情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

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まともな朝ごはんをひさびさに食べた。朝ごはんって食べなくないか?人に出すためにやっている、自分もみんなも、と思っているふしがある。

大学の友達とも久々に話した。胸のつっかえがとけていく感覚があって、安心する。ずっと私が気にかけていることはひとつしかない。大学で出会った友人たちの多くのことは、道すがらで拾ったきらきらの石のように捉えている。

授業の中で見たアニメーション作品は「世界各地でいろんな人々がいろんな形の愛をねりねりしている。愛っていいよね」というテーマだったらしいが、ぜんぜんそれを作品から受け取ることができなくて、次の授業になってもしばらくぼうっとした。誰かが「愛っていいよね」と思って表現したものを、不穏で窮屈な印象に受け取って、これまでもこれからも自分の道の中にそれがないということを悲しみもした、そういう感情だったかもしれない。

ツイッターでも今日はたくさん嫌なもの見ちゃったし、そのたびにいつも以上に色々考え込んでしまう。

授業の一環として、みんなの前でLiSAについてのプレゼンをした。「LiSAが好きだ」ということすら恥ずかしくて大っぴらに言えなかったのだから、多少うまくできなくても、こうしてちゃんと好きを掲げられたことはすごいことだ、と思うようにする。

「いのちだいじに」で常にやっているのがよくない。つねに防衛しているから、攻撃がないとむしろ拍子抜けするみたいなところがある。つまり、防衛のパートが始まってからが本当の戦いというぐらいに思っているのだ、ほんとうによくない。攻めたほうがいい。

話の枕に自分の都合を喋っちゃうのもダサいとおもう、急に前に立って喋るという非日常行為を行わなくてはならなくなったことを受け入れられない困惑、とかを言ってしまったところで、日常のなかに埋没している聞き手には共有できやしない、立場がちがうから!非日常行為なのはそりゃそうなので、つまり自分の中でしずかに速やかにスイッチを切り替えるのがスマートなやりかたなのだ、それを理解した。