情操教育‪α‬

忘却炉に送るまえに

0427

いろいろ済んでないのに強制終了と諦めの感じで中途半端な時間に寝てしまった、寝過ぎたとも言えるし、まったく寝ていないとも言える最悪な感じ。だから日中も「死」を過ごすのに膨大な時間を費やしてしまった。

それでも、午前中の会議にちゃんと出て、(ずっと言えてなかったけど)研究室を変えたんですよ〜という話もできたし、ゼミでもパワポ作って発表できたし(質問はひとつもできなかったけど)、(時間はかかったけど)アートパスの引継資料も提出できたから、それなりにちゃんとやってる、「こなせて」いるはず!

パワポつくったごときのことで褒めてかないとやってらんない!いまはゼミの中で「できない」としてやっているので、私の発表のタイムなのに先生が半分以上あれこれ口出しして喋ってくださる。これは先生が気持ちよくたくさん喋るおかげで空気が悪くもならないし、わたしはいろいろな情報をノーコストで手に入れることができるし、じつはいいことばかり。「できない」としてやるのは、すごく気持ちが楽だし、徳だな!と思う。でも、せめて、「できないので、、、」と変な保険とか遠慮とか卑下みたいなことだけはせず、正真正銘「できない」を引き受けて、嘘なし誤魔化しなし過剰さなしで「できない」がろう、ということだけ気をつけようとしている。

 

0426

ねこをひと撫でして午前中のうちに実家を出発した。でも今日母はもっと早くに起きて胃カメラをしていて、本当にものすごく偉いな、と思った。胃カメラって小さい頃、死ぬことと子供を産むことの次くらいに怖かった。いつかは絶対にやらなきゃいけないのだから、それまでに、身体の感度以上に体内への好奇心のほうを育てておかないとな、

ノマドランドの感想を書きながら高速バスに乗っていたら、アカデミー賞をとったというニュースが流れてきた。ちょうどたくさん、ノマドランドと石について喋りたいことがあるんだよなあ誰かと、とただ思った。あんまり権威そのものに対する興味がないので、〇〇賞みたいなやつはよくわからない。映画でも音楽でも文学でも演劇でも、〇〇賞のことは、押さえておかなきゃいけない、知っておかなきゃ、の義務の感じで接している。義務だからあんまり接していないこともある。義務はおもしろくないので。

急に今朝になって13時からの授業が無くなっていたことに、家を出るまで気がつかなかった。とても時間が余ったから、ひるねをした。15分でとりあえずアラームをかけたのに、結局1時間半寝て、やっとすっきりした。寝不足の頭痛は薬で誤魔化してもだめ。

今日の授業はボイストレーナーの女性が来ていた。まえに1日だけ受けたボイトレの体験レッスンの話や、毎週わずか10分の副科独唱の話と対応させると、乗算のような効果で腑に落ちていく部分がかなりあった。「質問タイム」になったとき、いまだかつて見たことがないほど質問が尽きなかった、声楽科の人もそうじゃない人も、みんな声に対してこんなに興味があるんだな、というか、声に対してこれほど真剣なんだな、というのが面白うれしくて、ひとりでちょっと笑った。わたしも声にかけては真剣なので、「声が小さいのは息が浅いからだ、さらには声帯をしっかり閉じずに息が漏れてるからだ」「頭声で響きを足そうとすれば気持ち的には楽かもしれないが、声帯には負担を強いている」「声は気持ちや心に大きく影響されるから、わたしの話なんか誰も聞かなくてもいいし、と思ってる人は声が小さく通らなくなる」など、などのことが全部、自分の症状の理由だ!!!とおもって大感動していた。

授業の後、友達と一緒に黙って各々の作業をやって時間を潰し、もうひとりと合流してご飯を食べに行った。ふたりとも、仲良しとは思ってるし、ほんとうの会話をした思い出もそれぞれにあるんだけど、「ふだん一緒に行動しがちな人」のカテゴリの子ではないから、ただ時間を過ごし言葉を重ねるだけでも、新鮮さと充実感があってすごくたのしい。プロジェクトや共同制作の話をするつもりが、うっかり「おしゃべり」の会になってしまった。

