのあとも何度もあった。彼女もまた、わたしがクラスの男子に面倒臭く不快なちょっかいをかけられるたびに、過剰に、なぜそんなに、というぐらい、毎回、怒ってくれるのが、本当に嬉しかった。

そしてみっつめは、「どうかどうか、大好きな大切な女友だちが、社会や男やあいつらに、傷つけられることも脅かされることもありませんように」と祈る最近のあの気持ちのこと。そしてもしも、万が一そういう目に遭ったとしたら、考えたくもないけれど、そんなに甘いことは言っていられないから、万が一、そうなるとしたら、そのときは自分が傍にいて、そいつを殴るか、ともに暴力を受けるか、ともに泣くか、なんとかできますように、なんの役にもたたないとしても。本気でそういうことを考えている。ちいさいトラウマにとらわれつづけているみたいで少し恥ずかしいね、

それでもう、なんというか、ただ、好きな女たちにも、これを読んでほしいな、と思う。あんまりわからないかもしれないし、傷つくけど、希望だし、前半はじゅうぶんに笑えるから、とにかく読んでよ、と言いたい、だれにというわけでもなく。

 

こんなんばっかして、ほんと、なにをやってんだか!でも、なんとか逃げなかわしなとこの前言われたような気がするから、なにかしらよい逃げ道をつくってやり過ごそうと思う。とりあえず茶を煎れる。湯飲みを買わなければ、誰にも茶を振る舞えないな。化粧下地がなくなってきているけれど、BAさんが怖いのでいつまでも買いにゆけない。自分が湯飲みと化粧下地のどっちを先に買うかはまったく検討もつかない。どちらが差し迫っているかもよくわからない。からだの節々が痛いので眠りたい。

0523

好きなひとと酒を飲むのがいちばん楽しいけれど、そのあとひとりになって、何度かトイレと水分補給のために起きながらひたすら眠る時間も、わりと好きだ。

今日は精神的にオフラインで過ごした。連絡とかもほとんどしなかった。気持ち程度に課題に手を付けたりはした。

西日が眩しかった。きっと外はいい天気だったのだなあ。

音楽のことを文字で言い表そうとするとき、自分が書く/話す側でも、読む/聞く側でも、なんか白々しくて実態と離れているよな〜とつねになる。必ずそこにぶち当たる。大学と音楽の相性の悪さのことをまた思い、現場の人、野良の人と戦えなくちゃいけないよな、自分は温室にいることを忘れないようにしよう、などと考えた。手を動かさなくちゃいけない。

解釈余地のある人が大好き。あらかた見渡せてしまう人はつまらない。溺れさせてほしい。

0522

全然早起きではないはずなのに昼に家を出るのがきつすぎて、また朝のしたくRTAになった。今日はたのしい用事。京葉線って懐かしいはずなのに車窓の風景がいいからおでかけの気持ちになる。

野球を見に行った。球場はわたしにとって数少ない「ひとりでは行かない場所」のひとつで、いつも誰かに連れて行ってもらう。今回は酒が売っていないし、ビールの売り子さんもいないし、応援歌もない、なごやかでゆったりした雰囲気だった。

今日は初めて勝ち試合を見た。

野球の試合って時間の流れ方が独特で面白い。スピーディにエネルギーが躍動する、いかにもスポーツ的な時間が流れるバスケの試合とかとは違って、じっとりゆっくり、適量の緊張を保ったまま長い時間が流れ、その緊張の濃淡が変化する局面がところどころでやってくる。

また試合の進行の合間を縫って、こちらのベンチ側では、わたしと友だちと、ふたりで作る時間も流れる。球が投げられるその合間で、息継ぎをするようにお互いの話を挟み込む。

ホームランが飛んだとき、視界に入るたくさんの人が、反射的にバンザイをしていた。わたしもさせられた。人が咄嗟にバンザイをするのだというのを理解したことがすごくよかった。

ワッと湧くような熱い展開になったとき、自分の中と外の境界が曖昧になる。ボールが滞空している間、時が止まったみたいになる。その熱狂は一瞬のことで、試合は先へゆくし次のボールが投げられる。それに慣れなくて、いつまでそこに浮かされていてもよいのか、あたふた、どぎまぎしたけれど、たぶんスポーツ観戦が好きな人って、これがたまらないんだな!めりはりのある試合をこれまであんまり見ていなかったから、初めてこの感覚に触れられた気がした。

