情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0430

自分を飼い猫と同一視しているので、変な時間に寝たり起きたりきちんと生活やれなくても大抵のことは許せる。

朝の授業にちゃんと出れなかったし、郵便局に行くのもやれなかったけど、LiSAが表紙の雑誌だけは買っていった。

 

今日は学校の練習室を借りていた。結局予約した2時間の中で最後の30分と、超過した30分しかいられなかったけど、そういうことをちゃんとやったのがえらかった。本当は弾きたい時に行って弾く、がいちばん合っているしそれしかできないから、それができた前の時代はよかったな、でもなんでも予約の世の中だから、ちゃんとできるようにならないといけないんだ。とりあえずその「場」をつくる、無理やりにでも機会が巡ってきてしまう、そこでさて何を弾こうかと考える、というやり方がいいかもしれない。

 

今日は友達と待ち合わせをしていた。あまりにも暑くて、途中でちいさいコーラを買って飲んだ。3口でいらなくなって、やっぱりコーラはあんまり飲むもんじゃないとおもう。友達は大学の門の前でうずくまるように小さくすわっていた、どうでもいいことだけど「っぽさ」だなーと思ったから覚えておきたかった!そういう人をほかに大学の門で見たことがないし。

夏の縁側みたいなごはんやさんでお昼ご飯を食べた。おなかはすいていて、ごはんは美味しくて、玄米茶はつめたくておかわり自由で、その店の赤ちゃんが下の階でなにか声を出しているのが遠くできこえて、いい時間だった。友達とは、こうして大学という同じソーシャルの話を共通してできるというのがとにかく嬉しかった。

 

話し足りなくて、喫茶店に移動した。古い風情のある喫茶店で、だからなのか、みんな喫茶店という場所に見合ったふるまいをしに、わざわざやってきている、という感じがして滑稽だった。必要以上に煙草を吸い、みんな揃って片手に本を持っていた。それも、新書や文庫本ではなくて、できるだけ分厚くてカタカナが多くて難しそうにみえるやつ。でもよいことだと思う、ゲームや漫画が好きな叔父がよく「俺は電車の中では絶対本を読むんだ、その方が賢そうに見えるから!」としきりに自慢していたけれど、それでもやっぱり動機がなんであれ、結果的に本を読んでいるならすごくいいな、と思っていた気がする、、。とにかく、みんなが選りすぐりの本を持ち寄って、煙草を片手に、「喫茶店にいる自分」をプレイしにきている、そういう文化じたいがおもしろいなーと思った。

 

好きな人びとからいっせいにLINEがきていて通知が埋まっている、でも返せないまま!

 

いま読んでいる百合ラノベ、やたらみんな顔で恋を始めていて、そんなことは自分にはないから不思議だ、

顔っていうのは、その人自身の印象が結び付けられた表象で、キャッチーだし、アイコンみたいなものだから、好きな人のそれは何度も思い出すし、それをみると反射的に恋愛感情が喚起されるのも自然なことで、それの繰り返しのなかで顔がみょうななじみ方をしてくる、ということはよくあるし、だから好きな人の顔なんてもちろん好きにはなるわけだが、相手の好きなところはどこだろうと考えた時に、まず顔だ、あとはうーんなんだろう?となっている描写が何回か出てきて、まったくこの作者は、ろくな恋愛をしていないのではー?という気持ちになる、それに好きなところは?と聞かれてまず「顔!」と臆面もなく言えるのはどういうことだろう、そういう価値観?倫理観?をわたしが過剰に禁じすぎているのもどうかという話だけど、みんな世の中ってそういうもん?