情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0413

毎日、どうか授業が始まっていないように!と祈りながら時計を確認する間に夢の余韻が逃げてしまう。めちゃくちゃ体が重くてやたらに眠い。

家の中のことが全然片付いてないので、今日はゼミ後直帰するぞ!と決めて家を出た。2年生じゃないのに、メディアアートなどに関してはマジのずぶの素人としてゼミに参加しなければならないのはつらい。つらいとはいえど、今の生活の中に前の研究室の課題を組み込める余裕はどこにもない、ということのほうが明白だから、やっぱり正しい選択だったとおもう。だからこそ、それに伴う苦しみや気まずさや緊張のほうは、きちんと引き受けなくちゃいけない。

インスタレーション(照)音楽作品(笑)メディアアート(仮)みたいな気持ちをなくすために、ここにいる、と思う。

家のことを回し、タスクも片付けて、1日のおわりに酒をのみながら履修登録をやった。

0412

ベッドの中から受けたオンライン授業で「あなたは何をつくっている人ですか」と問われるタイプの自己紹介をするタイムがあって、かなり嫌だ、と思ったけれど、そういうのはやらないように考えないように意識的にふるまった。やらされるものは、やっていいと言われているのであって、だから自分の中にあるものだけで都度都度きちんとこたえていけばいい、躊躇せず、決して逃げずに。まっすぐに、負けたり失敗したり悔しがったりをまっとうしながら。

 

毎週演劇ワークショップがある、みたいな感じの授業を受けた。今日の先生はとても声が大きくて、立ち方歩き方話し方、すべて訓練された演劇身体で、わたしには威圧的におもえた。シアターゲーム、よくあるワークショップのアイスブレイクでやるようなあそびをいくつかやった。こういうのは、自意識と体を引き離すためにやっている、と思う。わたしの身体には自意識ががんじがらめになっていて、その精神を守るために身体じたいがつねに防衛の姿勢をとってしまっている。演劇というのは、基本的には人間の身体がもともと持っている意味を無効化して、新たな意味を纏う、それによって虚構を立ち上げる、という作業なのだろう、だから、人間を真っ白なキャンバスに戻す作業、つまり「社会的な意味や自我や文脈を離れた、ニュートラルな身体」を作り上げる作業、が必要なのかもしれない。

「表現はアウトプットが基本なので、出力を高める、自分がそこにいるということをアピールしろ」と先生が言っていたのは印象的だった。わたしにすごく欠けていることだから。

 

授業のあと、同期の子とごはんに行ってたくさんおしゃべりした。見た目も生き方もシュッとしてて綺麗でスタイリッシュな子、濁った汁を外に漏らさずにいられる子、という印象で、それを私はうらやましくあこがれながら見てきたけど、あらためてちゃんと話すと、脆く内省的でわかりあえる部分があって、よかった。

バイトや就職で社会と接すること、そこでいちいち傷ついたり絶望したりすること、とかについて話した。学科のめぐまれた環境、コロニー、ユートピアに思いを馳せる。学科の中の、しかも私たちの学年は、男/女でいなくてよい、という雰囲気が比較的あって、それはみんながそう望み、無意識的に敏感になって作り上げた空気なのだな、と思う。

それと彼女はSNSの使い方に関して、「瞬間的な快楽のためにSNSを使うのはよくない」と言っていた、それは私もやってしまっている!いつもその子が綺麗にいられるのは、自然にそうなるんではなくて、ちゃんとそうしようと思ってやっているんだと気づく。そういうのを品性と呼ぶのかも。

 

家に帰ると理由のわからない謎のどでかい眠気が来て、すこし眠ってしまった。

また夜も更けて「なにか食べなきゃ死ぬ」と思ってから買い物に行く。家にはレタスとトマトとふきと米しかなかったからタンパク質などを得ないといけない。よる11時ごろというだけで真夜中のような顔をしている街。ほんとうなら酔っ払いがたくさん歩いているはずなのに。自分の時間に合わせて動こうとするとどうしても、街の時間に置いていかれてしまう、こんな日々が恒例になっているがいつか懐かしく思い出せる日はくるんだろうか、

