情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0420

明るくなってから眠ったので起きられるか心配だったけど、たくさんアラームをかけたので起きられた、はずだったのに、二度寝してマジのギリギリの時間になってしまった。寝坊をした日の服装はワンピースと決まっている。ファンデーションのたぐいもせずに、眉毛をかいてアイプチだけして、髪も適当に結って家を出た。

面談では、卒業後の進路の話と、今後どういう作品を作るか、の話をした。いずれアートワールドに戻りたいのなら、院まで出るもんだ、というようなことを言っていた、そりゃそうかもしれない。就職するなら業界に使い捨てられないような技量と実力を身につけてほしい、とも言っていた、マジで切実にそうだと思う。また、そういう場で勝負していくつもりなら、きちんと学んだ保証のある作曲科に比べればずーっと不利なんだ、ということに改めて思い至り、遠慮も躊躇もなくガツガツやっていかねば、とちょうど気を引き締めていたところで、先生が「そういうことを考えはじめれば、モチベーションの向け方もちがってくると思いますし、」と仰って、まさに今!それを思っておりました!!となって好きになった。

その後、作品の話をしているときも、「強要するつもりはないけど」と前置きした上で、この技術を使ってこんなことをやってみたらどう、そうするのがあなたの強みを生かせるんではないか、と、アイデアの提案(と遠回しに制作スタンスのアドバイス)までしてくださって、おまけにわざわざホールの鍵を借りてきて楽器を見せてくださって、そのあまりの親切さにすっかり心うたれ、ほくほくの気持ちで帰宅した。

車窓から見えたあまりにも輝かしい日差し、すてきな風の匂い、やわらかな河川敷の青と緑、がほんとうによろこばしく魅力的だったから、今すぐにでも自転車で遠出をしたい!と思った。結局それはやらなかった。

家をすこし掃除したり食事したり休憩をしたりして、夕方から夜へ橋をわたりおわるぐらいのところで浅草に出かけた。ロック座に駆け込んで、ストリップを見た。上野に比べるとずっと入りやすい堂々とした店構え。上野などのスタンダードなストリップの形とはちがっていることは知っていたけれど、これはもう、ほんとうに別のもの!爆音と虹色の光、ポージングのときに両脇からとんでくるリボン、ポールまであって、その暴力的なまでの豪華絢爛さ、非日常の世界にうっとりと見惚れてしまった。これは完全に「ショー」というもの。きらびやかな衣装、みんなでつくりあげる総合的な演目、ダンス、女の子たちの祭典。享楽的な満たされがあった。

開始ギリギリで入場したので、はじめのほうは立ち見していた、けれどそれほど客席が広いわけでもないので、「場」に立ち、我が身を引き受けてステージに相対せざるを得ないのはどぎまぎした。客席に座るという行為は、たぶんそれだけで、群衆の中に身を埋めて許しを得るような、「見る」の権利を獲得するような、作用がある。

わたしが向ける視線、と、踊り子さんが向ける視線、についてのことは問題にならなかった。なぜならあまりにもショーとして舞台のほうの世界で完成されていたし、そのコンセプチュアルかつ視覚的インパクトの強い衣装のおかげで、裸を見ている、裸を見せている、というよりは、本当にただ普通にダンスやストーリーを表現していて、ただ普通と違って「陰部を見せてはいけない/見てはいけない」という縛りのない世界で、セクシーをおおっぴらに表現していい、それがむしろ評価される、というだけのこと、みたいなふうに感じられた。

不思議の国のアリスモチーフの公演だったので、妖艶なチェシャ猫、無邪気なアリス、チャーミングな双子、セクシーなハートの女王、などいろいろなパターンの「エロかわいい」を見せてくれるような感じで、たのしかった。「エロかわいい」にこんなに幅があり、精密な差異があったのか!という意味の驚きと発見があった。

女体の吸引力というのは凄まじいもので、わたしもその美にかじりつくようにして視線を注いでいた。女体を欲望するエネルギー。

 

終演後は、日が暮れた、でもうっすらと透明に濃い青の空の、浅草の街をふらふらと散歩した。シャッターはすべて降りていて、挨拶感覚でお賽銭を入れてお参りして、ぜんぶ夢みたいだった。

