情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0822

2時間の会議も3時間くらいのゼミも、あろうことかほとんどいちども発言せず、いる意味あるのかなーだった

 

さいきん心ひかれるあれもこれもそれも、ぜんぶ代替にすぎない目くらましなのでは…?という名前のかなしみと不安みたいなので急にガクッとおちてしまった、

 

よなかの3時のぼやけた視界の状態でスペイン語の課題をなんとか終わらせた

 

ロリエの「生理は個性」は、言葉選び以外にも、全体から醸しているキラキラふわふわの雰囲気がいちばんだめだと思った。自分の生理の特徴が可愛くビジュアル化されて、愛していこうって思わせたいみたいなコンセプトなんだろうなーと感じたけど、音とかビジュアルの過剰な美化が嘘くさかった。

女の身体の神秘的な現象、というふうに生理を取り上げることこそありきたりで、私達の生活の中に溶け込んだ厄介で逃れることのできない生理現象としての生理を描くことこそ今もとめられていることだ、そういう空気がたかまっているのだということをそろそろわかってほしい。

ポジティブに受け入れる、見ないふりして我慢することはもう散々やってきているし強いられてきているしみんなもう懲り懲りで、怒りや嫌悪やマイナスの感情をありのまま言いたいし、そういう改革や反逆の空気感はなんのトピックにしても高まっている感じがしませんか、

 

君野イマとミライにかんしては、ただ、適当だなという印象をうけた。だれに伝えたいのか?そのためにどんな表現方法が適切か?ということを踏まえた表現に思えないし、なにが環境問題の原因なのかを考えてない感じがするし、とにかく「萌えキャラ」という表象を使うに至った経緯がみえないという点で、萌えキャラのこともナメてるんだなーとおもった。雰囲気だけで使ってるだけだよ、「萌えキャラ」と名乗りながら、どういうルーツで生まれた表現なのかも、どういうものを萌えキャラと定義するかも、だれが萌えキャラを愛するかも、日本や海外のカルチャーの中でどういう位置づけであるかも、まったく考慮した感じがしない。たぶんそういう次元の問題なので、158センチで女子高生であることや、グレタさんがああ受け取られる社会の中で女の子を伝道師に表彰することのグロテスクさやその他諸々、その先にある問題点に思い至るはずもないんだよな。そういう貧しさがほんとにかなしい