取り返すように家を片付けたり溜まっているタスクに手をつけたりしたいけれど、なにもできぬまま夜が明けていく。本を読めばいいのに、ツイッターのいろいろなアカウントでいろいろな暴れているすきな人々を眺めるのに時間をつかってしまう。とても好きなオタクがいて、その人のオタクとしてのスタンスが好きだから何に心暴れていても好き、もっと見せてくれ、の気持ちになる。言葉選びのニュアンスがすてきな人間は、なににしても信用できる。自分自身の体と心を引き受けて実践する恋愛や人間関係のドラマをたぶん彼女はほとんどやめている、「永遠に明日も明後日も一緒にお昼ご飯を食べたいな、というのが自分の最大限の好意だ」と言っていたのも、それが実在の人間関係だからだと思う、それでも、フィクションを解釈し、フィクションを紡ぐことを通して、あれほどまでに深く重く繊細に、恋愛や人間関係を生き、それに囚われて生活のすべてが貫かれている人は、そうなかなかいない。そういうパターンの人間がいるということが、そのままいとしく、とうとく思う。

部屋が青くあかるくなっていく中で、演劇制作に生活を捧げた人のnoteを読み耽った。ひとの半生、それが現実であるという一点の壮絶さ、これから自分が踏み入れるかもしれない場所に巣食う社会構造の問題点、

0411

きちんと顔を洗うと、すっきり、の気分になる。視界があかるいのがすごく大事だから、前髪を伸ばしている。家の中ではだめになりそうだからとにかく外に出ることにして、ドトールで作業をやった。店内がものすごく狭くて、テーブルはちいさくて、自分のテーブルの前にすぐ他の人の背中がある特殊な席に座ってしまったので、受験か塾みたいだった。

 

充電が尽きたので家に帰ってきて、休憩のつもりで読み始めた百合小説がものすごく面白かったので一気読みしているうちに日が暮れた。セクシュアリティと向き合うこと、二次創作をする人間のエネルギーに対する関心、現実を生きるセクシュアルマイノリティとフィクションとしての百合やBLの関係、など、日頃考えているトピックに触れるエピソードがたくさん包含されていた。もともとは男性の性的願望に基づいて作られた、フィクションの中の女の子だけの世界、というのが、女の子にとってのユートピアとして機能しうる、という例はいくつも現実に見てきたし、やっぱりこの小説でも描かれていて、それとしての百合を女の子が愛するというのはすごく面白い現象だと思っている。

まっすぐにフェミニズムやLGBTQを掲げるのがこんなにも難しく、社会的な親和性がない日本だからこそ、百合文化というファンタジーを取っ掛かりに「すべての女の子の肯定」を目指すのは、すごく正しくて自然な気がする。

 

夜になってから、ジムへ行った。ジムによってマシンの機種が違うし、それだけで使い心地も重さの感覚も全然違う。空間に慣れるまでは続けなくてはならないし、きちんと食事もしなくちゃいけない。

あとは家で調理をしたりするだけで1日が終わってしまった。それがもともとなんだったか、がわかるものを胃袋いっぱいに入れるのは、安心とはまた違う満足感がある。お惣菜とかは苦手、食わせようとして味付けしてきている誰かの意図も一緒に口へ入ってくるから。

0410

飲まず食わずでただ寝て、頭と体の充電をした。

小さい頃もっぱら哲学ばかりやっていたのは、わたしのまわりになんのコンテンツもなかったからだ、本もテレビもアニメもいつも自分の手元からなくなってしまうもので、「これ」と見定めてそれを解釈し続けられる対象がそこになかった、だから自分の人生を解釈し続けるしかなかったのだということ

