情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

7月 メモがき

○コロナに罹患した

急激に体調が悪くなり、「これ、何かの感覚に似てるな……ア!思い出した!コロナワクチンの副反応の感じだ!ということは……?」などと考えているうちにグングン熱が上がり始め、検査を受けたら陽性だった。

最近は比較的感染に気をつけていたし、やるべきことはやっていた、と自覚しているから特に後悔もなく、仕方がないなーという思いのみ。ただ仕事のチャンスがある大事な時期だったから、熱に浮かされながらも曲を作っていたが、次第にそうも言ってられなくなり、結局すべて諦めて寝ていることしかできなかったのが心底残念だった。でも気合いの問題じゃない。

熱が出ると、まず鼻の中を通る息、空気があつい。尿もあたたかい。重心が上半身に寄って、でもその周りを支える筋肉がまるっきり弛緩しているみたいになって、ぐでっと倒れてしまいそうになる。そして発熱は音楽を聴くことと相性がよく、酩酊状態のように揺れで世界のすべてを飲み込む。

療養期間が始まることが確定してから、アイスやらポカリやらをコンビニでたくさん買って帰った。ティッシュ、ゴミ袋、ペットボトル、体温計など重要なものをベッド脇に揃え、部屋を療養仕様にする。異常が起こり続けている体内の感覚に意識を向けるだけで、絶えず情報が入力され続け、それを処理するだけで発見の連続。など、わりと非日常を楽しんでいた。

熱があると、生野菜とか、水とか、ポカリスエットがとんでもなく美味しい。身体に染み渡る。ポカリはやわらかい味がして、アクエリアスはそれより硬く、名前通りの印象であることにも気づいた。インスタント粥のような偽物のご飯を食べ続け、ひさびさに自分で炊いた米や味噌汁を食べられた時も、粗末ながら感動するほどの美味しさだった。

結局、処方されたカロナールは全然効かず、イブで熱を無理やり下げながらも38度ぐらいの熱は4日ほど続き、ゆるやかに下がった。唾液を飲み込むたびに喉元を⭐︎マークが通過していくような咽頭痛は5日ほど、鼻詰まりの症状は1週間ぐらい。基本的に私はいくら寝ても永遠に寝ることができるが、さすがに寝床を視界に入れるだけで嫌になってくるほど、ベッドの中で過ごした。

横になっていることしかできない間は、ずっと面倒くさくて手をつけていなかったゲーム(FF12のこと、システムが本当に面倒くさくて病気でもなければあんなのやってられない)をさわっていた。ポンコツプログラミングを組んでオートで戦わせる謎の戦闘システム、愛だの恋だの言わないで立場や責任の話をし続ける、国同士の権力争いを核としたひたすら血生臭く複雑なストーリー、屈託なしにキャッチーで強いメロディを冠した音楽、どこに行ってもやけに暗いマップ、挙動のおかしい4倍速モード、いつまでも慣れない主人公声優の独特な演技など、ややとっつきにくいながら面白いゲームで、愛すべき時間だった。

高熱でふらふらになりながら食糧の買い出しに出かけさせてもらった時、駅前で明るい流れ星を見た。綺麗だったなー

 

後遺症もなかったのは幸いなのだけど、直近に積み上げた習慣のすべてが崩落してしまい、復帰に時間がかかっているのが痛い。

仕事をしまくらなければ仕事を得られる未来も遠い、そういう厳しい現実について思う時いつも、『スロウハイツの神様』に出てくるかっこいい女の「世界と繋がりたいのなら、自分の力でそれを実現させなさい」という言葉を思い出す。これは、前半も後半もその接続も、全くその通りで、この厳しく説教臭い優しさに何度尻を叩かれているかわからない。繋がりの希薄な不安定な立場の中で恐怖に溺れそうになっても、そこから抜け出すにはとにかく自分の力で掴むしか助かる方法がないし、自分の力を正しく使えないなら世界など見つめていても意味がない。

 

何かを作るためには、生活の忙しさに流されてしまう状態の楽さに甘んじずに、何かを作るための特別な時空間の区画を設ける必要がある。この、区画へのアプローチ!