そこからさらにスカイツリーの方向に向かって歩いた。イヤホンで音楽を聴いた。東京っぽい音楽はちゃんとシティのなかで聴くのがいちばん。

帰宅後、実家のねことビデオ通話をした。母のスマホだとやけに毛並みがくろぐろとなった感じで画面にうつるのだけど、それがまたかわいかった。

0419

3限の授業を受けつつ、ベッドから這い出て身支度を整え、かるく食べ物を口にして家から出る、上野へ向かう。やや遅れで授業に出たので、いま目の前で話をしているおじさんが何者なのかよくわからなかった。おそらく演出家かなにかだろう、という様子。また今週もシアターゲームのたぐいをやった。わたしはそういうことが苦手で、たいしたことをしないのに一々緊張する、だからほぼ強制的にそのような目に遭わされる、ということだけでもありがたかった。実践が第一、ということなのか、同じゲームにいろいろなバリエーションを加えて長時間やった。カリキュラムを考えるのを手抜きしているんじゃないかと思うほど。またゲームの途中で都度、講師の方がなにか精神論を語っているのだけど、それとワークショップの内容の結びつきはよくわからず、業界のおじさんの与太話、の雰囲気だった。しかしほんとうは、そういう話というのは大概、その人のふだん考えていることや着眼点のエッセンスが薄められ散りばめられているものだから、まったくためにならないということはない。きちんと濾過して咀嚼すれば、なにかしらものになる。同期が何人かいたので少し話をし、5限はあとで受けようと決めて帰宅。

スタバのカードが財布に入っていたので新しいティラミス味のフラペチーノを買った。そのカードというのもクリスマスに父親からもらったやつだから、「まだクリスマスのスタバカードを使い切っていないのって恥ずかしいな」と出すたびに思っている。それを片手に、家から2番目に近い公園に寄って、ベンチで読書をした。

あたたかいオレンジ色の光の中で、時折のらねこが視界を横切った。このねこに会いにこの公園に通っている人が一定数いるらしく、ここの公園でもあそこの公園でも、よく出没するねこについてはみんな把握し、情報を共有していた。地域猫、について本で読んだことがあるが、わたしの地元の田畑ではそういうことはなかったので、「人びとと地域猫の共生」というのはこれのことか!と妙に新鮮だった。

だんだん暗くなり寒くなってくるとみんな散っていって、各々の家に帰る。おばさんも、おじいさんも、子供たちも、わたしも。

 家に帰っておおいそぎで風呂に入ったりご飯を食べたりし、夜は「インターネットフレンド」の人と通話をした。カップリング解釈の話だけではなくて、アダルトビデオの性癖の話や、彼女の主ジャンルである芸人ナマモノの話や、コンテンツを愛好するわれわれ、についてのメタ的な話もした。「型があって、その型をどれだけ採用するか/逸脱するか がすべてである」と言う点において、お笑いとミステリー小説が似ていることに気がついた。彼女自身がどういうジャンルを辿ってきてどういう愛し方をしてきて、だから普段のこういう言動につながっているのだ、というのがわかり「納得」になると、それは何にも勝る面白さがある。自分を分析して他人を分析してそれを相互にやって喜んでいる、というのはたぶんあまり一般的なことではなくて、わたしも相手の人もかなり物好きなんだと思う。とくに腐の人たちはそういうことを語りたがらない、むしろ避けようとする風潮もあるけれど、それは、それを表明しないことがそのままその人の何某かを物語ってしまっているよね、と話した。政治的なことを話さないことそれ自体が政治的な態度なのである、みたいなのと同じ感じですね、とも言っていた。

界隈なんてものはないがもしあるとしたら、わたしはその中で彼女がいちばんダントツで面白いと思っているし、たがいにおなじ土台でレイヤーでの話をしている、という確信があるので話が尽きずたのしい。だらだらと話し続けて朝方になってしまって、相手のひとも「わたしこういうのが好きなんだと思います」と言っていた。最低半年に一度は、何もなくても話したいです、そういうインターネットフレンズです、そうしましょう、ということになって、通話を切った。そういうインターネットフレンズがいるというのは、とてもいいことだなと思った。

