情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0602

7時間眠っているのに頭が重たい。気に掛かることがあっても、抱えきれない、こぼれおちてしまう、おいつかない、手放してしまう、そういう感覚がある。

朝と呼べる時間に久々に起きて、たっぷり朝食をとったり、昼の料理番組をみたりして、生活を回していくことについて考えた。

食事をしっかりとって生活をまわしていくということと、その象徴的な動作としての料理と、物語の中の女性と、の結びつきと関わりは、たんに性役割のだけではない。

「女性の生活のすべては身体のリズムに左右されており、地から足を離すことができない、その点男性の軽やかさといったら!意のままに、突然、どこにだって行けそうに思える」そういうことを言っていた女性の物書きの言葉がなかなか忘れられない。

 

お通じ、という言葉を気に入った。排便が、身体の通りを意味するのはわかりやすい。

なにも食べたくない、なにも通したくないという種類の潔癖がある。

 

徹夜や夜更かしをしすぎると、夜中が夜中ではなくなってしまう。夜中を価値あるままにしておくためには、夜中を見ずに眠る日が多くなければならない。

 

今日は女装をしている。白いレースのトップスとかピンクのアイシャドウがマインドに馴染まなくて不機嫌。スカートもインナーもラベンダー色だが、ラベンダーはバイセクシャルの色だと昨日知ったな、これはなんの表明でもない。

かわいい顔に生まれてしまった女の子は、周囲の誰にも可愛い女の子になることを望まれる、その容易い道に誘導される、女の子として期待されなかったからこそ女から脱出する手立てを得られる、ということも、ある?

 

声がでかい人を信用しない。わたしは男性に対するフェティッシュな欲望が希薄なほうだとおもうけれど、ひとつだけずっといいなと思っているのが、「本が好きそうな声の男性」というやつ。たぶん誰にも伝わらないだろうが、「本が好きそうな声の男性」と私が名付けているタイプの声の男性は、何人か、私の近くや遠くにいる。これは本人が実際に本が好きかどうかとは関わりがない、その声を聞くと、なんとなく本が好きそうだなと連想するのだ、

 

キッチンを読んでいる。

女性的すぎる、女性的とはこのようなものであると巷で言われているような種類の繊細さ、感性、ロマンティシズム、に貫かれていて、居た堪れない気持ちになった。

わたしは大切な人を亡くしたことがまだない。だから、私の寂しさも絶望も聖域もアイデンティティもなにもかも、誰かの死に由来するものではない。それで同一化することができない。

思いの強まったとき、奇跡めいたロマンチックな超常現象が起こる、ありふれた心やさしく悲しげな男の子が王子様として物語のもう片翼にいる、そういう点が少女漫画っぽい。少女漫画だから耐えがたい。これは私の側の欠陥による。

死ぬこと、というのは、もう何度日が登って沈んで、何度食事をして、ようするに日常が続いていっても、そこにその人がもう永久にない、ということ。その絶望!揺るぎない確固とした規則的なリズムを持った「日常」があるからこそ、死という非常事態の絶望が際立つのだ、それで、日常の起点となるキッチン、が舞台に選ばれるのは必然、という気がする。

 

祈りの瞬間について考える。監督者、批判者、観察者、探索者、がつよすぎる。彼らは祈ることからとても遠い。もっと祈らなくちゃならない。