情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0410

飲まず食わずでただ寝て、頭と体の充電をした。

小さい頃もっぱら哲学ばかりやっていたのは、わたしのまわりになんのコンテンツもなかったからだ、本もテレビもアニメもいつも自分の手元からなくなってしまうもので、「これ」と見定めてそれを解釈し続けられる対象がそこになかった、だから自分の人生を解釈し続けるしかなかったのだということ

なにかやっているときに「気づき」が訪れる、それは今の私にとっては、たとえばこの前みた展示であったり、好きなラジオであったり、そういう何かコンテンツについて考えているから、それに対する気づきになる

しかしフィクションを与えられていない子供にとって、何の時も自分の人生について考え続けざるを得ない

LiSAの好きなところは、フィクションとか技巧とかによって「自分」から逃げること、を決してしないところだ いつでも「自分」を引き受ける強さと欲張りさがある

 

本屋のレシピ本のコーナーも、食品売り場も、眺めているとなんとなく疲れてしまうからやっぱり私は食に関しての興味が 薄いのかもしれない。レシピ、のような考え方って「食材」そのままでは人間の食事にならなくて、それに何某かの加工を加えて「料理」に進化させなければ人間が食べるには値しないのだ、というような価値観におもえてしまって、それがすごく苦手。そのままでは大きくて口に入らないので切り分ける、硬いものや生では食べられないものは火を通す、それに味をつける、そういう原始的なところをベースに考えて行って、そこに文化的歴史的な慣習をくっつけつつ、応用していく、のような捉え方でないとうまく納得してすすんでゆけない。そういうわけでとりあえず思いつくままに野菜を買った。3個入りのトマトのうちひとつをきょう丸かじりした。キャベツは春服のブラウスのようにシャッキリしてさわやかな色合いだった。江國香織さんの食事エッセイの中で幼少期に「ふきすきちゃん」と呼ばれていたことがなんとなく頭をよぎり、ふきなども買ったりしてみた。

帰りに本屋に寄り、食の骨組みを考えるのに参考になりそうな自炊の本も買ってみたりした。それからファッション雑誌も眺めた。女性向けファッション雑誌というのは妙に気恥ずかしくてレジに持っていくのを躊躇ってしまう変な傾向がわたしにはあるし、雑誌の付録を使うのはその雑誌を読んでいることと付録を日常使いしていることがいっぺんにバレてしまい恥ずかしい!という価値観をもうすでに小学生の頃には持っていたことを思い出す。でもほんとうは、雑誌の文化に憧れもある。広告が集まった媒体でありながら、服や靴やコスメだけじゃなくて、本や映画や哲学やライフスタイルも混ぜ込んで提案する、そしてそれをえらびとり内面化しまわりに人が集まっていって、そこにひとつの文化ができる。それの一連のすべてがすごくいいなぁっと思う。ファッションてそういうことだから。少なくとも、モテの極意だとかアースカラーばかりの色味だとかで紙面が埋め尽くされているのはイヤなので、とりあえずSUPRを買ってみた。モード系雑誌というのか。いちばん表紙が変で、好きだったから。