 

 

○日雇い賃労働というミニゲーム

アルバイト応募先からしばらく連絡が途絶えていたため、いわゆる単発バイトマッチングアプリと呼ばれるものを使って、何度か日雇い労働に入らざるを得なかった。行ってみるまでどんな現場かわからないため、ギャンブル的なスリルとストレスが味わえる(このいらぬ緊張感は日常生活を営む上で明らかに非効率だ)。しかし誰にでもできるような非属人的な作業をその時間だけこなして、何の人間関係もつくることなく、終業すれば直ちに無関係な個人に戻れる、という点では、心理的な侵食を受けることのない自由さがあった。

アプリを使うと1分で今日明日にでも労働の予定を入れられる、ということの効果が存外大きく、どうしても作業が捗らない時にアプリを開き「あんまりダラダラしているようなら日雇いバイト入れちまうぞ」と自分に対して脅すことで、急に身体が緊張しだし、なんとか作業机に向かうことができる。

こうしている今も「自分が今なんとなく使っている時間はいつでも金に変えることができるのだ」という資本主義に絡め取られまくった嫌〜な意識を持ち続けることで、なんとか時間の価値が最低賃金を下回らないようにしている。貧しいことである。

アプリの設計は結構気持ち悪い。雇用者と労働者が互いを評価するシステムがあるため、自分の1日の働きぶりにいちいち評価がつけられたり、その成果に応じて受けられる仕事が変わったりする。求人に応募する時には、持ち物の確認などと一緒に「はきはき喋れる」「元気がある」などの項目にチェックを入れる必要があり、そういった人格の条件を満たしていると自己申告した以上、そう振る舞わなければならないようなプレッシャーを感じる、ような仕組みになっている。ただのビル清掃に「見た目にとても気を遣っている方」なんて条件で募集する必要があるのか?(その時給で?)と疑問に思うような求人もある。

いや、意図はわかる。私がそうであるように、労働者側だって未知の職場からどんな仕打ちを受けるかわからず恐怖している。それと同じで、雇用者側も忙しい中でわざわざ投入した追加人員がとんでもない奴だったら困っちゃうなと思っているわけで、「一般的に期待される労働者像の外れ値」みたいな人間を弾く目的で、高めのハードルを課さざるを得ないってことでしょう。とはいえ、たった1日のわずかな時間分の賃金しか保証してくれないくせに、なんで靴下の色から人格に至るまで指定されなくちゃいけないのかしら、と思わないでもない。

 

日雇い労働の仕事というのは、物を運んだり分けたり並べたり任意のタイミングで挨拶を発したり、(こういうことは言うべきではないが)要するに「誰にでもできるような仕事」と言えるものである場合が多い。教育や特別な知識を必要としない業務内容を、いつでも替えがきく労働力として遂行する。組織の人ではないので意思決定などの余地も一切なく、社員かパートの人の指示に従う動きだけをする。ちょっとしたルールを最初に覚えて、ひたすらそれを反復する、ミニゲームのようなもの。

この労働の場においては、私たちはただ「人手」としてのみ必要とされている。個々の人間が個々の人間であることとか、それぞれの人間の内心とか、「その人なりにできること」(いわゆるスキルと呼ばれるもの?)とか、は一切問われることがない。私が持つもののうち、ただ時間と手間にのみ金が支払われている。

こんだけのことをするために、予め決まったことの遂行のために、人力によるちょっとした作業が、確かに必要なのだなーー、みたいな当たり前のことを思う。そして、自我を放棄してミニゲームに興じる行為には、特有の強力な快感がある。人に使われてひたすら作業をこなしている時間の経ち方には、一切の無駄もない。

一方で、「なーーーーんでこんなことやんなきゃいけないんだ???ずっとこんなことはやってられない、絶対に本業をがんばろう」と思うために、わざわざ率先してこの種の労働をに身を投じるようなところもある。労働と仕事という言葉は確かに違うのだと思う。

 

 

○自転車の空気ってヤバすぎる

信じられないことだが、これまで自転車のメンテナンスを平均半年に1回ぐらいしかしたことがなかった、と思う。

日雇い労働先に行くために久々に自転車に乗ったものの、いくら漕いでも全然進まない。どんな人よりも私よりも速く、軽々と自転車を漕いでいく。老人も、お母さんも、若いのも。25分で着くはずの道を走行するのに40分かかり、また40分走った時よりも遥かに身体が疲れている。どう考えてもおかしい。

この自転車か、私の身体構造か、私の身体の使い方か、このどれかに問題があるはずだ。大体、道ゆく自転車の人たちは、何漕ぎかしてしばらく漕ぐ足をとめ、スーと滑るだけの時間があったりする。あんな真似をしたら、自転車が数秒で徒歩ぐらいの速度になり、止まってしまいそうになるではないか、ならないのか?というかタイヤが一回転ごとにガタンガタンと音を立てている、絶対におかしい早く早く早く自転車屋に行かなければ......

