情操教育‪α‬

わたしのこと好きな人だけが読んでいい日記帳

0402

母と箱根にドライブに行った。3時に寝て昼ごろ起きる生活をずっと続けていたから、早起きがとにかくつらかったが、一応やっぱり楽しみにしてたので気力で起きていた。履修をまだぜんぜん組めてなかったので、母に運転を任せて助手席でシラバスとかを眺めていた。海老名SAからはわたしが運転をした。途中でやや渋滞もしたが、車の列がぜんぶモルカーだという妄想をしていたらストレスがゼロだった。

彫刻の森美術館に行くということだけ決まっていたので、とりあえず強羅の方まで向かった。箱根湯本駅のあたりまでくると、ぐっと観光地の雰囲気になる。空は曇りだったけど、箱根の街並みにカンカン照りはあまり似合わない気がした。大涌谷芦ノ湖やススキ草原なら晴れていてほしいかも。曇り空のせいなのか、全体的に妙に薄暗く寒々しく、正午ごろなのに日暮れどきのようであったし、春なのに晩秋のようでもあった。山間に道があるせいかもしれない、ひょっとしたら一年中これぐらい薄暗く寂れたようすなのではないか、とも思った。

ぐねぐね急角度の坂道を登っては降りて、曲がっては引き返して、進んでいく。同じような山道なら地元にもいくらでもあるけど、迫力がちがう、と感じた。千葉のまるで丘みたいな山に比べると(それでもわたしにとってはあれが山だ)、箱根の山は高く険しく、谷も深い。山肌が圧倒的な存在感をもって視界に飛び込んでくるのだった。

 

彫刻の森美術館に来るのは、小学校の修学旅行ぶり。入り口の近くにある涙を流す大きな彫刻のことも、ステンドグラスのタワーに登った後に付近の足湯にみんなで浸かったことも、星の迷路でおおはしゃぎしたことも、ネットの森で大人しい女の子が笑顔でクラスメイトを踏みつけるサイコパスに豹変して恐ろしかったことも、ピカソ館でつまんなそうにしている班の友達を待たせてじっくり展示を見てたことも、けっこう鮮明に覚えていたけど、あの頃はもっともっと果てしなく広い気がしていたな。シャボン玉のお城は撤去されていたし、目玉焼きのベンチはたぶんあの時にはなかった。

彫刻を見ていると、素材への愛、それから対象への愛、ということを考える。よく知らないから失礼なことを言っているかもしれないけれど、彫刻というのは、手で触れて鑑賞されるのがいちばん良いのではないか。見ていて、その素材の魅力をありありと感じて、それに手を触れたい、とうずうずするようなものは、良い彫刻なんじゃないか、とあくまでも私は仮定しているところ。屋内展示に、猫の彫刻ばかり作る日本の作家の作品が3つ展示されていた。「のび」という作品が、本当に「伸び」ではなく「のび」の形で顔で存在感だったので感動した。その猫の作品をみたとき、あ!これならわかる!と思った。今までずっと、彫刻といったら人ばかり作るのはなんでなのか全然わからなかった。それはたぶん、彼らが、人体に魅せられているからだ!わたしはねこを愛していて、ねこの体の形に魅せられていて、だからねこの毛並みの質感や筋肉の形や厚みやそのバランスや、それによって生じる物体としての存在感そのもののことをよく観察し、見ている。その見る行為の延長として、ねこの形をねこのないところでイメージする、という行為があって、そのさらに延長に、ねこのないところにねこの形状を作り出す、という行為がある、それらはすべて対象への愛に貫かれている、ということであれば、なんの不思議もない。

良い作品を見つめている時の時間はしばしば自分とか現在とか具体から乖離して、非現実の次元へひとを連れていく。作品の享受者に、ある区切られた、日常からの逸脱の時間を提供する、ということが芸術の効能の中でどれほどの割合を占めるのだろう?