ネパールのカレープレートには、3種類のカレーとたくさんの種類のピクルスたちがちょびっとずつ乗っていて、毎回違う味をたべられるのがたのしかった。カレーは雑穀米とよく合うやさしい味で、最高潮の空腹も相まって最高に美味しかった。

帰宅途中スーパーで買い物をして、ポイントカードアプリを開いた瞬間電池が0%になって電源が落ちたのが今日の中でいちばん悲しかった。

0425

ながく会ってない友達が既婚者になった夢を見た。結婚したとか妻になったとかではなくて、既婚者になったという感じの夢だった。

 

今日は弟の陸上の大会、たぶん一応「最後の総体」的な位置付けのやつ、があったので、応援こそ行けなかったが出走時間にそわそわどきどきしながら念を送った。

足を壊したり水濠で転んだりすることなく、初めて無事に走れたらしく、自己ベストも出て県大会に行けるといってすごくやる気に満ち溢れているようすで、かつ疲れ切って帰ってきたのが、すごくうれしかった。弟のことはとても応援したくなる。

 

引越しをするにあたって、机を買う必要があるので、ニトリや無印や東京インテリアなどいろいろ店を回って家具選びに行った。

今は据え置きの机、というかカウンターを使っていて、奥行きがなかったり高すぎたりしていろいろ不便だった。

家具選びは想像力だ。今ある家具と、新しい部屋の寸法と、新しい家具の寸法とその使い勝手と、を想像しながら頭の中で配置を組み立て、生活をシミュレーションする、特殊な思考法。とくにわたしは背が低いので、机と椅子の高さには絶対こだわりたい。高校時代は学校の机が高すぎることに不満を言い続けてきたし、椅子も高すぎて足がつかないと余分に疲れて困る、かといって机に対して椅子が低すぎても作業がしにくい。いろいろ試すうちに、机は70cm、椅子は座面が44~45cmぐらいが理想なんじゃないか、というところに落ち着いた。いくつも数を試すうちにそういう結論に辿り着いた。「みんなここまで大変な思いをして椅子と机を選んでるの!?」と思ったけれど、世の中には昇降式のチェアというのがある、あれを使えばなんの問題もないはずなんだ、、。わたしがどうしても、あのキャスター付きのギコギコした妙に背もたれの遠い椅子に座りたくないがために、こんなふうに勝手に悩む羽目になっているだけ、、。

 

ここのところずっと迷惑メールと格闘しているけれどいっこうに改善されないし(3分に1通はスパムが届く!)、携帯の料金プランを切り替えて安くしようみたいな話も進行していたので、ahamoに切り替える手続きとその準備をやった。あらゆるサービスをドコモメール のアドレスで登録していたので、それをひとつひとつ変更するだけでも面倒。さらにもともとの料金体系特殊だったからか一筋縄ではゆかず、とにかく時間がかかった。

母はこういうことが得意で、なにかきっかけがあるたびに、電気屋とかドコモショップとか病院とかそういう場所で識者に何から何まで質問責めして、ひとつひとつ着実に知識をつけていくタイプだ。こういうのを生きていく力というんだろうなといつも頼もしく見ている。

 

夜遅くまで実家で作業していると、ねこが途中で長い眠りをやって、その後起床したあと「えっなんでお前起きてるん」てなふうに茫然とした顔でこちらを見つめてくるので、とてもとてもかわいい。

0424

高校まで習っていたピアノの先生と、当時から一緒にピアノをやっていて今年芸大に合格した好きな友達と、ものすごく久々に会った。会っていない間もふたりのことは変わらずずっと大好きだったけど、それぞれあまりにも話したいことが多すぎて、はじめのうちこそ表面をなぞるような会話ばかりしてしまった。