なにかやっているときに「気づき」が訪れる、それは今の私にとっては、たとえばこの前みた展示であったり、好きなラジオであったり、そういう何かコンテンツについて考えているから、それに対する気づきになる

しかしフィクションを与えられていない子供にとって、何の時も自分の人生について考え続けざるを得ない

LiSAの好きなところは、フィクションとか技巧とかによって「自分」から逃げること、を決してしないところだ いつでも「自分」を引き受ける強さと欲張りさがある

 

本屋のレシピ本のコーナーも、食品売り場も、眺めているとなんとなく疲れてしまうからやっぱり私は食に関しての興味が 薄いのかもしれない。レシピ、のような考え方って「食材」そのままでは人間の食事にならなくて、それに何某かの加工を加えて「料理」に進化させなければ人間が食べるには値しないのだ、というような価値観におもえてしまって、それがすごく苦手。そのままでは大きくて口に入らないので切り分ける、硬いものや生では食べられないものは火を通す、それに味をつける、そういう原始的なところをベースに考えて行って、そこに文化的歴史的な慣習をくっつけつつ、応用していく、のような捉え方でないとうまく納得してすすんでゆけない。そういうわけでとりあえず思いつくままに野菜を買った。3個入りのトマトのうちひとつをきょう丸かじりした。キャベツは春服のブラウスのようにシャッキリしてさわやかな色合いだった。江國香織さんの食事エッセイの中で幼少期に「ふきすきちゃん」と呼ばれていたことがなんとなく頭をよぎり、ふきなども買ったりしてみた。

帰りに本屋に寄り、食の骨組みを考えるのに参考になりそうな自炊の本も買ってみたりした。それからファッション雑誌も眺めた。女性向けファッション雑誌というのは妙に気恥ずかしくてレジに持っていくのを躊躇ってしまう変な傾向がわたしにはあるし、雑誌の付録を使うのはその雑誌を読んでいることと付録を日常使いしていることがいっぺんにバレてしまい恥ずかしい!という価値観をもうすでに小学生の頃には持っていたことを思い出す。でもほんとうは、雑誌の文化に憧れもある。広告が集まった媒体でありながら、服や靴やコスメだけじゃなくて、本や映画や哲学やライフスタイルも混ぜ込んで提案する、そしてそれをえらびとり内面化しまわりに人が集まっていって、そこにひとつの文化ができる。それの一連のすべてがすごくいいなぁっと思う。ファッションてそういうことだから。少なくとも、モテの極意だとかアースカラーばかりの色味だとかで紙面が埋め尽くされているのはイヤなので、とりあえずSUPRを買ってみた。モード系雑誌というのか。いちばん表紙が変で、好きだったから。

0409

昨日は比較的早めに床についたのに、精神的な負荷が大きかったせいか、全然早起きすることができなかった。いちど8時半に起きて、気がついたらまた寝ていて、つぎに起きたら授業が始まってもう半分過ぎていた。即座に起きてZOOMに入り内容をメモしたりなどする、面白かったのでちゃんと聞いて文脈を見たかった。

昨日買えなかった教科書のために上野まで行く。たいしてやりたくもない語学のために5000円、教科書は高すぎる。

そとはつめたい色合いの曇り空で、上着を羽織ってきたのにすこし肌寒い。教科書の入ったリュックをコインロッカーに預けなければならなかった、ストリップ劇場に行くぞと決めていたから!上野のストリップは不忍池のちかくの地下にある。事前調査を念入りにするタイプなので、ストリップのZINEをいまいちど読み返したり、スト客さんのツイッターをみたり、劇場のホームページを見たりして今日にそなえた。上野はホームページの雰囲気も古くさかったし客席も少なそうで、初心者でも行きやすいのは浅草か渋谷だろうと思ってはいたものの、やっぱり上野のほうがスタンダードなストリップの形式と雰囲気のようだったし、ネット記事で名前を見たことのある踊り子さん出るのは上野の方だったし、などいろいろなことを考えて上野に突入した。