0418

絶対に遅刻できないと思って気を張り詰めて寝たせいで、何度か起きてしまった。実家からねこのクラッキング動画が送られてきて最高の目覚めだった。

音楽を提供した自主制作映画のミニ試写会があった。日本茶愛する人が、その愛のあまりに企画し制作した映画で、それを通じてわたしも、お茶を育てる人やお茶を出す人やお茶を広める人の愛にじかに触れることができて、こんなにも想いと愛の詰まった作品に関わることができて、それを伝えるお手伝いをできたことまでぜんぶ含めて、とても幸せなことだなあ、と思った。きちんとお金をもらって仕事をするのはこれが初めて。自主制作映画ってつまり、だれかの熱意と愛のぶつかるところに作品があるわけで、それをそういう形として現前させるためのお手伝いをする、それのために時間を費やす、というのは、とてもすてきで贅沢なことだった。これからもそんなすてきなことでお金を得て、生活していけるのなら、もっといいことかもしれなかった。

そのミニシアターで、たくさんの美味しいお茶をごちそうになった。茶の映像を見ながら茶を淹れてくれる音を聴きながら、また茶のことを考えながら作った曲を聴きながら、茶の味と香りとあたたかさをいっぺんに味わっていて、まさに五感の体験だった。お茶に利尿作用があるというのは本当で、3時間で3回もトイレに行った。

終わってすぐに、新居の内見に行った。すこし家賃が上がって、すこし駅から離れて、すこし部屋が狭くなって、すこし風呂が広くなる。壁が薄いことがもとの隣人トラブルで引っ越しをするわけなので、どうしても次の物件を選ぶときに木造アパートは避けよう、ということになり、だからマンションに越すことになっている。オートロックで建物がでかくて、さらに新築なので、ちょっと気が引ける。気軽さがたりない。どういう感情なのかはわからないけど、新築なんかに住んでしまってすみません、みたいな気持ちがある。

でも実際、ためしに新居の壁を叩いてみたら、まるで学校の壁を叩いたときのように、ただ掌がぺちんと叩きつけられただけで、ぜんぜん隣室に響かないような気がした。これではたしかに壁を叩かれてもノーダメージだな、と思った。少なくとも無意味な引っ越しにはならないことが確定したので、そのことはよかった。

いま住んでいる家は駅から近いしキッチンが広いしだいたいのことは完璧で、隣人も生活音とかに対して文句を言ってくることはない。来客がくる、ということだけがとにかく気に食わないらしく、だから攻撃を受けるのも誰かがきているときだけだった。ひとりきりで過ごしているぶんには、なんの嫌なこともなかった。

だから私よりも両親のほうが、壁ドンに遭遇する確率が高くなるわけで、今の家へのわるい印象も私よりずっと強く持っていた。わたしはこの部屋を去るのがうっすら寂しかったけれど、そのことを悲しんでいるのがわたしだけであることが悲しくて、帰宅後にすこし落ち込んだ。あたらしい場所で生活するのはいろいろな可能性があってもちろん楽しみだったりするけれど、わたしにとってはただ手放しに祝福できることでもなかった。

何もせずにいると気が滅入るので、参加を迷っていたオンライン新歓をのぞくことにした。自分がしているわけでもないのに、自己紹介は緊張した。ミラーニューロンのことを思い出した。研究室ごとに喋るタイムでも、1年性が適度に生意気で口数も多かったので、こちらもいいことわるいこと正直に話した。解散になったあと、残った部屋で先輩たちがしゃべっているのを盗み聞きしたりチャットで口を挟んだりしながら、ごはんを食べ、課題をやったりして、気持ちは紛れた。

0417

池袋シネリーブルであのこは貴族と特別興行のキンキーブーツをはしごするぞ、と決めていたから、起きてサッと支度してそれを実行し、終わったらまっすぐに帰って、それだけで1日が終わった。シンプルでいい1日だった。

映画館で映画を見るというのは、質を高めざるを得ない真剣なインプットだから、それを2つもやったということで頭が痛くなった。爆弾低気圧もきていたからそっちのせいかもしれない。

この2本を続けざまに見たことによる効果、というのは確実にあるな。男社会・家父長制/マスキュリニティ に囚われ雁字搦めになった男性の苦悩と問題、というテーマが共通していて、国も時代も結末もちがうけれど、片方のことを考えるともう片方のことが頭に浮かぶ。

