情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

7月 散歩拾得物

○散歩のときに心にとまった風景やオブジェクトを集め、記録する

○いくつ拾ってもいいし、ひとつも拾わなくてもいい

○無機物も生き物も情景も香りも行為も並列に扱う

○必要な短さ、必要な長さで記録する

○散歩中メモはせず、持ち帰ってから記録する

 

時間:19時ごろ

場所:河川敷

河川敷に降りる階段ごとにつけられたマラソンの着順みたいな旗

あいまいな二度寝色の空

ゴールデンレトリバー2とフリスビー遊びするおばさん

柴犬×3の会合

「マップ外」みたいなとこに突っ立ってるバグみたいなおばさん

眼鏡をかけてないせいですべてがあいまいになっている人間たち

 

時間:17時ごろ

場所:河川敷

夕日に照らされたきらきらのトロンボーン

ミューミューと甲高くなく仔猫の声

遠くからうっすら風が運んでくる、トランペットのジブリメドレー

檻の中に閉じ込められ斜面に接している大人ねこ

父と子の野球練習

6月 散歩拾得物

○散歩のときに心にとまった風景やオブジェクトを集め、記録する

○いくつ拾ってもいいし、ひとつも拾わなくてもいい

○無機物も生き物も情景も香りも行為も並列に扱う

○必要な短さ、必要な長さで記録する

○散歩中メモはせず、持ち帰ってから記録する

 

時間:19時ごろ

場所:荒川

まるい月

雨上がりの濃密な青のにおいと透明なつめたさ

 

時間:昼どき

場所:南千住

気持ちわるいぐらいデカい紫陽花

やよい軒アカモクメニュー

変なラーメン屋にできた行列

ピン!とした細い犬に与えられたチーズ

祭り男たちの「お疲れ様でぃす」

自転車かごに干されたもじゃもじゃのマット

古い家の2階の窓から流れるガサガサの音質の競馬中継

階段を縦に割る赤と青の境界線を歩くこと

 

場所:近所の川辺

きいろい月の雲隠れ

白いタイル壁の照り

その中央の四角い明かり

にせものの炎のガーデンライト

疑似三日月

雲の破れ目

夜風に運ばれてやってきた香水のかおり、桃と栗のような

夜のためだけにあるような黒い車たちのかがやき

排水溝の裂け目から顔を出した草

身長と同じ値のレギュラーガソリンの値段

お兄さんの背中のでっかいハンモックみたいな鞄

灯りのついた26個の窓

 

 

時間:22時頃

場所:近所の住宅街

もこもこのショートパンツ

電柱の根元に集められた尖った小石たち

卸売センターの車が0台の駐車場

薄茶けたドコモショップの看板

閉店後にとりのこされた食堂のにおい

道路と斜めに交わる高架

その高架沿いに不気味なほど直線に並ぶ白いあかり

 

時間:19時半ごろ

場所:近所の河川敷

向こう岸のビルを覆う低く厚く暗い雲

その雲の向こうで時折天啓を受けたように白く輝く塔の先端

心臓と脚に心地よい負荷を与えるゆるやかな坂(5往復ぐらいした)

煮物の匂いの古いアパート

2022年末2023年始の日記

帰省をするたびに、生き返る!という気持ちと死んでしまう!という気持ちでいっぱいになる。

他人の生活のサイクルに乗っかることができる心地よさがあり、仲よしのねこの近くで暮らせる悦びがあり、土や草の濃い匂いは幼少期からのあらゆる瞬間の延長線上に現在のあることを絶えず思い出させる。

しかし何をしていてもしていなくても、誰かの娘であり、姉であり、孫であり、姪である存在としての自分でしかいられなくなり、できるだけ彼らにとって良い娘であり、姉であり、孫であり、姪であろう、あらねばならないと思い込み、そう望ましく在れない現実に焦り、主体、個人としての私、独立した人格は失われる。

実家には落ち着いてものを考えられる自室がなく、何をしている時でも誰かに話しかけられれば一旦自分の時間を中断して対応しなければならない、しかしそれは私が「交渉」を怠ってきたからなのでは?と思い至り、今回の帰省はその改善の回とした。

例えば「締切」という単語を使うととても便利。客観的な正当性を以てこちらの都合の優先度を上げられるし、それはちゃんと相手にも受け取ってもらえる。

焦らず自分の状況を把握してこちらの要求を整理し、適切な形で相手に伝える、これは自立のために必要なことだ。

 

家に帰ると、私は家族から本当に何もできない子どものように思われている。思われている、というのは本当は間違いで、かつて保護者であった人たちがそう思いたがっているような内心の要求を感じ取る。

ブラックコーヒーが飲めず、まだ身長が伸びると信じられている。

こういうことの積み重ねによって、力を奪われるような感覚がある。

 

晦日の夜にすることは、毎年決まっている。

夜ごろ祖母の家に集まって蕎麦を食べて、適当に紅白かなんかを見て、23時ごろをまわったら車で近所の山を登って、初詣に行く。

男たちに混じってこたつで年越し蕎麦を食べた。

女たちは台所で食べていた。

これもまた確実に生きている家父長性。

私は親族の中の女ではなく子供、娘、の位置なので被保護者に当たり、ケアされる側となぜか全員から見做されているので、仕事をしなくていいことになっていて、それと良いとは全く思わない

 

みんなで集まってこたつを囲み、年越し蕎麦やおせちを食べる、などの儀式をここ数年、全員おざなりにやるようになってきた。伝統の崩壊を感じる。

そもそもこういった行事みたいなものを維持するためのエネルギー、モチベーションは誰のどこから湧いているものなんだろう、

どういう力学が働いて維持されている?