黒い扉を開けて最初に思ったことは、「ステージが近い!!!! 」

肌の質感や香りまで感じて、狭い空間だからこそ、そのすべてを踊り子さんの存在感が満たしていた。それほど激しい振りでないのだとしても、あまりに近いからそのぶん威力が大きくて、踊り子さんのひとつひとつの所作に動揺した。

 

・お客さんは、わたし以外全員おじいさんだった。いや、おじさんかお兄さんぐらいの人もいた、彼は結婚指輪をはめ、踊り子さんのポラでファイルをパンパンにして、演目中も必死にノートになにか書き付けている、ガチのオタクの様子だった。

しかし客層がいいというのは本当で、立ち見していたわたしに「あのへんで見るのがいいですよ」と誘導してくれる人がいたり、前を通るときに「すみませんがちょっと失礼します、」と丁寧かつ遠慮がちに会釈をする人たちがいたり、わたしのような若い女性客がいても嫌な顔することなく、かといって必要以上に気にすることもなく、ただその場にいることを許してくれて、とても居心地がよかった。

激しい踊りを披露した踊り子さんの体が汗ばんでいて、綺麗だな、とか考えてたその瞬間、最前列のおじいさんが即座にどこからともなくうちわを取り出して、風を送り出したのを見たときには、感動と驚きで思わず笑ってしまった。

・はじめのうちは、人が衣服を脱ぐのを直視するなんてことに慣れていなかったから、はじめのダンスシーンの時点で「もういいよ、もうこんなに綺麗だから、脱がないでくれ!!」の気持ちがあった、おそらくそれほどじぶんの中で人の裸を見ることがそのまま加害とつながっていたから。

・実際に性器を思いきり見せる姿勢をとる局面は都度都度あって、そのたびに拍手が巻き起こる、ようするにそこが「見せ場」ということになっている、のが、なんとなく居心地がわるく奇妙な、不思議な気持ちだった。

次第に性器を見せアピールするというのは形式で型なのだということがわかっていった。

・実際に女性器なんてそんないいもんではない、自分ももっているからたいして珍しくもないし、見た目もローストビーフのようで美的ではない、、こうして光の元に晒してみれば、いまされている女性器への過剰な意味づけは後天的なもので、じつはなんてことない、ただの人体の部位のひとつだな、とかえって思うような気がしたのが不思議だった

・女体のうつくしさは女性器なんかではなく全然ちがうとこにいっぱいある、肌艶と脚の付け根の血管と、など、そういうところばかり見ていた、めちゃたくさん美しさがある

・客がおじいさんばかりなのに、ハードでロックなサウンドの音楽やボカロなんかで踊ったりしていて、衣装もかなり奇抜だったりして、ようするに「観る人がどういうものを好むか」の需要に寄せて演目を準備してない印象をうけた、むしろ同年代のわたしなどに刺さるし、そういう選曲になっている、ふつうに女の子がやりたい曲でやりたい踊りをやってるんだと思う

・私の方をすごく見てくれたり、振りの中でこっちに手を伸ばしてくれたりする踊り子さんがいる、その一方で、決してこっちを見ない、見ていないよ、という体をとっていて、どこでもない遠くを見ているような踊り子さんもいる。前者は「見ていた」はずの私が「見られる」存在になるわけで、立ち位置が転覆するということ、これは怖かったりスリリングだったりする。わたしは単なる社会の規範の延長として会釈とかしちゃって、そういうのたぶん、作法としてめっちゃださい、仕草に頼っているから、と思って、途中からはやらないように気をつけた。後者のスタンスは、客席との間に断絶があり、「「安心」」がある。これは見る側の特権性が危ぶまれることなく保たれることへの安心なのかもしれない。視線が交わされることがない、というやさしさ。

見ることを「見合う」ことで許してくれているのか、「見ていることに気づかない(ふりをしている)」ことで許してくれているのか、ということで、いずれにしても私は踊り子さんに許しをあたえられた。

