37.2度のどうということもないけど若干支障でる感じの微熱。
この夏出会ってよかったものなんてイヴサンローランのファンデぐらいしかないし、ときめく人も音楽もしばらく見つけてないな、
何かを好きになるためには、「もしかして」を確信に変えてくれるようないくつかの経験が必要だ
時間を区切るチャイム、空間を遮るパーテーション、とにかく縛るものはスキニージーンズでも教室でも部活でもバンドでも恋人でもなんでもいい。ならばまずつめたく密封された空間にあることや、時が空の色で区切られていることを実感をもって気がつくべきなんだ
いつでもこの体が受動的な仕組みになっていることが憎い
音楽には仕草があると思ってて、そのひとつひとつのアクションが、フィギュアスケートのわざみたいに連続してつながってるみたいな感じにみえる、みえませんか?
快楽至上主義で生きればのちのち苦労するし、禁欲するために裁きを設定するんだろうな
理由なき制約を想定するために絶対的な存在である神を信じるし利用する、
自分が裁かれる立場にあるということにするほうが利便性が高いな、それ以上理由を求める必要がなくなるから
虚空を埋められないこと、埋めようと現実逃避していたことに気づいた瞬間からうっすら鬱、気が重い
米津玄師のことは、歌がうまいこととサウンドがおしゃれで独創性があるなということとアートワークがすてきだという感じに思っているけど、コード進行やメロディがどれもぜんぜん好きになれない。戦略的な感じがするし、キャッチーで耳に残りやすいし、今っぽいんだろうし、正しい感じがするけど、マラソンのときにずっと頭の中に流れてきえてくれないださくて強力なワンフレーズ、に似ていて苦手。
それはどうでもよくて、米津玄師といえば、雑誌のインタビューで(おそらくかつての自分たちみたいだった人へ)「こっち側に来いよ」と言っていて、それ以外の箇所もわりとそのスタンスに貫かれた応答をしていた。その「こっち側に来いよ」だけがずーっとずーっと心に引っかかってる。自分の側に言われていると思った。隠しメッセージのようだった。
「あたしの有名はきみの孤独のためにだけひかるよ」の真逆で、「強くなれ僕の同志よ」とはまた違くて、一緒に行こうでも連れてってあげるでもなく、「来いよ」。行くべきだろうかとずっと考えあぐねています、まだ行けないけど、いつかは行ってみるだろうという確信があるし、行くかもしれないということだけはいつでも思うようにしている、行くとはなんのことでしょうね
安全圏で戯れをしたい、脅かされることも取り込まれることも私が全部背負うこともないという安全と信用のなかでなら、靴舐めたって気持ちいいはず
そういう場所すらどうでもいいのが恋だけど
ほぼ無意識のうちに、人を怖いか怖くないかで分けているし、怖い人とは極力話をしないし、信用に足るか否かでジャッジしてしまうのをやめられない。信頼じゃなくて信用。相手がすごいバカでなにも通じなくても、あはは!あんた面白いこと言うね!と心の底から面白がれる人も、いるのです、