自分の表現方法はこれ、というものを見つけられることは、アーティストとして生きるいちばんの幸福でもあると思うし、しかし実際それはアーティストとしてのスタートにすぎないと思われている。そういうのって視野を狭める以外でどうやって決めるんだとずっと疑問にも不満にも思ってきたけど、案外、自分の中の必然の絡み合う地点というのはそうそうなくて、もともと選択肢だってそんなに多くあるもんじゃないのかもしれないな、という直感を得た。

今日1日のあいだで束の間の晴れだった時間帯は、ステンドグラスの塔の中にいた。ただ単純に綺麗すぎて、大きくて、身をつつむから、簡単に非現実だった。太陽を受けてかがやくと、より、幸福の概念の具現化のようだった。母がとても喜んでいたし、それと同時に高さに怯えてもいて、総合的にすごく楽しそうだったからうれしかった。

最後にピカソ館に入って、ゆっくり展示を見た。彫刻の森美術館が観光スポットでもあるからか、ピカソのキャッチーさゆえか、小難しい気取ったようすのキャプションは一切なく、素材の変化というわかりやすい側面に沿ったキュレーションになっていて、大きな字でピカソの発言がピックアップされていたりして、キャプションも簡素に要点をまとめたものだったので、好感を持った。必要以上に小難しい表現を採用しているまわりくどいキャプションをみると、いつもカッカ腹をたてているから!

子供っぽさ、に焦点が当てられていた。それも、大人びた子供がそれを手にしたいと憂うような子供っぽさ、そのコンプレックスと技術的計算の掛け合わせの果てに辿り着く、真の精神の遊戯と自由と聖域としての子供っぽさ。結果的に、わたし自身が手を煩わせている、じぶんの幼児性にも思いを馳せることになった。それから、クローズアップされていたピカソ自身の発言のなかで案外最も心に残ったのが「毎日仕事をするのが自分の務めなのだ」という趣旨のもの。納得と説得力をもって身に迫ってきたという意味で。「意図なんてどうでもいい、ただ行動があるのみ」とも言っていた(星野源の、意味なんてないさ暮らしがあるだけ、のフレーズみたいだ)。これをきくと、すごく安心する。作品制作は、仕事、ワーク、つとめ、であってほしい(日々の中でそれに時間を使うもの、生きるとはなんですかと言われてそれに時間を費やすことですと答えるようなもの、という意味での、仕事)。作品は、感情の発露でも技法の発明でも意図の終結でもなく、たんなる試みの結果であってほしい。いや、わたしがそうなりたい、そう思いたいと願っている、というシンプルな話かもしれない。

 

ミュージアムショップを楽しくまわったり、山を眺めながら空腹にカレーを詰め込んだりして、仙石原の方のエリアに移動した。マップを見ていると途中にマウントビュー箱根という文字列があり、ああ修学旅行のときに泊まったのはここだ!と唐突に記憶が蘇った。たしかダサい名前だ、とか思っていたけれど、今考えてみるとけっこういいホテルだったみたい。大浴場で鼻血を出した子のことと、階段の踊り場でいい月が見えたことをおぼえている。あのときに見た街並み、それを記憶として保存した時の色味と風合い、もっと広範な情緒、そこから思い描く架空の景色、そういうものは、今もあの時もある程度変わらない。他人がそれを見ることはできないが、自分が何度それを見てもそのようになる、そういう意味で正解があると言ってしまえるかもしれない。おそらく、すでに心の中に、その景色が、情緒が、ある。し、その種類はひとつだけ。もともと私たちはその場所を知っていて、それを探し出し見つけ出し具現化するのが私たちの仕事、みたいな、そういう話。

 

修学旅行で行ったガラスの森美術館を通過して、星の王子様ミュージアムに向かった。母は星の王子様の話をなんとなく知っているだけで読んでいなかったけど、まるでディズニーランドのようなミニチュア洋風建築のかわいらしい世界は母も好きだろうから、一緒に行けて良かった。