試合後、フードコートで友だちと横並びにすわって甘いものを食べたときは、ほとんど止まりそうなぐらいゆっくりな時間が流れていた。ぬるくてやわらかく尊い感触の時間だった。この人との会話は、なにかが得られなくても気づきが一切なくても全然よくて、そういう生産的なことがなくても、そばにともにあること自体で完成してゆきたいな、みたいな感じがある。

夜の公園の誰にもみつからないところを探して酒を飲んだ。しかくくて広い魔法のじゅうたんみたいなベンチは居心地がよくどこまでも行けそうだった。友だちは素面だし「お手洗い」という言い方を崩さないのに、公園の植え込みのところでいっしょに放尿させてくれた。秘密でいたずらでじゅうぶんに強くて誰のことも傷つけない最高の行為として、すごくよかった。

きっちり守った終電の中でもらった誕生日プレゼントを開け、お手紙をよみ、うっかり少し泣いた。

 

0521

月曜1限なんかより、金曜1限の方がずっとずっと起きるのつらい。毎日朝から晩まで労働しているわけでもないのに、週の終わりに向かって疲労が蓄積していく感覚がある。今日だって一瞬起きたのに、それが授業の40分も前だったからまたすぐ寝てしまった。ふつうに授業出られなかったのがショックだった。

 

今日はずっと外に出なかった。たくさん眠った。寝ていないときもたいしたことはしなかった。ここまで何もしなかったのは新居に来てからは初めてだけど、こういう日はこれまでに何度も過ごしてきたし、こういう日が定期的にないと潰れてしまう、というか、こういう日を定期的にとっているからこそ、潰れずにいられているのだと思うから、よし、とする。それに、これまでの「こういう日」に比べればまだ少し、ベッドの中でアイフォンでネットサーフィンする際に授業動画をバックグラウンド再生したり、みたいな、ほんの少しの努力をしたから、マシ、と思いたい。

 

そういえば、最近LiSAが朝のニュース番組に出た時に、「休日はひたすら寝溜めしています、23時間寝ることもある」と話していて、それはLiSAもLiSAのファンも一様に「ウケる話」として消化していたけれど、普通にファンとしては過労が心配だし、体調を気遣うべきだし、でもその反面、私にとっては同時に何より「安心」が湧き上がったのも事実だった。LiSAですら、LiSAだからこそ、1日中眠って、何ら生産性のない休日を過ごすことがあるのだということがはっきりわかり、そっかそうだよね、それでいいんだよね、みたいなふうに安心する。寝溜めする人は大抵、昔から寝溜めする習慣というか選択肢がある側の人、みたいなふうになっていることが多いから、きっとここ最近が忙し過ぎて始まった習慣ではないのだろうな、という想像もできる。高校生の自分の日記にも「LiSAはこんなふうに自堕落に終えてしまう1日を過ごすことはないの?」みたく書いてあったことをはっきり覚えているくらいだから、とにかくこの問題についてはわたしの大きな関心ごとだった。

 

洗濯をしたら、白か紫の服ばかり今週は着ていたことに気付かされた。焼きそばを作った。最近は毎日、1日の中で一食は必ず自分の手でなにかして食べるようにしている。

 

今日は「あのこは貴族」の山内マリコさんの原作を読み終えた。映画のシーンがひとつずつ蘇ってきながら、どの描写が原作にないのか、原作と食い違っているのか、をたしかめることで、映画化の際にどういう作為が働きどういう脚色がなされたのか、明らかになる、こんなに面白いことってない。ところどころのちょっとした描写に「あるある」が組み込まれているのは、おそらく山内さんの文体。そして、映画よりもえげつなさがぼかされていない、しかしそれでいて、「女たちが分断されないように」の主張と祈りはより強くはっきりした形で表されているように感じた。ただ、その中で「女友達と旅行に行った」という本筋にはなんの関係もない些末なエピソードが出てきて、そこで言われている「女友達」に込められたニュアンスが、私の抱いているそれとは全く違うことに気がついて、そうか!!!!!と、眼から鱗の落ちる思いだった。その「女友達」は一回きりしか出てこないし、それが誰でいつの知り合いでどんなであるのか、に関しては全く語られていない。ただ「彼氏(パートナー候補)」ではない存在として、しかし「一人旅」のような拘りを感じさせないものとして、読ませるために設定されている、という印象を受けた。その「女友達」の前では、のびのびと振る舞い、気兼ねなくふるまい、心の底からリラックスできるようだった。そのこと!自分も異性愛者で相手も確実に異性愛者である、という前提のもとに暮らしていて、それが普通だと思っている、そういう状況下での「女友達」はこんなにも、安穏としていてかつ娯楽的な色を帯びるものなのか、という驚きと気づきを得た。わたしにとって「女友達」ってもっと心が弾むものだ。