先生と友達と3人で話している時間と、先生の仲良しの先生が合流して4人で話している時間と、先生たちが先に帰って友達とふたりで話した時間と、があった。その間。場所を2回変えた。

先生もわたしたちに「生徒」として向き合っているときと、「最近の若い子たち」として扱っているときと、「年頃の親しい女の子」として接しているときと、いろいろあって、そのひとつひとつをもっと掘り下げたいけれどもそれをするには全然時間が足りなかった。

でも先生は、もはや生徒の子どもではなくて、大人になった私たちと新しく、本音でいろんなことを話せる関係性を築こうとしているのが伝わった、それ自体うれしいことだった。わたしはなにか注意されるとすぐムッとする自我のつよい子どもだったことを自覚しているから、この洞察力の高くて賢い先生に何もかも見抜かれていただろう、ということも容易に想像ついて、今でも気恥ずかしい。

最近の若い子はどういうふうに遊ぶの?とか、何をしている時がいちばん楽しい?とか、そういう質問にスッと答えられるような感じの人生を送っていなかったことを、すこし申し訳なく思った。よくわからない、わたしの回答は外れ値だから期待に沿えないよ、と思って躊躇の時間を挿入してしまう。前者の質問なら「平日も休日も、だいたい自分の興味があるところはどこでも行って、あとは興味のある友達とときどきサシで会って死ぬほど語り合います」ということになるし、後者は「そういうハイライトの時間と一般の生活、というふうな区分で日常が構成されてはいなくて、何をしてるときもだいたい楽しく、何をしてるときもだいたい死にたい」ということになる。これまで先生には、捻くれた部分は適度に隠してそれなりにいい子を演じてきたから、ちょっとやりにくい。

とくに先生は、案外恋愛の話を聞きたがった。親戚の仲良しの叔母さんとかが恋バナをしたがるのと似た感じで。どんな男の子が好きなの?とか、浮いた話はないの?とか、そういううきうきしたテンションでなされる問いかけに、ひさびさに追い詰められたような気持ちになって冷や汗かいた。話したくないとかではない、話したいのにそれがままならないから苦しい。たぶんわたしの本当の真ん中の部分でなくても、いろいろある部分のうち、切り取り方とその切り口さえ工夫すれば、ひとつも嘘をつかずに、かつ一緒に盛り上がれるような話をできるはずではあった。でも、そういう「普通の恋愛話」を求められることが最近ずっとなくて、それゆえその工夫の努力を怠っていたから、うまく応えられなかった。とかってそこまで無理しようとしている時点で引き裂かれが起こっている何よりの証拠なので、それも悲しい。

先生は独身でとても色気のある魅力的な女性なのだけど、じっさい若い頃はおもいきり性愛を謳歌していた、という事実を知って、納得と尊敬になった。もっとその話を聞きたいけれど、そのためにはそれに見合うテンションと性質を示さなければならない、女どうしの恋バナはそういうものだから、というのを知っているから、難しいよなああ、

先生は、わたしたち友達どうしで話したいこともあるだろうから、とそこまでの食事代の4000円をサッと机に置いて颯爽と帰っていった、そういうところも素敵だった。酒が入ればもう少し話せるのに、と何度も思ったからぜったいに飲み会をやりたい。

それからは友達とふたりで話をした。ずっと大切でいとおしく思っている気持ちもちゃんと逐一示さないと案外伝わらないのかもしれない。わたしはただでさえ、関係が深い友だちに不気味と思われがちだから、ちゃんと何度も本当を伝えなきゃいけない。

基本的にはわたしと違ってとても素直な子だったからこそ、大学で新しい学問、価値観、人間関係、環境、に出会ってどんなふうに変貌するんだろう?という部分が未知数でとてもとても楽しみにしていたから、オンライン授業でほとんど学校に通えていないという現状を改めて恨めしく呪った。

でもそんなことよりも、とにかく再会できて、わたしたちの関係の中で新しい時代が始まることが何よりも嬉しくて、そうである以上、なんだってできるしどんな夢だって見れるから、これからたくさん積み重ねたい。

