情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

221027

夢の中で人と会ったり曲を作ったりごはんを作ったりしていたから、もう一周は生きた気でいた、

 

予習をして軽いごはんを食べてオンライン授業に出て宅配便で荷物を受け取った。

第二外国語の授業は、買わされる教科書とは別に本屋で平易な参考書を買うと良いとか、さすがにわかってきている

本屋で売れているテキストは平易さとビジュアルのわかりやすさに全振りしたものが多くて、初歩的な情報が紙面から見つけやすいし、単純に全体の構成の文脈とかがひとつ増えるだけで理解度が違ってくる。

 

一生かけて勉強を続けようと思っている分野のひとつである女性音楽史の本を読んでいたけれど、「スピリチュアリティが原始的な音楽と女性性を強調したフェミニズムを結びつける」みたいなジャンルの言説があるみたいだな、

その文脈で「偉大な音楽は、常に宗教に根ざしている(宗教を、人間を超える力や宇宙の神秘に向き合う姿勢と見るならば)。」という記述があり、色々と合点がいく。

 

自分は歌が上手くないから、異様に歌いやすい僅かな歌のことを分析することで、メロディの作り方について考えることができる

 

鳥瞰的な観点から物事を見たり物事を体系的に捉えることこそ学問なのだろうけど、自分の体験に根ざした虫瞰的な知識ばかりが先立ってしまう。鳥瞰的な視座から意見をくれる友人との会話は刺激的で学びが多く、これは良いことだけど、そういう人の前では虫瞰的な自分の考えは取るに足りないことに思えて口を噤んでしまう、こちらは不健全なこと。

 

硬く冷たい空間と、柔らかく暖かい空間を往復する毎日だ、

 

最近は毎日、お風呂に浸かりながら『才女の運命』を2章ずつ読み進めている。これは「歴史上の偉人たちの妻で、彼女自身も学問や芸術の才能を持っていたにもかかわらず、様々な事情によって挫折を味わったり歴史上の記述から抹消される運命を辿った女性たち10人の伝記」なのだけど、本当に苦しくてギャーギャー声出しながら何度も本を閉じる。

弱く生まれついたものが、人や世界を恨まずにいることはとても難しい!

創作された物語ではなく、現実をしるした歴史の本からしか得られない栄養がある。

今日だって私は、2回洗濯を回しながら、音楽を作ったり創造的な仕事をすることができる、そのことを幸せに思わなくちゃ、とか思うと制作の気合も入るもの。

 

才能ある女性彫刻家であるにもかかわらず、「同じく才能のある男性の側にいた女性」であったために創造的な自立と独立した評価を奪われたカミーユ・クローデル、彼女がロダンの愛人という立場を失った後の悲惨な境遇を踏まえると、愛人という立場の脆弱性のことを思わずにはいられない。

現代にも「10年付き合った男に別の正妻がいて、その影響で仕事も失った女性」がいるようだけど、その立場の弱さ、彼女に向けられる理不尽に厳しい眼差し、「25~35歳という女にとって一番大切で特別な時期」などという言葉、そういうことがぜんぶ繋がって暗澹たる気持ちに。

紙の本は、抱きしめることができるのが良い。

 

みかんを食べた。あまりにも冬の味。

毎日、ゲームをしたいなと思ってるけど、ゲーム以外にすることがたくさんあって手が回らない。ツイッターYouTubeを見ていると他人のスプラトゥーンプレイ動画が必ず流れてきてうずうずするし、何をするでもなくハイラルの野原を駆けまわりたいし、ゲームの中で付き合ってる女の子と結婚したいし、始めたてのゲームの幾つかは、あともう5時間ぐらい遊ぶと面白さの真髄がわかってくる気がするんだけどな