 

日が暮れてきて、アマゾンから届いた荷物と実家から届いたレターパックを回収するために初めて外に出たら、その帰りしなに近所の建物から火災報知器が鳴り出した。「ないこと」と「ないこと」が重なってすこしびっくりした。30分も止まなかった。両隣の部屋にもおそらく人が住んでいて、その人たちも「どうしたんだろう」という感じで窓をあけたりなにか動いている気配を感じた。ここで初めてわたしは隣人の生活の気配、同じ建物に住んでいる他人への一体感のようなもの、を感じた。その他人は顔なき存在で、前のアパートのように特定の「あいつ」と思い思われている状態とは違った感覚。

 

 

ここ数日あまり見ないようにしていたTwitterをどうしても、今日みたいなずっと家にいる日は見てしまうわけで、ずいぶん嫌なニュースが目に入って、気が滅入った。わたしは少なくとも根っからの異性愛者ではないだろうし、他所のイエに嫁いで子供産んで旦那の金と地位のもとで生活する、みたいなこと全然できないししたくないし考えたこともない、という自分についての認識はここのところはっきりしてきた、けれど、政治家の人たちの言う「LGBT」みたいなその言葉にぜんぜん当てはまるような気はしなくて、私だけでなくまわりのそういう人たちのことも含めて、誰のなにのことがそう呼称され言及されているのか、よくわからないし、まったく非現実的な感覚をおぼえる。もともとどんな観点にしろソーシャルの「みんな」の側に自分がいる、と思ったことは、いままでのどのコミュニティでもほとんどなかったから、当然国もそうだし、そんなもんだろう、と思ってきたし、そういう意味での衝撃は全然なかったけれど、諦めることに慣れてしまったから、歯向かう元気すら今日みたいな日にはなくて、ただ隠居したい、社会と隔絶したい、人の集団のあるところにいたくない、少数の好きな人たち個人個人とだけ関わりをもちたい、そうしてなんとしても言いなりにだけはならずに死にたい、と考えてしまったりもする。

 

LiSAの初期のMVのブルーレイを最近買ったので、それを見ていた。ほんとうは授業動画を見るべきだけど、そうしてしまった。それで気づいたことには、LiSAがきている服、わたしの好きだった系統の女児服にすごく似ている、ということ。私は母や祖母の趣味で、お嬢さんという感じを演出されがちだったし、襟付きの清楚なワンピースなどを着せられがちで、実際そういうののほうがよく似合っていたけれど、ほんとうは、カラフルでふわふわキラキラな、自分に似合わない感じのするポップで装飾過多でごちゃごちゃしたものがすごく好きだった。初期LiSAの服装はまさにそれだった。まだわたしの中に女児が生きている。

LiSAが「L.MiraのMVを撮るにあたって、ストリップを見てエロい表現を研究した」とラジオで喋ってた、という2014年ぐらいの情報を見つけて、それをふまえて例のMVを見てみると、たしかにストリップ的な所作、表現が見られたので、LiSA本当に信用できる、と思ったし、反対に、私がストリップに惹かれるのも必然だったのだ、という方面の納得もした。LiSAのライブでのステージパフォーマンスは、アンチにもファンにも「まるでストリップだ」と言われているのを何回か目にしてきたけれど、事実そうかもしれない、他の歌手?やアイドルはああいう表現しない、いや冷静に考えたら、するわけないのかも。ただ、わたしはそういうものだと思ったし、それがLiSAの曲とパフォーマンスを表現するのにひとつ相応しいやり方だとも思っていたし、自然に受け入れ、それのことを指して、最高だと熱狂してもいた。「まるでストリップみたいだ」は否定の意味合いで言っているのだろうが、すごい褒め言葉だと思う。身体を堂々と晒し、魅惑し、美しく魅せる、それも婉曲的な表現でなく、わりと露骨に。性的メッセージを隠して忍ばせるのでなく、逆手にとって大っぴらにする姿勢。そういうパフォーマンス、スタンス自体がわたしの心の中に輝かしいビジョンとしてうつったということは、自分でもかなり納得のいくことだった。