0423

昨日はひとりで家飲みしたから、どうしても1限に出なきゃ、そうしないとかっこ悪いから、と強く案じながら寝た。そのせいかこまめに起きてしまってあんまりいい睡眠がとれなかった。味噌汁一杯を飲んでから家を出た。味噌汁は自炊の最小単位。

どちらでも良いと言われていたけど登校したら、先生が後ろを向いたとき猫耳のパーカーを着ていることに気づけた。もうそれだけで、学校に来てよかったな!という気分。

帰り道、友達のプレゼントを買いに行った。ちょうどペリエが開店する時間帯とかち合ってしまったので、全部のお店の前を通るたびにうやうやしく挨拶をされて、そんなことしてくれなくっていいのに!と泣きそうになった。わたしのほうがお店にお邪魔させてもらってるだけで、ここはあなたたちの縄張りなのだから、そんな、こちらが頭を下げるべきなのに。

ムーミンを好きな人やスヌーピーを好きな人には、ムーミンスヌーピーをあしらったものをあげるとそれが喜ばれるし、どこにでもいくらでもムーミンスヌーピーデザインのすてきなものは売っている。でもわたしはムーミンのこともスヌーピーのこともたいして好きではない、なぜならムーミンスヌーピーと仲良くなるよりも先に、記号やアイコンとしてムーミンスヌーピーを認識してしまったから。そういうわけで、ムーミンショップでプレゼントを選んだけれど、好きではないムーミンたちの中で率直にすてきだと思うものを選ぼうとする試みはなかなか難しいことだった。ムーミンショップのお姉さんは流暢に丁寧に大きな声で接客をしてくれて、ただ支払いをしているだけなのに、こちらはいかがですか、あちらはいかがですかと提案してきて、やたら広告のポップが出てくるタイプのネットショッピングをしているかのようだった。そんなにがんばらなくてもいいですよ、と思ったけど、もしかしたら、単に私が今日でふたりめの客だから、気力と体力が有り余っているというだけかもしれないな。

家の支度をおおむね完璧にして、それから実家へと出発した。ゼミの先生がかいた本を読みながら電車に乗った。一年生のときは全然つまらないと思っていたけど、今読んでみると格段におもしろい。それは明らかに、この前やめた去年のゼミに所属して「体系的かつアカデミックに作品を捉え分析する」の見方を知ったからだと思う、「ちゃんとできるように」はならなかったけど、引き裂かれながら葛藤したことによる収穫はかなりあった。

帰宅すると、ねこが歓迎してくれた。母とワインを飲み、とても饒舌に喋った。

0422

授業に出て、先生の機械トラブルの隙を縫って洗濯を干したりし、副科うたのレッスンに行った。今日はきちんと寝たしごはんも食べたから、それなりに声は出たけれど、無駄な力みがあるようでそんなに調子がよくはなかった。先生がレッスン室に置いてあるデカい鏡を指差して、「これを持ち上げながら歌ってごらん」というので素直に言うことを聞いてみたものの、鏡にうつる自分の顔面を間近で見ながら歌うのはおかしかった。先生はいたって真面目なので、それもおかしかった。

放課後は、初対面の女の子と映画デートに行った。ほんとうは「好きな人とでかけること」だけをデートと呼びたいのだけど、今ここで言っているのはその語義ではない。「お互いが女の子と恋愛関係になりうる女の子だ」ということがはっきりとわかっている上で、そういうつもりで会っているということ。

映画館の前で待ち合わせたから、最低限の会話しかしないまま隣どうしで映画を見た。2時間ただ隣で同じものを見ていただけなのに、出る頃には少しだけ親しくなったような気がして敬語が抜けていた。近くのカフェで2時間だけお茶をした。ふつうにお互いの勉強していることなどを話して、面接みたいになった。でも、互いの知識や将来や研究内容について話すことができるというのは、おたがいにそれについて興味をもって話せるタイプの人でないとできないことだから、貴重だと思う。優秀な大学の院生で、でも理系だから、全然わたしが関わってないタイプの子という感じで面白かった。

