情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0823

醜形恐怖症、というよりは、自分の顔をぜんぜん受け入れてない割り切っていないので、着飾って写真を撮られるのが嫌いだ。この自我の入れ物としてこの顔をまったく容認できない。不本意にも関わらず自己像を客観的に固定化されてしまうのが怖い。自分ではレンズをのぞけないので、自分の姿かたちのコントロール不可能さを思い知らされるようで不安。望んでないのに本番(ハレの日)を押し付けられたみたいな状況の受け入れがたさ。知らない人に顔も髪も身体も装飾され自分が客体になることへの不安。その装飾が「伝統的な女のスタイル」に近づくために施されるものだということを私は好意的に受け止められるだろうかという心配。

 

これらのことがぼんやりと気がかりで成人式の前撮りはあんまり気が進まなかったけど、いろいろ運がよくて、結果的にはたのしいなと思えた。

 

叔母さんに譲ってもらった振袖がものすごく綺麗なよいものだったことや、メイクしてくれたおねえさまがとても上手で私がつくるよりも私っぽい凛々しい眉をかいてくれたことや、カメラのおじさんが「次は(横顔とか後ろ姿ではなく)帯を撮ります」という感じで撮影をすすめてくれたことや、写真屋の年配のおばさまが「クラシックな顔立ちですね!」と意味のわからない褒め言葉をうれしそうに連呼してくれたことが、とくによかった。

 

おしゃれは自意識と客観の交差点で、羞恥心をともない、自己像が揺らぐバグをおこすもの、なので、そのへんリスキーなあそびで相変わらず苦手な気持ちもあるけど、みめかたちの限界をみたいとか、振れ幅をためしたいとか、さもアバターのようにわりきって操作をくわえてあそびたいとか、考えうる動機のそれぞれ、わかるかもしれない、と思った。自分らしさと向き合うことと自分らしさから離れ逃避することは逆ベクトルではないし、矛盾もしないのかな、とか。