ミーティングで膝にパソコン乗せてたら自分がうなずくたびに部屋が揺れてたし、ほかほかのパソコン熱が太ももから全身に伝導して汗が止まらなかった。
外は風がびゅんびゅん吹いてていい気味だった。この、日本語の文章における「だった」の部分がすごく嫌いなので、もっと話者を想定せず事実をそのまま事実として並べるだけの方法があればいいのにと思い、そこを解決しない限りなんの文章も書きたくはない、本当は。
とはいえプレシャスのあの先生も「とにかく書きなさい」と繰り返し言っていたしな、立ち直るために、生活を維持するために、自己を手放さないために、現実から目をそむけないためのひとつの手段として、書けということだったのではないか。
自分が教習所で教官に何か言われることに多少なりともムカついたりしてしまう人間であることが悲しくてへこんだ。
基本いつも失敗しないようにと努めているけれども、当然失敗はする、失敗を念頭におかずに失敗するよりも失敗の回避に失敗する方がへこむ、だからそういうときに他人に何かしら自分のおこないを言及されることが耐えられないんだろうな。しょぼい感性、もっと綺麗にいたい。
夏というのはしめきった部屋に充満するクーラーの匂いが不健康なこと、なつやすみのしおりを放って学校だとか友達だとかを隔絶してひたすら己の時間がスペースが続いていくこと。クソつまらん夏しか経験したことがなく、いつも不自由で怠惰だった。夏はおもしろくない。世間が楽しげであるから。自分の内と思っていたものや人が外へ離れていってしまうから。
夏はいつも殊更に偶像でイデアで神格化されるので、平成最後の冬とは言わないくせに平成最後の夏と喧伝したりするわけで。
よい夏は今後何年もかけて私が探すべきもの、イメージの断片を拾うべく貪欲に移動を繰り返したい。
そういうことのために生きるんだよな。
母のうたう涙そうそうへの憧憬を胸に、私もいつか布団で添い寝する我が子に最高の子守歌をうたいたいから、そのために今も歌っている、カラオケのマイクに好かれなくとも。
テレビはつまらないしうるさいけれどもマツコデラックスのやさしい共感がそこにある限りなんとなく
テレビに甘えてしまうのだろう、マツコデラックスは日本人のストレスをあのからだに吸い込むのだ
そういうことを言ってみたって、結局日本人は人が嫌いでマスコットが好きだという話かもしれない。
とりわけ女は女子アナになるかフワちゃんになるか大別すればそういう選択肢しかないということ、どちらもステレオタイプを乗りこなしサバイブするそのさまは大変したたかで美しく眩しいものではあるのだけど。