情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0428

たくさん眠った。生理前は10時間寝ないと起き上がれない。途中で一度宅配便がきて、寝ぼけたまま荷物を受け取った。文庫本たった2冊のためにその5倍くらい空気をつめてわざわざ段ボールで配達するなんて、ちょっとありがた迷惑だ。

3限の授業はそれなりにモチベーションがあったのに途中で2度も電話がかかってきて中断されてしまったのが嫌だった、でもどちらも、金振り込んでないとか不在配達とかそういう類の電話で、自分がだらしないせいだから文句言えない。

好きな服を着たし、髪もメイクも比較的うまくいって、気分よく家を出発した。

しかし4限は学校についてからオンラインだったことを知った。MaxもZoomもどっちも不具合で全然授業についていけずしんどかった。先生も誰ひとり取り残されないように変に配慮して面倒をみてくださるから、余計にしんどい。結局先生が1時間かけて教えていたことを同期がラスト15分ですべて説明しなおしてくれて、それが死ぬほどわかりやすかったのでなんとかなった。

5限の授業は80年代の音楽とお笑いを中心とするカルチャーについての講義で、目が覚めるような気づきをいくつも得た。講義形式の授業も、対面で受けるからこそ拾えることがたくさんある、そういえば座学が多い1年生のときとか特にそうだったな、いろんな意味であんなふうにはもう戻れないのだろうから、私の「大学っぽい」大学生活は、実質1年しかなかったことになる。

わたしにはお笑いへのコンプレックスがある。笑いに乗っかるってそもそも、普通とか常識とか前提とかを採用しないと不可能なことだ。笑いを生み出す側はそれを知っていてパフォームしているわけなので、同族のくせに!全然ありうる話と思っていることを「馬鹿げているよね」としてプレゼンテーションしていること、わたしは知っているぞ!となり、自明のように馬鹿げていることだと思えない、レールに乗っかれない、だからストレートにワッハッハと笑う群衆の一部になることはできない、でも構造として見事なので好き、という状態に陥ったりする。

そもそも観察者というものは、お笑いでは笑うことができないのだ。共感(?)と笑いは同時に存在し得ない、とベルクソンも言ってた。いや「共感の笑い」というのも存在するがそれはいわゆるユーモアとは別のもの。

わたしがお笑いで笑うことができるのは、お風呂上がりの寝巻きと濡れた髪、気の抜けたリビングでだけ、という感じがする。そういうタイミングでなら、ぜんぜん、たくさん笑う。

 家の前のタピオカ屋でパンケーキみたいなものを買って帰り、今日届いたLiSAが表紙のAERAとかを眺めながらそれを食べた。

引越しのために紙類を整理したり、唐突にピアノを弾きだしたり、DAWソフト開こうとしてみたり、気になる映像を見たり、新しい本を読み始めたり、毎週聴いているラジオをきいたり、思いつくまま、そのときどきの感情に合わせて好き勝手になにか始めたりやめたりして、こんなふうにひとりあそびをするように暮らすのはたのしい。ただ、音楽をスピーカーで流しながらヘッドホンを繋いでキーボード弾いて歌ったり踊ったりしていたら壁を叩かれたので、このとき初めて、ああ早く引っ越したい!という気持ちが芽生えた。

計画性がないので、風呂上り、部屋着、まだ髪が濡れている状態で、夜中の1時に自販機に飲み物を買いに行った。夜風は死ぬほど気持ちいいけど、夜道は死ぬほど怖い。なにかあったら、どんなふうにキチガイのふりをするか、と脳内でシミュレーションしながら歩いているし、追われて帰ってきたときにすぐに家の中に逃げられるように、こういうとき鍵はひとつだけしか閉めないで出かける。

自分の日記を読み返すのが何よりも面白いから、意地でも毎日なんか書いてる。