妖精さんみたいだ!!と思った人と、天女さんみたいだ!!!と思った人のポラを撮らせてもらった。妖精のおねえさんはシャープでうつくしいかたちの顔とからだをしていて、気怠げな雰囲気がとてもとても好きだった。いまのところの推し踊り子さん。天女のおねえさんは叶美香さんのゴージャスさをキュートさに振ったような感じなのだけど、ほんとうにやさしくて、大学生だと話すと「踊り子さんたちからいっぱい力をもらって、大きく羽ばたくのよ、」といって笑顔で背中を撫でてくれた。

・わたしのような若い女の客を受け入れてくれるのはやっぱりストリップがショーだからで、飛田新地に迷い込んでしまったときにそこの女性たちから向けられた冷ややかな視線とはまったくちがうものだった。

・ポラ撮影の時間はすこし苦痛だった。見たくなさがある。照明を受けて輝いている時とは、よくも悪くもギャップがある。

ふつうに男の人にえっちなポーズを要求されて、仕事としてそれにこたえる女の人の、なにかしらのポーズが伝わってきてしまうから、生々しい。嘘みたいに明るい挨拶で鉄壁の守りをしているようにみえる子もいたし、母性でもってこたえているようにみえる人もいたし、ちょっといじけてひねくれてみせる子もいた。すべてそういうのが敏感に伝わってきてしまう、女だから!

・踊り子さんたちは、それぞれの体型に個性がありながらも、みんな「踊り子」の身体をしていた。踊るためのからだ、脚や前腕や背中に鍛えられた筋肉がある。骨格が目立ったり、すこしむっちりしていたりというのは、あくまでその中でのバリエーション。だから、それは私と全く同じのただふつうの女の体として見ることになるんではなくて、「踊り子の女性の体」という線引きがある上で見てしまっている気がした。

・「性器を見せている=女の子がいちばん大事な部分を曝け出している」のに感動した、みたいな論調でストリップの感動を伝える人は少なくないけれど、あんまりそういう気持ちにはならなかった。それよりも、「見ること」が暴力的であるという前提の中で視線を向けること、ふだん視線を浴びないところを視線に晒すこと、そういう中で暴力が解体されて許されること、その経験の中で救われること、そういう点での感動や涙だったと個人的には思う。

 

家でご飯をたべながら、今日出演していた踊り子さんのキャスを聞いた。実名のアカウントであることとかどうでもよくなって、今日の感想をコメントした。

そのあとは梅酒とアイスで部屋を暗くして、人と電話をした。ふるい信頼する友だちはみんな、私がこうであっても(こうだからこそ、ではなく)付き合ってくれているということだから、無遠慮にふるまうことをゆるしてくれる。いつものごとく夜明けまで話して部屋が少しずつ明るくなっていくなかで眠った。

0408

ここ3日ほど、何時に寝ようが5時半前に目が覚めてしまう、これはたぶん朝日の明るさのせいだな、と思って、今日は二度寝をやめてみた。ふとんにくるまったまま読書をし、洗濯をし、ゆっくりPC作業をしたり朝ごはんを作って食べたりして、掃除機までかけてもまだ時間があった。時間があれば、ふだんできないことまで手を出せる、棚の上を拭いたり、爪の先を塗ったりとかそういうこと!これだけいろいろしたからもう昼過ぎかななんて思えばまだ9時台だったりするのは、めちゃくちゃ心の余裕につながる。なにより、朝のいちばん新鮮できらきらの陽射しがある時間帯に、ゆったりだらだら過ごせるのは、なんて贅沢なことか!なにか罰のように早起きがあるんじゃなくて、さいしょのご褒美として早起きの時間があるとしたら、そんなに素敵なことはないね、

