教習所で大学の勉強をするのめちゃくちゃ捗る。
おいしい天丼を食べた。
富津にも海に行ってる県外ナンバーの車がたくさんあって、テレビのニュースでも都内みんな出歩いていて、日常めいていて困惑してる。
遠くに行きたいな、密室のまま遠出できるように早く車に乗れるようになりたい。
無線教習で初めてひとりで車に乗った。「発進の合図出しましょう」が「安全バーを下げてください」のように聞こえて、ジェットコースターよりも全然わくわくした。
こわい教官が隣に乗ってると、何を言われるか終始ビクついてしまうし、失敗したくないから全部指示を仰いでしまいがちだから、ひとりで全部やらざるを得ない状況のほうがかえって自分で落ち着いて試行錯誤して感覚が掴めた。運転って楽しいかもしれない!
これまで親の運転する車に乗る時は単に「輸送されてる」みたいな感覚だったけど、自分で運転するとなると道路の見え方がぜんぜん違う。ひとりぐらしを始めたときにも思ったけど、生活の解像度が上がる。
道順はレシピとはどうやら違うみたい、目的地と方角があって、道路がどう敷かれているかということがあって、それにどう乗っかっていくかという経路の問題がある。
「目的地に行くためにやむを得ず進路変更するときは」という文言で、そもそも道というのは基本的にまっすぐ行くものだと知って、ちょっと衝撃だった。
徒歩とか自転車に比べてずっと、道というものに拘束される。
逆に言えば、いままで道がなんたるかをなんにも理解してなかった。道という意識がなくて、自由に動き回れる平地が区画されたものという感じに認識してた、だからあんなに道を覚えるのが苦手だったんだろうな。
右折と左折だって右に曲がるか左に曲がるかの違いだと思ってたし、カーブと右左折も仲間のように思ってた、でもそれはぜんぶ車だと全然違う感覚と動作だったんだね、
歩くときに右折とか左折とか思ってしまうようになった
曲がり角なんて卒業式のときくらいしか意識したことなかった
ガラガラの待合室を風が通り抜けて、テレビの野球中継がやっていて、ここ最近でいちばん穏やかな日曜の午後だった。野球以前に野球中継がめちゃくちゃ好き。
夏の夜とか、夏野菜そうめんとか、扇風機とか、網戸のイメージ。
録画してたMステ、ドキドキして緊張しながらLiSAを見た。
今まででいちばん、最高の紅蓮華だった。
今まではテレビだと緊張してるなあって感じで、がんばれ…!って思いながら見てたのに、今回は完全に自分のホームのライブ会場で歌ってるときみたいに最強で無敵だった。私が大好きな、みんなに見てほしい、ライブでのLiSAのまんまだった。
LiSAちゃんの歌は「こう表現したい」っていうのがものすごく伝わってきて、そこに手抜きがないどころか毎回過剰すぎるくらいで、その誠実さ愚直さがたまらなく好き。好きすぎて心がざわつく。
薄い肩も骨の目立つ関節も身体をきちんと着こなしてるんだよな、
最近おばあちゃんからLiSAの動画が送られてくる、それぐらいLiSAがゆうめいになった。
「すごくかっこいいね、テレビで見たけど喋り方もなんかすっごくかわいいね」と言ってた。
紅蓮華だって、大ヒットしてからというもの、自分で紅蓮華を聴こうとして聴くよりも、テレビとかスーパーのBGMとか要するに環境に聞かされることのほうが多くなり、パブリックな存在に変容してしまった、だからもう、もはやLiSAのいち楽曲として認識することができない。特にテレビでは鬼滅の話題が出る度にロゴみたいに記号的に使用される、そういうのってポップスの宿命なんだろうな。
また私は鬼滅の刃を最終話まで履修しているし好きなので、紅蓮華をきいてそこに立ち上がる強さのイメージに、LiSAを見ればいいのか炭治郎を重ねればいいのか混乱するし、そのふたつを頭の中でどう結びつけようか聴く度に戸惑ってしまう、アニソンって難しかったんだな。
毎日地味に傷ついてすり減って摩耗してゆくし、体調がよくないから早く寝る。
つらいとかひとことも言わない方がいいし、つねに無理やり笑顔でいた方がいいってムキムキでサックスできるあのおじさんが言ってたな。
抑圧されてきた女性作曲家が反発して男性的な技法を用いることはひとつの戦略であり政治的態度だが、価値観の再生産に加担することにもなりうる、ってのを読んで、文体に滲んでしまう女性性を消去するのをやめてみようかなと、ちょっと思った
今日はよく動いたから、ベッドと相棒のぬいぐるみとふわふわのタオルの中で、誰にも何にも傷つく必要なく、まもられて眠りたい1びょうでもはやく!