わたしは男性が嫌いではないと思う。でも、男性の筋肉質な腕と、その上にわざとらしく光る腕時計と、が組み合わさると、嫌いだなあと思う。

 

あのこは貴族、というのは、階級の異なる女と女の一瞬の交わりを中心に描いた、山内マリコさん原作の映画。松濤に住む上流階級のお嬢様を門脇麦さんが演じていて、富山の地方都市出身で家計が苦しく慶應を中退する女の子のほうを水原希子ちゃんが演じている、まずそのキャストがよかった。門脇麦さんの気品あふれる所作は本物のそれだな、と思ったし、希子ちゃんの完全に自立した、どこかのびのびとした賢さと強かさは、とてもとても魅力的だった。「パッと見、配役が逆なんじゃないかと思われがちだが、実はぴったりの名配役」みたいなことを多くの人が言っていたけれど、見る前からあまり逆とは思わなかった、そういうことよりは、あの境遇なのに希子ちゃんがすこしもひねたとこなく、根底に余裕があるあまり、非現実的なほど魅惑的にうつるので、そう、魅惑的すぎるのではないか、惹かれすぎてしまうのではないか、同時に、地方出身の苦労した女の子のことを美化しすぎではないか、と思うのが気になってしまった。

わたしは関東だから地方出身というわけではないけれど、それでもじゅうぶん古くさくて鬱陶しいしきたりと閉塞感のある田舎の育ちで、父は自営業の肉体労働者だし、父母とも大学を出ていないし、そんなに家計に余裕もないから、門脇麦さんのほうの階級のことは全然わからないし知らない、うっすらとした敵意すらある。それだからこそ、と、それなのに、のたぶん両方なのだけど、上流階級の方では女は「いい家に嫁に行くこと」がゴールであるという価値観で育てられていて、そんな旧時代の、イエの繁栄の駒として生きるしかない女の人生のことも、それをやんわりと内面化して、いい男(いいイエ)に選ばれることで自尊心と自己実現としようとする女自身の風潮のことも、ぜんぜん理解できない、と否定的な気持ちでそれを眺めてしまった。たとえば、上流階級の女の子たちが同級生で家に集まったとき、その場にいない未婚の子の陰口というほどでもない陰口を言い合っていて、みんな揃ってお腹を大きくしながら談笑していて、そのシーンのビジュアルがなんだかかなりグロテスクで、言葉にしがたい恐怖があった。麦さん演じる女の子も、自分の家の階級よりさらに上の階級の男性と婚約することで、男性中心社会システムの中枢部を担うようなイエのシステムに足を踏み入れることになる。そこでは、婚約する前にも後にも女には自分の人生なんてものはなくて、イエの繁栄のための契約道具として、または、イエを次代に継承するための子産み係として、生きなければならない。その境遇じたいのことも、それをさほど疑いもしない価値観のことも、自分のものではないのに/だからこそ、つらいものがあった。

それに比べて、希子ちゃんのほうでは、同じ地方出身大学同期のお友達に起業を持ちかけられ、「そういってほしかった気がするから」とそれを快諾して、昼間からビールで乾杯する、というシーンがあり、急にそこでボロボロ泣いてしまった。女と女が信頼のもとに運命をともにする覚悟で起業する、というのが、どういう喜ばしいことであるか、てこと!

「どんな階級であろうと最悪って思う日もあれば最高って思う日もある、けど、とりあえず、その日あったことを話せる誰かがいるなら、それでじゅうぶんなんじゃないかな」というようなセリフが、終盤で全体のテーマのように提示される。でも、そこで言う「その日あったことを話せる誰か」というのは麦ちゃんにとっても希子ちゃんにとっても結局は同じ階級の友達で(ふたりともほんとうに素敵なキャラクターでほんとうにすてきなキャストだった)、というのがとてもリアルで。

それでも、そこまでは近づけないとしても、せめて、分断されない、「ただ、手を振り、すれ違う」ができるのではないか、そういうゆるくてやさしいシスターフッドが描かれていることが、信じられないぐらい希望で、唯一無二だった。