掃除機をしたあと、なんだか部屋が整然となる感じがすき。

こんなに充実している日ですら、用事と用事の間で走ったり、オンライン授業のさいしょと終わりを電車の中で受けたり、辻褄のあわないところをちょっとずつ詰めながら過ごしている。語学のガイダンスが想像以上に早く終わり、新しい学食をためしたり教科書を買ったりしようとしたが、財布を忘れたのでただ無駄に校舎をうろつくしかなかった。

副科で歌のレッスンをとってみたのだけど、1対1の逃げ場のない感じ、緊張とか照れとか躊躇をすることが逆に失礼になり、ただ、たとえできなくても、「やりなさい」と強制される環境、がすごくよかった。デカくて響く声を出していいんだ、むしろ出さなくちゃいけないのだ、という意識は、なぜか安堵の感情を引き起こした。幼稚園とか小学生とかそれぐらいのときから、ずっと目立たないように注目を浴びないように隠れる仕草がデフォルトになっていた気がして、そういう姿勢は表現にとって邪魔でしかないから、こういう小さな経験を積み重ねることで振り払っていきたい。先生は場の空気を引き締めるきびしさをもちながらも、あたたかく明るい印象だった。何より私は自分の声をすごくコンプレックスに思っているから、発声練習のときに先生が何気なく「いー声してんねっ!」と言ってくれるだけで、とてもとても、救われた気持ちになる。

 

授業をききながら家でパスタを茹でで食べ、電話でLiSAのCDを予約した。こんどは財布を持ってから、展示を見にでかけた。

去年の、ゼミの苦しみ以外の生活の部分が「免許取得とねこ」しかなかったシンプルな日々、あれはあれでよかったが、もうさすがに耐えられないから、「どこにも行かない」以外の方法をちゃんと考えて実践したい。都現美の展示は人気がありそうだから、平日の昼間に見るとか。

ものを見るとき、なにか正解があるような気がしてしまうけど、やっぱり自分の感覚がすべてで、自分の体験ありきで他人の解釈と戦わすべき。

企画展示3つすべてまわったけれど、各作家の制作への態度みたいなものがどれも違っていて、そういう点でもすごく面白かった、すべてを同時に体験することで、その振れ幅ぶんの視野を忘れずにいられた、というか。

ライゾマの展示は、単純に「なんかスゲーーーー!新時代キタ!!て感じする!!!」みたいな頭の悪いワクワクが湧き上がってきて、でもあの感覚をみんな共有している気がする、先生が光るものとデカい音が好きなのも、たんなる趣味趣向というだけじゃなくて、ある程度共有された時代のセンス、ニュアンス、みたいな価値観なのかもしれない。

マーク・マンダースの展示は予想外にいちばんおもしろくて、たいせつな感覚になった。キャプションは難しかったが、物語性を内包した彫刻、物を使って物語を書く、そうすることでフィクションを現実に立ち上げる(物体というのは嘘偽りのない現実だ)、それはさながら建築のような行為でもある、というようなことを言っている気がした。だいたいの作品、ひとめみたときに、ひやり、というか、ぞくっ、というか、心に嫌な感じの衝撃が走る。これはおそらく物語の重みのようなもの。造形作品は物体であって、それは瞬間的に目に入るから、その目に入った瞬間一点のインパクトが、ものすごい破壊力をもって迫ってくる。本来なら演劇や音楽の引き伸ばされた時間の中で得るべきパワーが、一点攻撃で降ってくる、そういう力にいちいちやられて、体力を消費した気がする。

無料でやっていた下道基行さんのアートプロジェクトと風間サチコさんの版画作品の展示も、作家そのもののスタンスや思考を辿れるようなキュレーションになっていたので、めちゃくちゃ得るものがあった、個人的なことばかりだから、きちんと自分だけが見れるところにメモしておく。

 

帰宅前に駅の近くの会費の安いジムに寄って、契約をしてきた。手続きだけでもやたら余分に時間がかかってしまった。スタッフさんはぼうっと仕事をしていて、わたしはずっとかえりたいなーと考えていた。

 

