情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0213

午前中にオンライン会議があったので今日も早起き。議事録の係なので、意見を言わなくちゃいけないよりは気持ちが楽、というかこっちの方が得意。

 

チック・コリアはジャズピアニストの中でいちばん好きだったし、キーボーディストとして本当に尊敬していたし、特別、と思える作品がたくさんあった。それでも訃報にただ驚くことしkかできなかったのは、そもそも、いま私が、チック・コリアと同じ世界で、同じ時代を生きているのだ、ということに対する意識が薄かったせいかもしれない。そういう自分の態度が、なにかとても問題があるように感じた。

 

19時から、LiSAのファンクラブ配信を見た。

Believe in myselfをギターで弾き語ってくれた。慣れないスタイルのせいでいつもより歌のテンポがぎこちなくて、さっき見たばかりのAngel Beats!10話のユイちゃんのことをなんとなく重ねて見てしまった。

 

それから今日は、ファンクラブサイトからメッセージが送れる機能を使って、初めてLiSAにラブレターを送った。10年前のLiSAのブログをみたり、LiSAの喋り口調をきいたりしていると、自分のなかにある屈託のようなものが、本当に邪魔でしかないように思えたから。どれだけ大きな気持ちが心の中にたしかにあったとしても、秘めていることは、本当に意味がない。意味がない。それでもこれからも内に籠めようとしてしまうのだろうが、せめて、止まってしまうことのないように、毎日新しいことをなにかひとつ、した方がいい。

 

ときどき、なにかに「言及する」という形のコミュニケーションを取ろうとした時、つまりなにかについてなにかを言おうとしたとき、自分の中に驚くほど皮肉っぽい語彙しかないことに気づき、愕然とすることがある。たのしそうな人を見ると距離をとってしまうようになったのはいつからだろう?素直になりなさいと繰り返し教育しようとした母の気持ちが今ではよくわかる。素直になりなさいと言われたときに、素直とはなんだろう?あの人は素直なんだろうか?本当に心の底から?と疑ってしまうようになったから、結局素直さとは遠ざかってしまった。それでも真面目に真摯に、やってきたつもりなのになー。

 

風呂をあがった直後に大きな地震があって、着替え終わってもまだ揺れ続けていた。10年前、大きな被害があった地域にいたわけではないけれど、テレビに写った嘘みたいな映像、街を飲み込む水の塊、ぐちゃぐちゃに壊れて何もなくなってしまった街、立入できなくなって誰もいなくなってしまった福島の街、あれらを見た時の感情を思い出して震えた。うつっているのは街ばかりだったけど、そこに平穏に暮らしていたはずの、人ひとりひとりのことをリアルに想像して、ショックを受けた。幼いころタイタニックをみて、海にたくさんの人が沈んでいく恐怖が心の芯にこびりついていた、あの時と同じような気持ちになった。自分の街も、いつでもそうなるのだ、と鮮烈に思わされ、初めて祈りの意味を知ったと思う。

自分が生きている間に必ず一度は、関東に大震災がくるのだろうと思っている、それが今日でも明日でも、どうにかやっていけるように、どうか