麦さんも希子ちゃんも、ふたりとも男社会に翻弄され振り回されて、それなのに社会を動かす当事者のほうにはなれなくて被害だけを被っていて、だからこそ、女であるふたりは、そこからのわずかな脱出の可能性も持ち合わせている。エンドでは、同じ階級の女と女が手を取り合って連帯して、しかし違う階級の女どうしが戦うこともなく、ただ同じ場所で共生してそれぞれの方向に進んでゆく、それぞれの方向をまなざしている。でも高良健吾は、ガチガチの檻の中から出られないままだ、手をつなげる誰かがあらわれる兆しもない、というのはとても示唆的だった。男として家父長として生きる道しか許されていない、男と男はその戦いから降りられないように相互監視させられている。そこで、そこでまさに、キンキーブーツ!

 

キンキーブーツは、ドラァグクイーンをフィーチャーしたブロードウェイミュージカル(それだけでもうすでに最高)。話の筋としては、昔ながらの靴屋さんの不出来な息子だったチャーリーが父の死をきっかけに家業を継ぐことになり、倒産寸前にまで追い込まれるも、ドラァグクイーン専用のブーツ、というニッチな市場で勝負することで、一発逆転アメリカンドリームを目指す、といういかにもなストーリーだ。

そこで大きなテーマになっているのが「マスキュリニティとの葛藤」。これを描くために、先述の靴屋の「息子」としてのチャーリーの設定がとても効果的に絡んでいる。そして歌のパートがその骨組みになっているから、歌のナンバーを並べると、自ずとマスキュリニティの変容とテーマが浮かび上がってくる!(こういう構成をもっているミュージカルがすごく好き!)

まず、靴屋の息子チャーリーのモチベーションは「父のように立派な社長になりたい、ガンガン稼いで従業員を養って良きリーダーでありたい(そうでなければならない)」というところにある。やることなすこと、「父の息子」としての側面の強いキャラクターだ。そしてまた靴屋の従業員にドンという男がいて、彼はマスキュリニティの権化のようなキャラクターだ。乱暴な強さをもち、頑固で、失礼なほど横柄。そういう彼らが、ローラとの出会いによって、「男らしさ」から解放される。そこのドラマが、いちばんど真ん中にある!女の美徳とされている気遣いも細やかさも美しさとエロささえも、本当は人間の美徳なんじゃないの?と問いかけて、男女のジェンダーの境界を錯乱し、揺らがせて、無効化してゆく、そのドラァグの最強さといったら!

そしてそのローラもまた、「父なるもの」(マスキュリニティ)と衝突し、分離してしまった過去が当然あり、挫折の傷を抱えていて、父(のような存在)に認められたいという薄暗い執念もきっと持っていて、だから、チャーリーとローラならぬサイモン、が歌うNot My Father's Sonは最高に泣ける。「強さも知性も備えてていつだって負けることのない完璧な男、になんかなれなかったけど、それでも!これが自分だから」と歌うのは、ある意味では敗北宣言でもあり、マスキュリニティの闘争からの解放宣言でもある。

こんなの、「あのこは貴族」の高良健吾やその周りの偉いおじさんたちみんなのそばに、ローラのような太陽が現れたとしたら?と想像してしまう、誰だって!

ローラを三浦春馬さんが演じる日本版のトレイラー映像も見たけれど、衣装や舞台美術やダンスはほぼ同じなのに、それぞれぜんぜんちがった美しさがあって、これがミュージカルの醍醐味だなぁと思った。マット・ヘンリーのローラは、とにかく腹の底から湧き上がる圧倒的なパワーと存在感とカリスマ性で、暴力的なまでの力で見る人を惹きつけてくる。ローラをみて、「この人は、舞台に立つために、人前で歌うために、生まれてきたんだなあ」と思わせてくれる。三浦春馬さんのローラは、筋肉質で背が高いながらも、所作も肌も表情も繊細な美しさがあって、派手さはないけど異様に艶かしかった。

0416

アラーム通りに1限の時間に起きたものの、ベッドから起き上がる気力はなく、手の届く距離にあったiPhoneでクラスルームに入った。ぬくぬくの布団の中で瞼が落ちるのと戦いつつ、ときどき気を失ったりして夢と現実を行ったり来たりしながら授業を受けた。スクショをするたび少しだけ安心の感情になる。