一応、始めに言ったような意味でデートだから、会話の途中途中で淡い「口説かれ」のような文言が織り混ざってきて、でも興味のない男の子にそれをやられるのとは違くて、くすぐったい気持ちになった。「男の子からの口説かれを、それがそうというだけでうれしく受け取ることができて、だからどんどんそれを引き出せるようなタイプの女の子」というのはまわりを見ていてもたまにいるので、彼女たちはたのしいだろうな、と少しうらやましくなった。いやわたしだって、男の子に恋をしうるけれど、わたしが男の子と接する場合の多くは、世間の男/女のバイアスありきの関係性になってしまって、だから圧倒的に既存の「恋愛」の規範をなぞるように口説かれることが多くて、わたしはそういうのを好まないから、そうじゃないパターンを、となるとなかなか恋愛状態になりにくいという、そういう話。結局、恋に恋するタイプの女がいちばん恋を楽しめるってこと。いやそれは嘘かも、わたしはわたしの思う意味でこんなにも恋のたのしさを知っているから!

 

見た映画は「アンモナイトの目覚め」。わたしは「気難しくて賢くてでも冷淡ではなくておまけに少し臆病な若くない女性」ていうのが本当にめちゃくちゃ好きだから、主人公の女性がまさにそういう感じでおいしかった。そう、おいしい筋書きにおいしいキャラクター、という感じの映画だった。相手のシアーシャ・ローナンも「美人で無邪気で素直で若い人妻」という根っからの王道ヒロイン、みたいなキャラクター設定で、百合漫画や百合ラノベみたいなジャンルでも通用するんじゃないかと思うようなふたりぐみだ。

異性愛者の「ラブロマンス」コンテンツは、いつでもどこでも死ぬほど量産されてきて、歴史的にも散々やり尽くされてきたわけだけど、そういう直球の快楽的な「ラブロマンス」をレズビアンの物語においてやってみたら、こうなるのだろうな、というような印象だった。女性の学問の世界からの排除、歴史からの抹消、女性が才能で仕事をすること、などのテーマも触れているのだけど、あくまでも主軸はラブロマンスだった。だからわたしも、気難しいケイト・ウィンスレットの心のやわらかいところにどうやったら触れられるだろう?ともどかしがったり、天使のような笑顔と勢いでもってこちらの心の敷居を踏み破ってくるシアーシャ・ローナンのかわいらしさにメロメロになったり、そういう見方をする。彼女たちの立場になりきって恋愛のよろこびを追体験するような古典的な楽しみ方をやる。(セックスシーンがやけにポルノ調なのも、この映画がフェミニズムシスターフッドを描くより以前に「ラブロマンス」なのだということと関係している気がする)。

映像の美的センスの部分が良いというのももちろんあって、海辺のシーンのキラキラはかがやかしく尊く忘れがたいし、全体的な色調の統一感もお洒落だった。散々言われているように「燃ゆる女の肖像」と似ているところはいくつもあって、特にケイト・ウィンスレットが化石を削る音の質感は、「燃ゆる」の鉛筆や絵筆の音の質感を彷彿とさせた。

しかしやっぱり、「燃ゆる」の静謐な世界、女同士の恋愛と「見る/見られる」問題、映画的な技法が詰め込まれた全体的な完成度、硬派な美しさ、がどうしても私は好きだった。その点を思うと、やっぱり二者は全然別物という感じがする。すてきな作品を語るとき、わざわざ他の作品を持ち出して「どちらが好きか」みたいなことを話すのは野暮だとも思うけれど、これだけ似ている作品だからこそ、「どちらがあなたの今の心に強い反応を引き起こすのか」を聞くことは、その人自身のことをよく言い表すように思う、だから本当はみんなに見てもらって、どっちが好きか聞いてまわりたいほど。ひとりだけツイッターでフォローしている人が「アンモナイトの目覚めのほうが、“未来があって”いい」と言っているのを見かけて、彼女がそう言うというのも含めて、納得だった。わたしは(あの時代設定であるという前提の上で)ふたりの女の恋愛/3人の女の連帯 が「期限付きのユートピア」として描かれたことに旨味を感じているからこそ、逆の人の意見にも、すごく納得した、ということ。

