情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0505

今日は誕生日だけど、朝から会議があったし、どうやらゴールデンウィーク最終日のようだし、引越しは終わらないしなんにも!

ねこのためにキャットタワーを注文した。わたしが家にいてあげられなくて、遊ぶ役目を果たせないから、わたしがキャットタワーを買ってあげるという理屈。

父や叔父に引っ越しを手伝ってもらえる日が今日ぐらいしかないので、みんなで新居へ行って、棚の組み立てを手伝ってもらった。仕事柄、工具の扱いに慣れている父や叔父が身近にいるからなんでも任せっきりで、私が何もこういうことをできるようになる必要のないままここまできてしまった。

わたしは家具の配置を計算して決めたり、服を半分くらい詰めたり、ぐらいのことしかしなかった。

パーキングのマックで買ったベーコンポテトパイとナゲットがやけに、やけに美味しかった。ここ数日、コーヒーはおいしくない、コーヒーの胃もたれを怖がっている。

移動の時間が長かったが、ずっとスロウハイツの神様下を読んでいた。1章から最後まで今日で完走した。わたしは創作をするし、神様のように思っている歌手がいるから、この物語が刺さるのは当然だった。読書が苦手な子供だったけど(文字を追うのは得意なのに本を選ぶのが苦手なので読書をはじめられなかった)、辻村深月さんの本は中学生のころからいくつも読んでいる。辻村さんの小説には、優等生な登場人物が多くて、子供に与えられる物語の「取り柄のない平凡な女の子」みたいな主人公に共感できなかった自分が、これなら重ね合わせて読める!これわかる!という体験ができたのがうれしかった、みたいな記憶がある。それから厄介で生意気で勝ち気、みたいな女もよく出てきて、それもステレオタイプで描かれてるんじゃなくてちゃんと現実的なエグさがあるし、かつ単純に敵ってわけじゃなくて、どこかでちゃんと救われてくれる、というのが新鮮だったのもある。スロウハイツもそうだったけど、傷ついて攻撃的になっている状態の女、やがて愛ゆえに衝突する女と女、みたいなものを書くのがすごくうまい。辻村さん自身の内なるミソジニーさえ透けて見えるというか、こういう女、もうほんっっといやだよね、疲弊するよね、どうしようもないね、と言っているように聞こえるほどで、しかしそういうタイプの愛がやっぱり根底にあって、だから、すごく信頼できる。その部分でいえば、ゼロハチゼロナナほど読んでいて苦しい物語もなかった。わたしは母のドバドバの愛に溺れ執着し依存し衝突し憎み合い傷つけ合いを繰り返しながら、情緒の大部分を育んできたから。そういうわけで、母と娘の愛と憎のどちらものえげつないほどの強さを、こんなにもちゃんと描いてくれる人がいるんだ、これってちゃんと世界に存在している感情なんだ、と知ったことは、中学生当時の自分にはかなり救いだった。あれぐらいの時ってまだどこにも他の自分だけの世界や自由をもたなくて、教室の中の事件も家庭の問題もぜんぶひとりっきりで戦わなくちゃいけないから、そこでの小説のちからってすごいものだ、

女の描き方のことだけじゃなくて、反対に男の描き方、またスロウハイツで描かれていた「創作」へのスタンスの描き方、を見ていても、ああやっぱりこの人は女性作家であるなあ、と思う。そういう言い方が失礼になりうることはよくわかっているけれど、やっぱりそういうのってあると思う。

ジェンダーを消し去れば性別がなくなるわけではない、厳密にすべて抹消することができるのなら差異はかぎりなく小さくなるかもしれないけど、現状この世界でどういう性別として扱われどういう性別としての自負を持ちながらどういう性別としての経験を重ねるか、それに依るところは大きい。わたしは人々がその与えられた所与の性別を、どう乗りこなし、どう使いこなし、あるいは越えてゆくのか?そういうことを考えずに人のことを語れはしない、とまで、性に固執しているせいで、パンセクシュアル的な「恋愛に性別は関係ない、その人間自体が好きだから」のような価値観がじつは最も自分から遠いような気がしている、

なにかあったら、オールドタイプなラブロマンスを四六時中見続ける拷問でもする?