その後は予定がないのでゆっくり寝たりした。徹夜は一度すると取り返すのにほんとうに時間と手間がかかってコスパが悪いから、やめた方がいい。

ガタガタの生活リズムのせいで頭が痛く、起きている時間もだいたいはツイッターを見たりして自堕落に過ごした。そうしていると先週行ったストリップ劇場が摘発されたことを知った。

オリンピックのための見せしめ(浄化 だと言っているのも嫌な感じだ)ということのよう。色々な噂が飛び交っているけれど、公然わいせつ罪だというなら、それは違くないか、公然でもわいせつでもないんじゃないか、と思う。

踊り子さんたちのことや、あの場にいたおじいさんたちのことや、色々頭によぎって、すぐにでもまたストリップへ行きたい!と思いたち家を出た。浅草ロック座に行くつもりだったけど、わずかに最終公演に間に合わなそうで、でも第1景の踊り子さん目当てだったから、日を改めることにした。

宙ぶらりんになった気持ちのまま、映画のスケジュールを調べて、レイトショーでノマドランドを見ることにした。日比谷はきらきらしていて、いる人みんながフォーマルによそおっていた。わたしは「かふちょうせいをぶっつぶす!」とプリントされたおきにいりの青パーカーを着ていていちばんモテなさそうでよかった。20時を過ぎてすべての飲み屋がしまっているから、あのきれいに整備された街の、景観として設置されてるベンチや階段のでこぼこの至る所に仕事終わりの大人たちが集っていて、OLふたりぐみやおじさん5人組やそこそこ大所帯の男女グループなどみんなが缶チューハイでコンビニおつまみで路上飲み会を開催していて、不忍池のまわりの芸大生みたいなことをやっているな、と思った。

 

ノマドランド、大きなスクリーンで見るべき映画だった。雄大な自然と、そっちのほうを向きながら定住せずに暮らしをやっていく人々。フランシス・マクドーマンドの表情とありようが、すごくよかった。遠目からのカットがやたら多かったのは、そういうスケール感で物事を見つめている、そういう価値観に映画の全体が貫かれているからなんだろうか。

「いい時間が流れ、いい時間を過ごしたな」と思い返すような映画体験だった。自己が消滅して物語の中に埋没していく感覚ではなく、スクリーンの中の時間の流れと、それを見つめる自分のまなざし/時間の流れがある、というような感じ。わたしの心の中には、いわゆる「思い出」をひとつずつ小瓶に閉じ込めて並べてある棚がありますが、その中に「日比谷のレイトショーでノマドランドを見ていたあのとき」が加わるようだった。それは「ふだん」と違う特異な時間と情感であり、一時的なもので、これから瓶の中身が腐食したり発酵したりすることはあっても、あとから瓶をあけて別のものを注ぎ込むことはぜったいにできない、ひとつの、経験された、完結した、時間と感情のまとまり。

なぜかいちばん印象に残っているのは、労働おわりに理由もなく岩山を登るシーンだったし、人々がやたら石を収集しているのも見過ごせなかった。わたしも小さいころ富士山の石を持って帰ってしばらく飾っていたことがある(本当はダメなことかもしれないけど)。それは甲子園の土を持って帰るのにちょっとだけ似ているな、と思っていた、小学生のこどもにとっての富士山の石は、そういうものだった。

ノマドの人びとが石を集めるのは、甲子園の土とは全然違う。

生きる土地を転々とする人々が自分の辿ってきた道筋、すなわち自分自身、を証明し実体としてのこすための、ログのようなもの。石というものはその土地そのものの片鱗だから。

単身で生きる人たちは、生活の基盤としての家もないし、家庭や地域みたいな強固なソーシャルがない、概ねひとりで過ごし、短期労働者として一時的に社会に接合し、また離れてゆく、あるのは同じくノマドの生き方を選んだ仲間たちとの一時的の繰り返しによるゆるいコミュニティだけだ。そんな人々にとって、自分の過去や記録や記憶の拠り所はきっと自分だけで、つまり自分が覚えていなければ消えてしまうような気がしてしまう、そこで、だから、石。というのは、なにも言葉を尽くして説明しようとしなくても、自然なことのような気がする。

