情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

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過食ではないから変化が見えないだけで過食と同じことをやっているだけだ、こんな複雑な問題を放置したまま常人のフリしていくのきびしいよ~~~~核にあるのはシンプルな欲望のはずなんだけどな、自分の欲望を肯定するなんてできなくなってしまった!物心ついてからずっと「どうするべきか」でしか基本的に決断をしてきていない。自分のしたいことをしてるときは衝動に流されて自動思考的にその行為を選んでしまっているだけで、だから要するに自分の欲望の声を聞いてリスクや責任を背負って自覚的に行動する、ということの訓練が全然できていないんだと思う、どんな小さいこと一つとっても。問題を無視し続ける方法を覚えたことはたしかに私を生き延ばしたけど、こうしてこのまま、突き詰めてもキリがないから偽のことをやって余生を潰してくみたいな発想でやっていくのか?ああこれが、アイロニーのツッコミの過剰化によるナンセンス(無意味)の論理?それを打破する方法は横軸方向に目移りしていくユーモアによる決断の中断だ、みたいな話だったっけか、

とにかく限界、最低限の状態で、単位をもぎ取るために家を飛び出した。人としての最低限のランクを下げると人間生きやすくなると誰かが言ってた、

私が練習しないばっかりにレッスンがただのカウンセリングみたいになってしまうことが多いけど、副科ピアノの先生はいつも、本質の言葉をくれ、それが転機になることがかなりある。作曲方法のことにしろ、先々の進路のことにしろ、授業や課題に対するスタンスのことにしろ。今日は「学校に押しつぶされないようにしなよ」と言っていた。春休み中にアルバイト先を選んで社会業界との接点を作るのがたぶん良いみたいなことも言ってて何もかもその通りだと思ったしこれは本当にその通りにすると思う。先生のことを占い師か何かと思っている節がある。

洗濯とかゴミ出しとか皿洗いとか掃除をがんばれば少しでも何かを取り戻せたような気持ちになる。

ジムに行きたいのに課題が終わっていないからそれを禁じているけど、そのせいで結局なにも進まないで家で非生産的なことをしているだけだから逆効果。たった2時間だからここは割り切ってジムに行くぞと決断する勇気がないだけ。筋肉をつくるための働きを行なっているときの、身体に対するナルシズムみたいな感覚が新鮮でとても良い。自分のよくできた過去の文章を読み返しているときの満たされた気持ち、みたいなあれは精神的なナルシズムで、それはそれで重要とはいえ肥大化しすぎると対人関係の場に立った時、傲りと諦めの不健康な感じにもなりがちだから、自己愛を体のほうに流しておきたい。いい加減、ごめんなさいごめんなさいで性的興奮をおぼえがちなのは気持ち悪いし虚しいからね