情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0607

夏日だった。

ひさびさに会った先輩と立ち話していたら授業に遅刻したけど、遅刻しないことよりも話ができたことのほうが絶対によかった。

授業でアクションの振りを考える人がきて、ワークショップをやった。この前みた映画を思い出す。

とりあえず教わったとおりにはちゃめちゃに動いて、たたかいのアクションはとにかく相手がいないとできないので、人にちゃんと曝け出さなければならず、下手くそで不格好ながら夢中でやっていたら、それをやっているときの独特の体感時間みたいなもの、浮遊した時間みたいなものを体験して、「それが、意識がひらかれるということです」と言われて、とても腑に落ちた。

ひらかれた意識の状態になること、全然ない。会話とかでもそういう種類のは苦手で、お互いの閉じた星と星の間に橋をわたすような、とか、はしごをかけるような、とか、手紙を包んで伝書鳩で届け合うみたいなそういう感じの会話ばかりしている。

たとえば演奏をしているときは、特に本番に人前で弾くときは、そういう意識の状態になっているような気もする。

「意識をひらくためには、マイタイムを作らないこと」とも言っていて、マイタイム!私がずっとそれの中にいたくて、少しでもその外にはみ出すと不安になってしまうあれのことだわ!と思って、感銘を受けた。

マイタイムを作らず意識を開かなきゃ表現ができないし、意識をひらくのはチャレンジングでスリリングで腹が痛くなるような嫌な感じだけど、後から振り返ってみるとなんとも表現できない楽しさがあるということ、が気づきだった。

ビールのみながらピアノ弾いて1日を終わらせた。