現在の連続としての人生を選びとったひとりの人間に、物言わず寄り添う、永劫不変のモチーフとしての石。社会をゆるく抜け出しながら、単身で生活を営む人々は、そのぶんだけ孤独な自然の欠片である石に接近する。また、多くの石は無料で、ただそこにあるもの、とるにたりないもの、それがゆえに資本主義や人間社会価値観を逃れたものだ。ノマドの人の生活にぴったりちょうどよく親和する、宝物としての石、のことばかり考えてしまう。

0415

木曜が時間割的にいちばんハードで気も張り詰めるので、乗り切っていけるか不安。その上今日は1限の時間帯に友達とのミーティングもあった。いそがしい。

韓国語は出席判定がめちゃくちゃ厳しい上にオンデマンドも不可能で、数少ない午前中の授業だから、いちばん早起きに緊張する。でも厳しいぶん、無駄なことをやらずにサクッと終わらせて早めに授業を切り上げてくれるので、そのスタイルに関してはかなり気に入っているしかなり恩恵を受けている。

眠くてふらふらで体調は最悪で、せめての気持ちでなんとか腹は満たして、モンスターで無理やり頭を覚醒させる。帰って早く寝たい。モンスターは美味しくなくて飲み切れたためしがないから、弟がいちばんマシだと言っていたピンクのやつを買った。上野公園をあるきながらそれを初めて飲み干した。受験期にも飲み切ったことがないのに!

副科の歌のレッスンでは、練習して行ったぶん少しはイタリア語歌詞の発音に慣れた気がするけど、あまり思い通りに声が出なかった。歌って、こんなにもダイレクトに体調がパフォーマンスに影響するのか!と実感。歌手の人も声楽科の人もすごく真面目に体調管理をやっているイメージがあるけど、当たり前のことだなぁ、と身を以て知ることができただけでも収穫、と甘いジャッジにしてやっていく、

履修決めとレッスン時間割を決めた際の不都合で、副科ピアノまで2時間半ぐらい時間が空いてしまった。ダメ元で教務に練習室を貸してもらえるか掛け合ってみたものの、断固拒否されてしまった。手続き上のことしか頭にないという様子だった。仕方がないから徒歩圏内のスタジオを借りようとしたけれど、店の前まで歩いて行って張り紙で、平日昼間は予約営業だ、ということを知った。そういうもんなのかもしれないけど、そういうたぐいのことってすべて、知っていなくちゃわからないことだ。もう今更キャンパスに戻っても仕方がないから、千住の練習室を無理言って貸してもらって、そこで2時間まるまるピアノの練習をやった。もしうまくいけば、オンラインでレッスンをやってもらえるといいな、と思ったけれど、先生からはメールが返ってこなかった。万全の状態で副科ピアノを受けることだけを考えて色々な策を練ったのに、ぜんぶうまくいかず、結局今日のレッスンは欠席ということになってしまった。拍子抜けして、ひとりきりになった暗いキャンパスをとぼとぼ帰った。でも、ガツガツと2時間ショパンを弾いた時間はほとんどスポーツのようで、疲労がここちよかった。

家に帰り、まだ激しい演奏の余韻が残っていたから、その勢いで皿も風呂も洗面台も、ぜんぶを洗った。早々に風呂にも入り、えらすぎるから9時半とかから酒を飲んだ。ニコニコで雑誌をめくりながら、ぽやぽやきもちよくなって、書いてあることはなんにもわからないのに愉快だった。

気がついたら部屋の明るいままベッドできをうしなっていた。暖房があつすぎたので目を覚ました。けっきょく、できるだけ早急に、4時ごろ正式に寝直した。

0414

授業はぜんぶきちんと出た。どうしてもコメダカツサンドが食いたい!という心境になり、5限のあとに食べに行った。めちゃくちゃお腹空いていたのに最後のひときれがどうしても入らず、結局すべて食べ終わるのに1時間半ぐらいかかった。作業は進まなかった。

西成の観光事業のPR方針のやばさ、についてずーっとあれこれ考えてしまった。一年半前に西成できいてきた話の中で、すでにそういう雰囲気はあったけれど、いざ急速にそれが進んでいくのを見ていると、エグいしつらい。

明日までにやらなきゃいけないことがわりとあったけど、なにも進まず、結果的に無駄に徹夜をやってしまった。一睡もせずに学校へいく。