家についてからは、ライブ配信を見ながらすこし酒を飲んだり、LiSAのラジオで新曲をききながらボロボロと泣いたりした。LiSAは本当に、生き様が正直で、偶像を纏ったり職人に徹したりといった逃げ道を作って「自分自身」から降りる、みたいなことを決してしない、だから好き。

0407

今日は、起きてすぐ音楽をかけれたのがよかった。ふとんにくるまって本を読んだ。4.5限が対面だから3限を学校で受けようとしていたけど、けっきょく食事をしながら家でゆったりオンライン授業を受けた。食事が苦手ですごくゆっくりだから、ちょっとの量でも4.50分も生活を浸食してくる。きのうもそうだったな、わたしがデザートのアイスを3分の1たべるあいだに、男の子たちはばくばくと大きなかたまりを掘削し、なんでもないことのようにそれを溶かし、あっという間に白いとろとろの水たまりにしてしまった。そのストライドの大きさみたいなのを、いつも、羨むというほどでもなく、ただめずらしく見ている。しかしオンライン授業をききながらのごはんは毎度、美味しくないな。昨日は寒すぎて学校でずっと震えていたからヒートテック着てセーター着て薄手のコートまで羽織って、ひざかけまで持って出たけどぜんぜんぽかぽかあったかかった、いつもミスする!

新しい担当教員の生徒たちがみんな集まる授業に出た。なにもスクリーンに映し出していないときからずっと黒いカーテンを閉ざして真っ暗がりにしていた、悪の秘密結社かなにかみたいに。これはぜったいに、先生が黒い服ばかり着ていることと関係がある。先生は身内ばかりの授業だからかごきげんに小ボケを挟んだりしていて、たのしそうでなによりだった。そんな先生を中心に留学生たちも含めて謎のノリが発生していて、わたしには何が何やらさっぱりわからなかった。いろいろなメディアアートの映像を見せてくれるよいインプットの時間だったのだけど、それをいくつか見るうちに、真っ暗の部屋を好む理由がわかってしまった。たぶん、光るアートが好きだからだ!光らせるためには、暗闇のブラックボックスが必要なんだ、光を素材にしたい人にとって、デフォルトつまり白紙のキャンバスは黒の闇、ということ!

5限の講義は先生のしゃべりかたがゆっくりで、それに乗っかっていると思考が止まりねむってしまいそうだったので、なにか考えるつづけるためにノートをとっていた。みんな平気なかおでパソコンを開きっぱなしにしているけれど、パソコンの画面には思考の動きがリアルタイムに反映されているわけで、わたしにとってはそんなものが見える状態になっているのはすごく恥ずかしく落ち着かないから、いつも画面の明るさを1にしてにして抱え込むように構えて、防衛の姿勢をとってしまう。ノートの中身が見えるようになっている状態そのものが、腹の中を見せていると同じなので、スースーした感覚で居心地が悪い。いや、書き終わったものを見せるのは大丈夫なのに、今現在の思考の過程が見えるのがいやなのかもしれない?わたしはウィンドウが5出るともう頭が混乱してわけがわからなくなるので、しょっちゅうデスクトップを片付けているのだけど、それがまた「見抜かれやすく」なっているようで恥ずかしい、いろんなウィンドウが出ていてPCの画面が汚いことは、思考のパネルを複雑にしてわかりにくくすることに見えるから、ただ自然に思うままにやってそのようになっているひとがまぶしくみえると言ってもさほど大袈裟ではない、

今日はインプットしては頭の中で喋っていることを全部パソコンに打ち込んでログをつける、ばかりやっていて、それだけでなにかひとつ仕事をした気になっている。

本が家に届いているはずなので、ささっと家に帰り、洗濯を回し、いったん腹ごしらえをし、週末の予定を立てたり音楽をきいたり買いたい本や機材やソフトなどあれこれ調べ物をしていたらすぐ夜中になった。腹が減っていると行動がものすごく粗野になる。今はまだ余裕があるのできちんと生活を回せているな、