情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

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なにかを考えてれば考えてるほど偉いみたいな価値観やめたいな。ご機嫌で素直で元気なのがいちばんに決まってる。

論文にしろ作品にしろ形にできないのは体力がないから!初めてのことに取り掛かるのは、本当に本当に気力がいる。

今日はかなり進んだ。つかれたらなにか考えるのをやめて、ひたすら猫じゃらしを振ったり毛繕いの回数を数えるだけ。

 

やるべきことよりも先に読書をしてしまいがちなの良くないなあ。今日はヴァージニアウルフの自分ひとりの部屋を読み終えた。有名なのは「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分一人の部屋を持たなければならない」のフレーズだけど、そういう物理的金銭的な制約だけじゃなくて、女として生きようとする/生きなければならない精神や、女ジェンダーに抗おうとする心のはたらきそれ自体が、純なる創作行為の疎外になっている、という指摘をしていて、ああそうだその通りだ、これは一生自分が向き合わなくてはならない命題だ、と思った。並行して読んでいた大野左紀子さんの本にも「見られる性として生きてきた女が、他者の視線をどうして無視できようか」と書いてあった。わたしは見られる性をずっと生きてきたし、そういうことを逃れながらやってこられた幸運な側でもない、しかし作り手は自分を透明化したところで表現が起こさなくちゃならないから、困難が生じる。この答えを探すことが、わたしにとっての創作のひとつのテーマ。

また、男によって担われてきたそれまでの文学や歴史の中に登場する女はいつも、男と関わりのある部分しか描かれなかったことが指摘されていた。男との接点の部分は女の人生のごく一部でしかない、だから女によって女と女の物語が描かれたことで初めて、それ以外の女の一面が露わになり、あたらしい女像が立ち現れたと。そうだなあ、だから、女による女と女の物語がすきだし、必要なんだよな。たくさんページの端を折ったので、また折に触れて読む。

 

さいきんはSNSとかを見るかわりに、LiSAのアメブロを2010年からずっと読んでいくあそびをしている。そしてLiSAの楽曲についてやインタビューについてやブログについてやライブについて、ちゃんとノートにまとめる。メモをとるのがオタクの始まりだと思っているから