情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0419

3限の授業を受けつつ、ベッドから這い出て身支度を整え、かるく食べ物を口にして家から出る、上野へ向かう。やや遅れで授業に出たので、いま目の前で話をしているおじさんが何者なのかよくわからなかった。おそらく演出家かなにかだろう、という様子。また今週もシアターゲームのたぐいをやった。わたしはそういうことが苦手で、たいしたことをしないのに一々緊張する、だからほぼ強制的にそのような目に遭わされる、ということだけでもありがたかった。実践が第一、ということなのか、同じゲームにいろいろなバリエーションを加えて長時間やった。カリキュラムを考えるのを手抜きしているんじゃないかと思うほど。またゲームの途中で都度、講師の方がなにか精神論を語っているのだけど、それとワークショップの内容の結びつきはよくわからず、業界のおじさんの与太話、の雰囲気だった。しかしほんとうは、そういう話というのは大概、その人のふだん考えていることや着眼点のエッセンスが薄められ散りばめられているものだから、まったくためにならないということはない。きちんと濾過して咀嚼すれば、なにかしらものになる。同期が何人かいたので少し話をし、5限はあとで受けようと決めて帰宅。

スタバのカードが財布に入っていたので新しいティラミス味のフラペチーノを買った。そのカードというのもクリスマスに父親からもらったやつだから、「まだクリスマスのスタバカードを使い切っていないのって恥ずかしいな」と出すたびに思っている。それを片手に、家から2番目に近い公園に寄って、ベンチで読書をした。

あたたかいオレンジ色の光の中で、時折のらねこが視界を横切った。このねこに会いにこの公園に通っている人が一定数いるらしく、ここの公園でもあそこの公園でも、よく出没するねこについてはみんな把握し、情報を共有していた。地域猫、について本で読んだことがあるが、わたしの地元の田畑ではそういうことはなかったので、「人びとと地域猫の共生」というのはこれのことか!と妙に新鮮だった。

だんだん暗くなり寒くなってくるとみんな散っていって、各々の家に帰る。おばさんも、おじいさんも、子供たちも、わたしも。

 家に帰っておおいそぎで風呂に入ったりご飯を食べたりし、夜は「インターネットフレンド」の人と通話をした。カップリング解釈の話だけではなくて、アダルトビデオの性癖の話や、彼女の主ジャンルである芸人ナマモノの話や、コンテンツを愛好するわれわれ、についてのメタ的な話もした。「型があって、その型をどれだけ採用するか/逸脱するか がすべてである」と言う点において、お笑いとミステリー小説が似ていることに気がついた。彼女自身がどういうジャンルを辿ってきてどういう愛し方をしてきて、だから普段のこういう言動につながっているのだ、というのがわかり「納得」になると、それは何にも勝る面白さがある。自分を分析して他人を分析してそれを相互にやって喜んでいる、というのはたぶんあまり一般的なことではなくて、わたしも相手の人もかなり物好きなんだと思う。とくに腐の人たちはそういうことを語りたがらない、むしろ避けようとする風潮もあるけれど、それは、それを表明しないことがそのままその人の何某かを物語ってしまっているよね、と話した。政治的なことを話さないことそれ自体が政治的な態度なのである、みたいなのと同じ感じですね、とも言っていた。

界隈なんてものはないがもしあるとしたら、わたしはその中で彼女がいちばんダントツで面白いと思っているし、たがいにおなじ土台でレイヤーでの話をしている、という確信があるので話が尽きずたのしい。だらだらと話し続けて朝方になってしまって、相手のひとも「わたしこういうのが好きなんだと思います」と言っていた。最低半年に一度は、何もなくても話したいです、そういうインターネットフレンズです、そうしましょう、ということになって、通話を切った。そういうインターネットフレンズがいるというのは、とてもいいことだなと思った。