0421

昨夜は夜更かしせずに「とりあえず一旦寝る」としたはずなのに、昼まで起きられなかった。あたたかいので気分もたのしくて、デカいサイズで間抜けな柄の気楽な服をきることにした。

メイクしたりご飯食べたりして余所見はしつつも、意識を授業に向けようと試みはした。なにかひとつでも気づきを得たら合格をあげることにしている。頭が痛くて家を出たくなかったので4限の対面には遅刻した。にしても45分の遅刻なので若干気まずかった。なんだかよくわからないネットワーク接続のどうのこうの、をやっていて、隣の席の人とパソコンをつなげる、そんで「相手のパソコンを演奏する」という取り組みをやっていて(?)その原理も仕組みも操作も面白みも全然わからなかったけど、とりあえず院生のみなさまがすごく親切に手取り足取り教えてくださって、ありがたいことだなあ、と思った。

 

今日は授業後、研究室の後輩の子とお話をしたくて、アポを取っていた。ゼミで喋っていたことがわたしの興味分野とつながるものだったし、その道においてはわたしよりも専門で先駆者、という感じだったから、それからやっぱり、今のところゼミの雰囲気が学年で分断されているようで、仲良くなりたかったから。学年はひとつ下だけど同い年だし、すごく明晰に、知性を滲ませて喋る子なので、ほとんど先輩と喋っているような気持ちの緊張があった。こんなに賢くしっかりした、かつさっぱりした様子なのに(わたしはじっとりしている人間なのでさっぱりしている人間全般への羨望がつねにある)、なぜこんなわたしに対して敬語で喋るの、やりづらい!と思いつつも、3時間ぐらいはおそらく時間をともにしたので、その中で自動的に心が打ち解けた感じはある。時間がすべて。

真剣に打楽器の奏者を目指していた子なので、わたしの同期にはいないタイプで、それだからこそのお話をたくさん聞かせてもらえた。「作る前に演奏がある」と言っていたのはすごく同意だったし、「打楽器の演奏は白黒で絵を描いているイメージ」と言っていたのは眼から鱗でだいじな言葉として刻まれた。打楽器奏者の基礎練用のテキストまで見せてもらって、わたしばかり得るものが大きかったような気がする。

途中からは他研究室の後輩たちも混じっていろいろな話をして、たのしいひとときだった。すずしくやわらかい風が中庭に吹いていた。大学の中庭はいつも日当たりがわるくて角張った建物の感じもつめたくてすこし居心地がわるいけど、夜になるとその冷淡さが誤魔化されるように思う、だからキャンパスでいちばん好きな時間は夜。わたしの同期の友達はその場にひとりもいなくて、もう昔のようにみんなで賑やかに騒ぎながら傷を舐め合うあのだらけた時間は2度と戻ってこないのかもしれないなあと思うと切なかったし、今日の雰囲気はあの日々とはちがったものだったけれど、それはそれですてきだった。

知っている後輩と後輩が喋っているのを見ていると、それは先輩であるわたしに見せる態度とはちがうものだから、いとおしくやさしい気持ちになる。

 

帰宅してごはんを食べてから虚無の時間をやって、のちにLiSAの配信をききながら皿を洗ったり英語のちょっとした文法問題の課題を片付けた。

これは本当にごくごく最近の習慣で、Bluetoothスピーカーで音楽を聴く、とくに同期が作ったプレイリストを勝手に調べて聴く、ということをやっているのだけど、生活の質が爆上がる。かわいい音楽を聴きながら下着のままでケーキを食べながらタイピングした、よかった。