 

祖父の存在は相変わらず奇妙。父の家系の親戚たちは、喜怒哀楽でいうと怒と哀の人が多いのだが、祖父の放つ圧倒的な「楽」は不気味に見える。

 

除夜の鐘をついた。

74打目だったらしい、108の煩悩には一応それぞれ順番がついているので、払った煩悩は「無色界集諦邪見」、「自分の行いが自分に返ってくることを信じない心」という意味。

おみくじにも「他人の悪いところを論うな」みたいに書かれていて、あらゆる配慮の足りなさについて親しい人に指摘されたばかりだったから、多少心に突き刺さってしまった。

 

For meでない映画を見たり、スタンスの合わない本を読んだり、波長の合わない親戚たちと話をしたりする中で、普段「切って捨ててる」ものがあることに気がつく。

「そこは一回もう通り過ぎたところだから」みたいなふうにして、自分の中で「処理済み」になっているから、深く考えなくとも言葉にしなくとも良し、としている部分。これは「交渉の怠り」とも同根の手抜き行為で、人と関わって生きていくことをまだ諦めていない私の新たな課題となった。

 

エンタメといっても映画を観るしかやることがないので、映画を見ていた。

この帰省中にも映画館で3本観た。

映画は良い。

パッケージされているのが良い。商業的な匂いがするのが良い。特にこだわりや知識がなくてもなんとなくチケットを選べるのが良い。

チケットを取るのに大抵前々からの予約がいらないのが良い。労働者との相性が良い。

多くの人がいっぺんに見られるから良い。場所との結びつきが薄くて、都市と郊外のシネコンで同じ内容のものが見られる可能性があるのが良い。

 

「映画の感想は、100文字以内か1000文字以上かのいずれかが良い」という仮説が立った。1000文字書かないなら余計なこと書かない方がマシということ。分析か体験のシンプルな記述か。

221107

ずっとまともに寝れていない、睡眠を始めると3時間で起きてしまうし、かといってそれですぐに活動できるわけでもなく、寝てもいなければ起きてもいないような状態でただ横になっていることしかできないこともある

前回の眠りから、生活を蓄積していく中で、頭の中にゴミみたいなのがどんどん溜まっていく、それが散らかりすぎるともう収集がつかなくなり、無駄な行動や不適切な判断につながる

 

肌や唇がぼろぼろになるし、全身の筋肉がかたまって、声がかすかす

 

ホールで体を動かしてピアノや機材を運んでセッティングした時はものすごく進んだ気がした、それに対して、パソコンの前に座って3000個とか音符を並べた時は全然何も進んでいないような気持ちになる

 

うまくいっている時の自分の身体の形や動き方の一瞬みたいなものをよく覚えておいて、それを反芻する、という必要がある

221029

LiSAは表に出る仕事をしない日は大抵メイクをしないと前から話していて、これはNetflixのドキュメンタリーを見ても明らかなこと

「いつでも顔を洗ってすっきりできるし、おすすめ!」と言っていたはず

このこともLiSAの機動力に繋がっているはずだけど、私は鈍重な身体を引きずって生きるしかない、

机に向かって作業するときにストレスで顔を掻きむしってしまうのを封じるために最低でもきちんとベースメイクをしなくちゃいけない

 

欲望に流されずに善く生きること、それはそう決めなければそうはならないから、そう決めるためにみんな必死

 

自分の力量、かかる時間を正しく見積もれるように

 

常に立たされている、問題はそのことに気付けるかどうか

221027

夢の中で人と会ったり曲を作ったりごはんを作ったりしていたから、もう一周は生きた気でいた、

 

予習をして軽いごはんを食べてオンライン授業に出て宅配便で荷物を受け取った。

第二外国語の授業は、買わされる教科書とは別に本屋で平易な参考書を買うと良いとか、さすがにわかってきている

本屋で売れているテキストは平易さとビジュアルのわかりやすさに全振りしたものが多くて、初歩的な情報が紙面から見つけやすいし、単純に全体の構成の文脈とかがひとつ増えるだけで理解度が違ってくる。

 

一生かけて勉強を続けようと思っている分野のひとつである女性音楽史の本を読んでいたけれど、「スピリチュアリティが原始的な音楽と女性性を強調したフェミニズムを結びつける」みたいなジャンルの言説があるみたいだな、

その文脈で「偉大な音楽は、常に宗教に根ざしている(宗教を、人間を超える力や宇宙の神秘に向き合う姿勢と見るならば)。」という記述があり、色々と合点がいく。

 