去年、文化人類学の授業で近接空間とかを説明していた回でリアぺに野良猫と仲良くなるまでの話を書いたら、先生が「星の王子様のキツネのエピソードみたいですね」とコメントをくれて、それ以来わたしは星の王子様(のキツネ)に強い思い入れがあった。キツネは王子様にこう言う、「まだなついていないから、ぼくはきみとは遊べない。なつくとは絆を結ぶということ。絆を結ばなければ、ぼくにとっても君は他の10万の男の子と同じだし、君にとってもぼくはこの世にいくらでもいるただのキツネでしかない。でも絆を結べば、ぼくにとって君は世界でたったひとりの男の子になるし、君にとってもぼくは世界でたったひとりのかけがえのないキツネになる。」「絆を結ぶには、我慢強くなることだ。最初は、君はぼくから少し離れた位置に座るんだ、横目で見るだけで、挨拶もしない。それで次の日には、君はもう少し近くに座る。そうやってやがてぼくたちは絆を結ぶ」きっと先生は、わたしがねこと少しずつ物理的にも精神的にも距離を縮めていった様子をきいて、この後半の部分を想起したのだと思う。でも今改めて考えてみれば、絆を結んでいないときは、ただのこの世にいくらでもいる野良猫のうちの1匹だったねこ/いくらでもいる餌をくれる人間のうちのひとりだったわたしが、距離を縮めて絆を結ぶ中で、この世界にたったひとりのかけがえのないねこに、なったんだよな!!ああ!それを思うと、愛おしくて、尊くて、涙が出そうになる。

星の王子様もこれまた、物語の中で大人と子供、というのが軸になっている。テーマは愛や生や死だとしても、それが大人ー子供の視点を対比的に描きながら展開される。星の王子様は、「大人びた子供」か「子供の心をもった大人」のための物語だと思う。ちょうど大人と子供を行ったり来たりする私たちのような!これでまた、今度は幼児性というよりは子供心について、考えることになる。

ミュージアムでは、かわいい庭のほかにサン=テグジュペリの生涯を辿れる展示やムービーがあって、その人生と作品を重ね合わせることでより読み解きが深まった。そういうタイプの作家だった。読みかけの夜間飛行もまた読み直そうと思う。

さいごに、キツネの柄のしおりを買って帰った。この妙にかしこげなところも、わたしのねこに似ていて好きだ。

 

日暮れが近づいてきて、どんどん店も閉まっていくので箱根湯本のほうに戻ることにした。母は今日は浴場に入れないと言うので、申し訳ないなと思いつつ私だけ温泉に入ってきた。室内にお湯がひとつとサウナ、屋外にぬるめの露天風呂とジャグジー風呂と五右衛門風呂があった。

少し時間が早めだったせいか、宿泊者の人もまだ入浴に来ていなくて、ほんとうの貸し切りだった。わたしは好きなように鼻歌をうたったりお湯の中でくつろいだりして、最高に温泉を満喫した。火照った体は、真ん中にある大きなベンチに寝そべって白い雲を見つめ、風に水滴がさらわれるのを待っていればいい、私は風呂に浸かっているよりも、そのインターバルで裸で寝転がっている時間がのほうが好きかもしれない。風呂からの視界は高い山に阻まれていて、一本だけ桜の木があった。そこからおりてきたのか、桜の花びらがいくつか湯に浮かんでいた。まっしろだった空が濃く青く暗くなっていくのを見届けて、ほわほわの気持ちで湯から上がった。

 

このご時世だからなのか、もともとそうなのか、やけに早く、4時とか5時に終わっちゃう飲食店が多い。やっているところだと居酒屋かピザ屋の2択だったから、居酒屋の方に入った。母が運転してくれるというから、1杯だけお酒を飲ませてもらった。炭火焼きのさばと鶏肉がものすごく、予想を超えて美味しくて、もろきゅうの味噌ですらごろごろしていてすごく美味しくて、最高の気持ちで帰宅した。酒があると、美味しいものをちょっとだけ食べる、ができるからたのしい。

帰宅してから星の王子様を読みなおした。やさしい気持ちでねむりにつく。