情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

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だいたい昼食から1日が始まる。昼食までの時間はあってないようなもの。今日も弟と喋ったりいっしょにFateをみながら昼食を食ってそのあとのゆるゆるの時間をすごした。だらだら筒井康隆の短編集を読みすすめたりした。こうやって固有名詞でものを語る人が気に食わんから、気にくわんなりの誠実さで、自分が固有名詞を用いる時の根拠とか、固有名詞以外で語る方法とかをしっかり整備しなきゃいけない。

ジムに行かないとまったく運動をしないので、実家の付近でジムを探して今日から初めて通い出した。生理前のさいあくぐだぐだモードのメンタルだから何にも集中できないけど、新しいことをするのに余計な緊張をしなくて済むことだけはよかったかもしれない?

運動をするだけで、心があかるい気持ちになる。水をのむことも、汗を流すことも、息をすることも、ぜんぶ正しくていっぱいするべきことだから、それを自然にさせてくれてありがとうみたいな。筋トレをするのはなぜ?いい身体になりたいから。自分のからだのかたち愛したいから。頭以外の部分のこと、たとえば足とか、を忘れないようにするため。自分のからだの声をきくため。わたしは身体の力?威力?のことをかなり信じていて、筋肉のつきかた、骨の歪み、それによるからだの使い方の癖、とりがちなポーズ、概念的な重心の位置、などに思考も精神もかなり左右されている、という体感的な理解がある。それを無視するなどという傲慢到底できないから、その偏りを見つけて、愛したり抗ったりしたい。

子供を産みたいというか、いずれ子供を産むんだなとあくまで想定した上で生きているのも、それとちょっと繋がっているところがあって。からだが子を産もうとしているのか?ということは常々あり、それらを無視してまで、最後まで母になることを拒否して、自分の人生をやっていきたい、というほどの意志も理由もないので、産む運命にある、そういうものなんだろう、と思ってやっていく、ということにしている。諦観と言ってしまえばそれはそう。母にならなければいつまでも母と同じ立場で対話できない、いつまでも下であるしかない、のような気持ちもあるのかもしれない、とにかく母を見ているから、母のような女がいる限り、母になってみなくては自分は女を自信持って語れないな、みたいな感情でもあり。

ガーっと酒飲んでねこ吸って12時半には布団に入った。いい日。