自分は歌が上手くないから、異様に歌いやすい僅かな歌のことを分析することで、メロディの作り方について考えることができる

 

鳥瞰的な観点から物事を見たり物事を体系的に捉えることこそ学問なのだろうけど、自分の体験に根ざした虫瞰的な知識ばかりが先立ってしまう。鳥瞰的な視座から意見をくれる友人との会話は刺激的で学びが多く、これは良いことだけど、そういう人の前では虫瞰的な自分の考えは取るに足りないことに思えて口を噤んでしまう、こちらは不健全なこと。

 

硬く冷たい空間と、柔らかく暖かい空間を往復する毎日だ、

 

最近は毎日、お風呂に浸かりながら『才女の運命』を2章ずつ読み進めている。これは「歴史上の偉人たちの妻で、彼女自身も学問や芸術の才能を持っていたにもかかわらず、様々な事情によって挫折を味わったり歴史上の記述から抹消される運命を辿った女性たち10人の伝記」なのだけど、本当に苦しくてギャーギャー声出しながら何度も本を閉じる。

弱く生まれついたものが、人や世界を恨まずにいることはとても難しい!

創作された物語ではなく、現実をしるした歴史の本からしか得られない栄養がある。

今日だって私は、2回洗濯を回しながら、音楽を作ったり創造的な仕事をすることができる、そのことを幸せに思わなくちゃ、とか思うと制作の気合も入るもの。

 

才能ある女性彫刻家であるにもかかわらず、「同じく才能のある男性の側にいた女性」であったために創造的な自立と独立した評価を奪われたカミーユ・クローデル、彼女がロダンの愛人という立場を失った後の悲惨な境遇を踏まえると、愛人という立場の脆弱性のことを思わずにはいられない。

現代にも「10年付き合った男に別の正妻がいて、その影響で仕事も失った女性」がいるようだけど、その立場の弱さ、彼女に向けられる理不尽に厳しい眼差し、「25~35歳という女にとって一番大切で特別な時期」などという言葉、そういうことがぜんぶ繋がって暗澹たる気持ちに。

紙の本は、抱きしめることができるのが良い。

 

みかんを食べた。あまりにも冬の味。

毎日、ゲームをしたいなと思ってるけど、ゲーム以外にすることがたくさんあって手が回らない。ツイッターYouTubeを見ていると他人のスプラトゥーンプレイ動画が必ず流れてきてうずうずするし、何をするでもなくハイラルの野原を駆けまわりたいし、ゲームの中で付き合ってる女の子と結婚したいし、始めたてのゲームの幾つかは、あともう5時間ぐらい遊ぶと面白さの真髄がわかってくる気がするんだけどな

 

221026

生理前・生理中の具合の悪い時期において数少ない効能と感じているのが、遠めの他人と接することがそんなに苦痛ではないマインドセットになること、

 

イヤホンの中にしか救いがないという感覚のことを久々に思い出す、自分の側にいてくれるラジオや音楽だけがあるところ

人が自分の興味の矛先や譲れないこだわりのある方向にそれぞれテントを張って、そこを踏まないようにコミュニケーションをとる、狭い、ユニットバスよりも狭い!

個人の心の中にある世界をそれぞれ保つことが一番大切で、外側の問題は二の次

 

録りためて集めた、馴染みのテレビ番組のストックがいくつかある状態っていうのはいい、

テレビなんてもう全然、友達は誰も見ていなくて、テレビが共通の話題だった頃は終わった、むしろ本や映画の方が感想を共有しやすくて、反対にテレビの話は誰にも伝わらない、つまり誰とも感想を共有する意欲に駆られる必要がないセーフティゾーン、

バラエティ番組の世界にある気楽な会話にほんのちょっとの知的刺激、お仕着せの愉快さ、この軽薄な幸福感を自分だけのものにしておけるのは、けっこういいものだ、

 

シャンプーを戻してやわらか髪になったので、取り扱い方を変える必要が出てきたな、

ごはんを食べてミルクの香りのあったかお風呂に入ったら心が回復してきた。

 

好きな人が表紙だからという理由で買っただけのネイル雑誌の中身を眺めてみた。

ファッション雑誌や生活雑誌とは違って、爪に塗布する液体の種類だけで延々紙面が構成されていて、完全に異常な世界。情報がミクロすぎる。

爪を飾るという行為にあるのは、居心地のよい空間、豊かなライフスタイル、そういったものへのふんわりした普遍的な憧れではなく、もっと偏執的で過剰な欲求。人体がその末端にもつごく狭い空間をつかって行うゲーム。指先に小部屋を設けようというスタイリッシュでない発想が、なかなか良いなと思う。

私自身は、長い爪を装着すれば鍵盤を触りにくいだろうし、裸に近い身体でいないと困ることも多いから、ネイルとは無縁でいようと決めていて、特に関係をもつ予定はないけれど、どんな時も指先にとっておきのキラキラが付いているとしたら、さぞかし素敵だろう