という次第で街の優しい自転車屋に助けを求めると、空気が抜けすぎた状態で無理に走行し続けたせいか、タイヤのチューブが寄ってしまっているという話だった。後からわかったことだが父が勝手に強化タイヤに交換していた事情もあり、空気が抜けているのが分かりにくいらしい。

800円ほど払ってタイヤの状態を直してもらって新たに空気を入れると、一漕ぎで訳がわからないぐらい進んだ。商店街で小叫びしそうになった。私が今まで自転車だと思っていた乗り物は何だったのか。私が今まで自転車が苦手なのだと思っていたのは何だったのか。私はこれまで一度も、自転車という乗り物の本当のありようを知らなかった!

 

 

SNSの使い方を再考すべき

ことに最近どんどん気持ち悪くなっているツイッターは、あまり使うべきではない。

何も投稿をしなければしないほど、SNSから離れられるというのは本当だと思う。一度何か投稿をしてしまうと「いいね」等の反応がついたかどうかという不確かな情報を確かめたい欲求を刺激してしまうらしい。(社会生活を営んできた人間は、集団から逸れる=脅威に晒されるのではないかという恐怖を本能的に想起するため、自分の発信する情報が他者に好意的に受け止められたかどうか確かめようとしてしまうのだ、などといった説が本になっていた)

だいたいインターネットで目的なくだらだらと情報を得ようとしてしまうのは、周囲の環境を理解しようとつとめる人間の生存戦略を利用して、依存度の高いデジタルコンテンツが設計されているからであって、それにまんま踊らされるような生活設計であっていいのか?

SNSを開く→仕事をしたり食事をしたり人と会ったりする→SNSを開く、この再びSNSを開いた時に、「帰ってきた」感覚を抱いてしまうとしたら、それは良くない状態に陥っている。オンラインは常に外出であって帰還ではないからだ。

自分が発した情報に対して、SNSの速度でレスポンスが返ってくることに慣れてしまう可能性があるのも怖い。練って、溜めて、時間をかけてしか大抵のものは作れないので、報酬系を壊すべきではない、

 

 

 

 

・メッセージツールの返信をストレスなく行えるようになりたいという問題を長く抱えているが、これについては完全に仮説が立ちつつある。メッセージの返信が苦手なのは、文章作成の際に必要以上に感情の出力を行っているからではないか。自室にいて自分だけの時間の流れを作っている中で、まるで対人環境のような感情出力(+感情の誇張表現)を強いられる(強いてしまう)のが苦痛で、避けてしまうのではないか。この感情出力を減じるには?

 

・まだまだ人格の修行が足りないので、「曲が女っぽくない、むしろ男っぽい」と言われると喜んでしまう

それとは別に男っぽいとか女っぽいとかじゃなく、子供っぽいという在り方があるはずだ

 

・水星の魔女はまだ一期すら見終わってないが、ミオリネさんは顔がかわいいし高圧的な態度もかわいい。キャラ造形の定石になりつつあるツンツン系、高圧的カテゴリのキャラクターの中でも何かちょっと非凡なかわいさがある。「怒り」の感情がデカかったり不機嫌を隠そうともしない女って謎でよくわかんないからかわいい。

しかし水星の魔女1話って本当にすごかった。めちゃくちゃ家父長制への戦いだったし、めちゃくちゃウテナだった。あの迫力で完璧な1話を見せられたあとは、ちょっと画面を閉じてしばらく深呼吸だけしていたぐらい。あの衝撃を超えてくれるような期待があんまり膨らまないから、続きを見られない。

 

・ひとが愚痴言ってるときって、今ここじゃないときに黙ってひとりで立ち向かってる現実が、前提としてあるわけで、それを軽視したくはないよな

と基本的に思ってはいるが、ツイッターで流れてくることのある、「ゆるふわな絵柄で描かれた職場の特定の人の愚痴エッセイ漫画」がはちゃめちゃ苦手である!

