帰省をするたびに、生き返る!という気持ちと死んでしまう!という気持ちでいっぱいになる。
他人の生活のサイクルに乗っかることができる心地よさがあり、仲よしのねこの近くで暮らせる悦びがあり、土や草の濃い匂いは幼少期からのあらゆる瞬間の延長線上に現在のあることを絶えず思い出させる。
しかし何をしていてもしていなくても、誰かの娘であり、姉であり、孫であり、姪である存在としての自分でしかいられなくなり、できるだけ彼らにとって良い娘であり、姉であり、孫であり、姪であろう、あらねばならないと思い込み、そう望ましく在れない現実に焦り、主体、個人としての私、独立した人格は失われる。
実家には落ち着いてものを考えられる自室がなく、何をしている時でも誰かに話しかけられれば一旦自分の時間を中断して対応しなければならない、しかしそれは私が「交渉」を怠ってきたからなのでは?と思い至り、今回の帰省はその改善の回とした。
例えば「締切」という単語を使うととても便利。客観的な正当性を以てこちらの都合の優先度を上げられるし、それはちゃんと相手にも受け取ってもらえる。
焦らず自分の状況を把握してこちらの要求を整理し、適切な形で相手に伝える、これは自立のために必要なことだ。
家に帰ると、私は家族から本当に何もできない子どものように思われている。思われている、というのは本当は間違いで、かつて保護者であった人たちがそう思いたがっているような内心の要求を感じ取る。
ブラックコーヒーが飲めず、まだ身長が伸びると信じられている。
こういうことの積み重ねによって、力を奪われるような感覚がある。
大晦日の夜にすることは、毎年決まっている。
夜ごろ祖母の家に集まって蕎麦を食べて、適当に紅白かなんかを見て、23時ごろをまわったら車で近所の山を登って、初詣に行く。
男たちに混じってこたつで年越し蕎麦を食べた。
女たちは台所で食べていた。
これもまた確実に生きている家父長性。
私は親族の中の女ではなく子供、娘、の位置なので被保護者に当たり、ケアされる側となぜか全員から見做されているので、仕事をしなくていいことになっていて、それと良いとは全く思わない
みんなで集まってこたつを囲み、年越し蕎麦やおせちを食べる、などの儀式をここ数年、全員おざなりにやるようになってきた。伝統の崩壊を感じる。
そもそもこういった行事みたいなものを維持するためのエネルギー、モチベーションは誰のどこから湧いているものなんだろう、
どういう力学が働いて維持されている?
祖父の存在は相変わらず奇妙。父の家系の親戚たちは、喜怒哀楽でいうと怒と哀の人が多いのだが、祖父の放つ圧倒的な「楽」は不気味に見える。
除夜の鐘をついた。
74打目だったらしい、108の煩悩には一応それぞれ順番がついているので、払った煩悩は「無色界集諦邪見」、「自分の行いが自分に返ってくることを信じない心」という意味。
おみくじにも「他人の悪いところを論うな」みたいに書かれていて、あらゆる配慮の足りなさについて親しい人に指摘されたばかりだったから、多少心に突き刺さってしまった。
For meでない映画を見たり、スタンスの合わない本を読んだり、波長の合わない親戚たちと話をしたりする中で、普段「切って捨ててる」ものがあることに気がつく。
「そこは一回もう通り過ぎたところだから」みたいなふうにして、自分の中で「処理済み」になっているから、深く考えなくとも言葉にしなくとも良し、としている部分。これは「交渉の怠り」とも同根の手抜き行為で、人と関わって生きていくことをまだ諦めていない私の新たな課題となった。
エンタメといっても映画を観るしかやることがないので、映画を見ていた。
この帰省中にも映画館で3本観た。
映画は良い。
パッケージされているのが良い。商業的な匂いがするのが良い。特にこだわりや知識がなくてもなんとなくチケットを選べるのが良い。
チケットを取るのに大抵前々からの予約がいらないのが良い。労働者との相性が良い。
多くの人がいっぺんに見られるから良い。場所との結びつきが薄くて、都市と郊外のシネコンで同じ内容のものが見られる可能性があるのが良い。
「映画の感想は、100文字以内か1000文字以上かのいずれかが良い」という仮説が立った。1000文字書かないなら余計なこと書かない方がマシということ。分析か体験のシンプルな記述か。