職場の特定の人の愚痴、それそのものは、自分に向けられていようが他人同士の会話であろうが、口頭で聞く分にはなーーんのストレスもないが、それがゆるい絵柄の漫画として出力されると途端にイライラしてくるのは何故なのか。

SNSエッセイ漫画が多数に向かって共感を要請する形式だからかもしれないし、絵柄で人畜無害そうな雰囲気を演出しながら人の悪口いうのって狡くない?と思うからかもしれない

 

・男子学生の集団が女子風呂を盗撮したニュースがあって、これは「普通に悪質な犯罪行為なので擁護の余地がないよね」「女の身体をホモソの肝試しあそびに使うな」みたいな話なんだが、「女の子にとって裸を盗撮されることはどれだけ深く傷つくか」「お前ら男の裸と女の裸の価値は違うんだ」などの方向性の反応も多く見かけた。

私は「裸を盗撮されるのは深く傷つくことなので辞めてほしい」よりは「裸を盗撮したぐらいで、何かを収奪できたように思ったり優位に立ったように錯覚したりするな」の方がデカいので、盗撮含め性犯罪一般がどれだけ被害者に恐怖やトラウマを与える特殊なタイプの犯罪であるかを強調して訴える論法を取りたくない。何も奪えないし、その「遊び」は構造的に破綻しているぞ、という。

そういえば桃鉄の隠し要素で女風呂覗けるようになってる仕様、あれなんだったんだろう。

そもそも日本では、江戸時代後期まで浴場は混浴が通例で、湯を浴びる裸は性的な意味を帯びたものではなかった、というのを最近知った。裸体を隠蔽するからこそ、裸体を価値あるものとしてまなざす様式も生まれる。(出歯)亀だか鰐だか知らないがもう手遅れではあるものの、風呂覗きがゲームのラッキー要素として存在していたりしないほうが良い。

 

・「日本はポルノにモザイクをかけなきゃいけない法律になっているせいで、数々のマニアック過激シチュエーションポルノが発達した、みたいな記述を読んだんだけどこれ本当?無修正ポルノが規制されているのって謎だなと思う。

最近ジャネール・モネイが新曲でクィアでセクシーなMVを出したとき、その性的表現がYouTubeの年齢制限に引っかかり、モザイクつきバージョンのMVが新たに公開されたことがあった。Twitterで「MVの“クリーンでバージンな”バージョンを公開するために、わざわざ手を加えてモザイクを追加する必要があった」と冗談混じりにポストしていたのが面白かった。

実は私は、DIVAたちの「クィアでセクシーな表現」について、良いものが存在しているなーと客観的に思うだけで、それ自体に自分が強くエンパワメントされるということはあまりない。でもジャネール・モネイだけはなぜかずっと特別で、この人が世界でいちばんセクシー!!(という世界の常識、世界の秩序であってくれ!!!)みたいな気持ちになる。

 

・古本や食器の買取始めました!という趣旨のポスティング広告に【永久保存版!壁に貼ってくれると嬉しいです】と書かれていた。

ちょっと距離感がおかしい。近すぎる。一切知らない、行ったこともなければどこにあるのかも知らない店が新しい試みを始めた、その情報を壁に貼ってどうする?ただ読んだ人が「へえ」と思ってくれればよくないか。壁に貼ることを強いていいのは、防災やゴミ出しについての地域からの配布物くらいのものじゃなかったのか。

見知らぬ他人の住居への侵食権があると思い込んでいる図々しさがちょっとかわいい。

 

・近所の惣菜屋のクチコミに「美味い!安い!常連決定ぇぇぇ!」て感じの投稿があった。楽しい勢い。これからひとりで何か考えているとき「決定ぇぇぇ!」と叫ぶ人格を用意したら、愉快かもしれない

 

・ハリセンボンの春菜とはるかが、叔母とかなんか親戚だったら嬉しいなとよく思う

 

フーコーの読み方が少しずつわかってきた。同じようなことを視線を外しながらくどくど何度も言い換えて少しずつ意味を積み重ねる論法。全ての欺瞞を突き崩そうとするようなスタンス。